第六章 散りゆくはアシルの使徒
──アシルの使徒。
水の女神アーシルターバラスがこの世界の祖と考える宗教の一つである。アーバラス教と呼ばれ、その神殿の周りには、主殿を守るかのように五つの塔が建てられたことから、人はいつからか神話に出てくる使徒になぞり、一つ一つの塔に名をつけた。
一になるは、聖なる塔。金をまといて、長をなす。
二になるは、守なる塔。朱をまといて、剣を有す。
三になるは、賢なる塔。蒼をまといて、知を制す。
四になるは、邪なる塔。黒をまといて、血を隠す。
五になるは、武なる塔。白をまといて、正とする。
アシルの使徒とは、武なる塔に住まう者たちの呼び名で、水の女神アーシルターバラスが人に戦う術を与えたときに、真っ先に送った者の名がアシルであった。
主殿には盲目的な忠誠心を植え付けられ、騎士のような生活を送っているといわれている。
「アシルの使徒ねぇ。オレは聞いたことないな」
襲撃の一件後。
部屋としては使えないほど、物は散乱し、血が飛び散ったところにカ幼いカシュターを寝かしつけとくわけにもいかず、別室に移動したアルフィナたちは、ぐずるカシュターをなんとか寝かしつけると、続き扉の奥にある応対室に移った。
フェゼルはさっきのような場合に備えて、続き扉にもたれるように立っていた。口調は普段通りくだけていても、彼の周りはぴりっとした空気が漂っていた。視線はアルフィナに向けられながらも、全身の気は扉の奥に集中している。
彼がカシュターを気にかけているのは、アルフィナが命じたからなのだが、今日のような襲撃者に対して彼ほど頼りになる者はいないだろう。
それはこの屋敷の主人であるラゼスも察したようで、フェゼルに対する不信を真摯な顔の下に隠し、頭を下げて頼み込んでいた。カシュター様を守ってくれと。
「そうね、あんたがハーバラスに来る前の話しだものね。知らなくて当然かも。ここの国って、宗教の自由はあるけど、どっちかっていうと絶対神エッセ=リットを信仰してる人たちのが多いでしょ? だから、そういう人たちから見ると、水の女神アーシルターバラスを崇めるのはとんでもないってことで、邪教とみなされてね、すごかったわよ。お医者様も知ってるでしょ? ハーバラスでなにがあったか」
目の前で始まった戦闘に失神しそうだった老医師は、時間が経って落ち着いてきたのか、温かい紅茶を飲みながら、安堵の息を吐きつつ、ほんの少し憂えた目を隠すかのように睫毛を落とした。
「───あぁ。知っとるとも」
「フェゼルも気づいてると思うけど、のどかな田舎町のくせにハーバラスって特殊なのよ。旦那様がああいう気質のせいか、変わり者が大勢集まってね。それこそ宗教なんて乱れまくってたわ。そんな中、一番多かったのはアーバラス教。理由は知ってる? くだらないのよ。アーバラスとハーバラス。──呼び方が似てるからですって!」
老医師の重々しい空気にあえて触れず、つとめて明るい口調で説明したアルフィナは、最後の文句を言ったあと、吹き出してしまった。
「おっかしいでしょ。たったそれだけの理由でアーバラス教の信者がこぞって移り住んできてたの。それでね、三年前くらいだったかしら。アーバラス教は暗黒神を奉ってるっていう噂が流れたわけよ」
「暗黒神ねぇ。絶対神に刃向かって死者の国に封じられた無様な神を崇拝するなんて、オレだったらかっこ悪くてできないな」
「あら、闇を心酔してるなら暗黒神は絶対でしょ。邪教が崇拝してるのも暗黒神よ。産みの親でもある絶対神を手にかけようとした罪は重い。けれど、彼の罪はほかにあるわ。生者を死人にするっていう禁忌を犯した彼には、ね。死神だって絶対神の判断なしに人の命を奪わないっていうのに、暗黒神は掟を破って禁断の箱を開けてしまった。そこから光と闇がはい出てきて、暗黒神の顔をくらったっていう逸話があるわね。だから神話に出てくる暗黒神は仮面を被ってるんですって」
「あぁ、なるほど。だから仮面か!」
フェゼルは謎が解けたのが嬉しかったのか、破顔した。
子供みたいな無邪気な笑みに、アルフィナも小さく笑みを漏らす。
「そう。あんたの考えは当たってると思うわ。アシルの使徒も仮面をつけてた。そこに教皇は目を付けたのね。現教皇は絶対神こそこの世の理と公言してはばからないものね。困ったことよ。それでほかの宗教は肩身が狭いんだから。それで、教皇は、アーバラス教が暗黒神を祀ってる手がかりを掴んだみたいでね……四年前のことよ。いっせいに、血による粛正が行われたわ」
「……それが世に言う天声の業火、か。ずいぶんと酷かったらしいな。オレがいたところは、アーバラス教の信者がいなかったから被害はなかったけど、ほかは口を覆いたくなるほど惨たんたる有様だったそうだ」
「そう……。ほんとそうだったわ。改宗しない者は容赦なく役人の手にかけられてね……。ハーバラスは血の湖と化したわ。信者の人数が多かっただけにね。……でも、彼らだって黙ってやられてたわけじゃないの。そこで出てきたのが、アシルの使徒よ。戦う兵士って呼び名がぴったりかもしれないわね。あたしもそのとき初めてアシルの使徒を見たけど……何人か強い者はいたけど、あとは即席の寄せ集めみたいな感じだったわね。体格がずいぶんと小さい子もいたから、もしかしたら子供もまじっていたのかも。役人と激しい攻防を繰り広げてたみたいだけど、ほとんどが死んだわ……」
