第一章 プリシラ家の侍女
のどかな田舎風景が広がる地方の一つハーバラス。
そこの領主を夫に持つプリシラ男爵夫人は、侍女が起こしに来る前に目を覚ました。しばらく薄暗い部屋で身じろぎもしなかった彼女だったが、ふいに寝台を下りると素足のまま寝室を出た。
居間を通り、廊下へ続く扉を開けた夫人は、しどけない姿のままお気に入りの侍女の名を呼んだ。
「アルフィナ──アルフィナはどこ?」
その細い声は、喧噪にまぎれたら消えてしまいそうなほどであったが、小鳥の囁きにも似た美しい高い声音が、静まった廊下に広がった。
御年三十歳になるプリシラ男爵夫人は、子を授かっていないせいか、年齢よりもずっと若々しく見えた。櫛も通していない豊かな亜麻色の髪は、少しだけからまり、眠たげな双眸は、まだ夢の中をさまよっているかのようにぼんやりとしていた。
どこか危うさを感じさせる儚げな美貌の彼女は、暗闇を恐れる幼子が優しい母を求めるような顔で、足を踏み出した。暖かな季節になったとはいえ、まだ朝方は冷える。木の床はむき出しで、部屋の中のように柔らかな毛皮の敷布はない。磨かれた床から冷気が伝わったのか、ほんの一瞬体を強ばらせたプリシラ男爵夫人だったが、次の瞬間には何ごともなかったかのように歩き出した。
「どうなさいました!」
貴婦人らしからぬ姿のまま自室から出た彼女に気づいたのは、掃除をしようと二階へ上がってきた侍女で、彼女はあわてた様子で部屋からガウンを持ってくると夫人にかけ、冷えきった足にも靴を履かせた。
侍女にされるままのプリシラ男爵夫人は、それでも少しの間は大人しくしていた。だが、部屋の中へと戻そうとした侍女の手を煩わしげに振り払うと、絹の下着の上に柔らかなガウンを軽く体に巻き付けた状態で、夢遊病者のように家の中をさまよった。
「愛しい子。どこへ行ったの?」
「お、奥様、部屋へお戻り下さい……!」
「まあ! なんてはしたない!」
「せめてお召し替えを」
「アルフィナはどこにいるの?」
侍女や使用人の制止にも耳を貸さず、自分を捉えてやまない天使の顔を求めて家中を動き回った。
そうして広間へと続く回廊へさしかかった時、軽やかな美しい声が男爵夫人を呼び止めた。
「もうお目覚めですか、奥様。今日はずいぶんとお早いですね。いつもは日が高く昇った頃に起きられるのに」
くすくすと笑いながら嫌味ともとれる言葉を明るく投げかけてきたのは、男爵夫人が求めていた人物だった。
男爵夫人は、霞みかかっていた双眸に光を取り戻すと、感極まったかのように碧眼を潤ませ、駆け寄った。
「あぁ……っ。アルフィナ、アルフィナ、お願いだから側にいて。わたくしに黙っていなくならないで。怖いわ、とても怖いの」
体を震わせた彼女は、自分よりも小柄な娘にすがりついた。
まるで彼女の方が小さな子供のように、だだをこねて、眦に透明な雫を浮かび上がらせる。
「約束して、離れては嫌よ。あなたがいない世界はとても怖いわ」
慣れた様子で主人の頭を撫でていたアルフィナは、美しい瞳をきらめかせて青白い顔を覗き込んだ。
「怖くなんかないですよ。あたしがいなくても、目を通して見えるものは全く変わりません。ほら、奥様見て。窓から差し込む太陽の恵みが、金色に輝いて……。あたしたちを照らすだけじゃなくて、光に包んで温めてくれる。──来て」
プリシラ男爵夫人を光の中へと導いたアルフィナは、うっとりと目を閉じて光を受けた。
透けるような白い肌が黄金色に輝き、頬にはうっすらと赤みが差した。ほどよく高い鼻はつんと持ち上がり、色づいた小さな唇は、柔らかな笑みが刻まれていた。
布で髪を隠し、地味な装いをしていても、何よりも印象的な瞳を閉じていても、完璧なまでに整った容姿は隠せるはずもなく、貴族のような繊細さを持ち合わせた卵形の顔は、慈愛に溢れていた。
聖母カルアを彷彿とさせる神聖なる雰囲気に、男爵夫人だけでなく居合わせた者たち全員が押し黙り、まるで一枚の尊い絵画のようなそんな美しい光景に魅入っていた。
ふいに瞼を開け、ラピス・ラズリ色の双眸を恍惚とさせながら男爵夫人に言った。
「素晴らしい天からの贈り物。太陽も大地も水も生きとし生けるものの糧。そう奥様が一番恐れている闇すらも贈り物の一つだわ。小鳥のさえずりも、草花の香りも豊かで、こんなにも美しいのに、どうして恐れるの? まだ怖い?」
「いいえ……あぁ、やはりあなたはすべてを浄化させてしまうわ。まるで聖母のよう。わたくしよりも若いのに、どうしてあなたを頼ってしまうのかしら。だれよりも清らかで美しい子、わたくしを見捨てないで。あなたはいるだけで幸せをもたらすわ」
甘い睦言のような囁きに苦く笑ったアルフィナは、困ったように小首を傾げた。
「奥様は浮浪者だったあたしに手をさしのべて下さったんだもの。本当ならあたしみたいなのが城でお仕えすることなんて叶わなかったのに。こうして今のあたしがあるのは奥様のおかげ。閉じてしまいそうだったあたしの人生の扉を開けてくれたのは奥様よ。命の恩人をそう簡単に見捨てるはずないわ。けど、あたしに頼り過ぎないで。あたしはただの人間で、偉くもなんともない。ただ自然を愛し、人を愛し、生きることを愛してるだけ。あたしは為すべき事があるから、いつかは奥様の元から去らなきゃいけないの。知ってるでしょ? ……そんな悲しそうな顔をしないで。あたしの決心が鈍りそうになる」
「なら……」
期待に目を輝かせすがる彼女に、けれどアルフィナは明確な答えを避け、夫人の肩に優しく触れた。
「さぁ、奥様、着替えて。子供じゃないんだから、そんな薄い肌着で屋敷の中を駆け回っては駄目。ね?
みんな奥様が風邪を引かないか心配してる。春だからって大気はまだひんやりとしているもの。あたしはまだどこにも行かない。だから安心して支度をしてきて」
その声は小川のせせらぎのように美しい韻を刻み、夫人の耳に流れ込んだ。
うっとりと聞き惚れていた彼女は、促されるまま、まんじりと待ちかまえていた侍女に導かれて自室に戻っていった。