アルフィナは声を落とした。
せい惨で、おぞましい改革であった。
聖なる存在であるはずの教皇が、血の教皇と呼ばれるようになったのはそれからだ。
そして、ほかの宗教がなりを潜めるようになったのもそれから……。
現在では、絶対神信仰以外の宗教は邪教とされ、それ以外の神を崇める者は異教徒と弾圧を受け、処罰の対象となった。
そのせいで、ハーバラスの司祭とアルフィナは対立するようになったのだ。
アルフィナは、絶対神を愛しはするが、ほかの神々も敬っている。
それは、教皇の教えに反していた。
「宗教なんて関係ないのに……」
「──アルフィナ、頼むからそんな恐ろしいことを口にせんでくれ。せっかくラザス様の怒りも弱まったというに……」
「あら、けどほんとのことだわ。神は神なのに、どうしてわけて考える必要があるの?」
老医師は気むずかしい顔で首を振ると、お手上げだとばかり肩をすくめた。
「面白い考えだな」
ふいに聞こえた美声に、フェゼルが真っ先に反応した。
剣先が声の人物の喉に向けられる。
「物知りな聖女に、腕の良い忠実な犬、か」
くくっと喉の奥でおかしげに嗤うと、完全には血の痕がぬぐい取られていない剣を一瞥した。恐れもせず刃に触れると、すっと触れた。
「なるほど、いい剣だ。サビもしないか」
「紫狼の騎士、離れなさい。彼は敵じゃないわ」
アルフィナの鋭い言葉に、フェゼルが渋い表情で、けれど素早く剣をしまった。そして興味はないとばかりに、先ほどまでいた場所に戻った。
「孤高の黒騎士さん。今頃現れて何の用だっていうの?」
「アスラン殿、どこへ行かれていたのか。ラザス様は今……」
二人から非難を浴びた孤高の黒騎士──アスランは、おやっという風に片眉をあげた。
「お二方。なにやら思い違いをしているようだな。ラザスとは浅くないつき合いとはいえ、なぜ私が力を貸さなければならない? 無能な兵士を多く抱えておいて、侵入されるとはラザスも地に墜ちたな。いいかげん子守などやめてしまえばいいものを」
「アスラン殿……! い、いかに貴方でも言っていいことと悪いことが……!」
「なにやら面白い会話が聞こえたから来てみたが──興が失せたな」
孤高の黒騎士は、冷めた顔で身を翻した。
とたん、我に返ったアルフィナがあとを追う。
「アルフィナ!」
「紫狼の騎士、あんたはあの子を守って!」
そう言い捨てて、扉の外に出ると、彼の姿はどこにもなかった。
扉の脇に立っていた兵士が何ごとかとこちらを伺っているが、それにかまわずアルフィナは孤高の黒騎士の気配を必死に探った。
どっちに行った?
気配を殺しているのか、一般人のものしかわからない。
と、そのとき。
一瞬だけ青白いような気を感じた。
湖畔の冷たい水のような気配に、目を見開いたアルフィナは駆けだした。
そのあとを兵士はついてきたりはしなかった。
(少しは心を開いてくれた証かしら)
そう思いつつ明るい回廊を曲がり、渡り廊下に飛び出した。
「……ここから感じたんだけど」
きょろきょろと辺りを見回すが、それらしい人物はいなかった。
明るい日差しの中で、肩を落としたアルフィナの耳に、声が落ちた。
「君はいったい何者だ?」
「!」
後ろを振り返ったアルフィナの目に、美しい男の姿が映る。
「孤高の黒騎士……さすがね、わざとあたしを呼び寄せたの? あたしの実力を試すために?」
「君は、面白い。そして謎めいている。私にとって興味深い人間だ」
唇の端を軽く持ち上げたアスランは、アルフィナの細い顎に手をかけた。
「私をなぜ知っている?」
「……っ」
目の奥は笑っていなかった。
冷え冷えとした双眸がアルフィナを捕らえる。
心の奥まで見透かされるような美しい蒼の瞳がアルフィナの顔を映し出していた。
息がつまるような苦しさを覚えながら、声をしぼり出した。
「あたしはアルフィナ。…姓はないわ。ハーバラスの領主が夫人にお仕えする者よ」
「使用人にしては知りすぎている、そして…腕も立つ。カシュターがいなければ使徒を倒していただろうな」
「見てたのね! ぎりぎりまで出てこなかったのは、あたしを見極めるため?」
「見極める? はっ。戯れ言を。ただ興味がわいただけだ。小娘らしくない君に」
「それでもいい。あんたはあたしに興味を持った。それは事実。そして、今もまだ興味を持っている。違う?」
「小賢しいな。私の質問には答えず、己が主導権を握ろうというのか」
「それはうがちすぎよ。あたしはただ騎士が好きだったそれだけのことよ。あんただけじゃない、あたしはほかにも騎士を知ってるわ」
「あぁ──そういえば、犬がいたな。鋭い牙を隠し持った犬が」
馬鹿にした物言いに、むっとしたアルフィナは、顎を捉える手を振り払った。
「あれはあたしの騎士よ! あんたに蔑む権利はないわ!」
儚げな風情とは対照的に、ラピス・ラズリをはめ込んだかのような美しい双眸は、怒りによって目映い光を宿していた。
怒っていても、清らかさの漂う顔は聖女そのもので、思わず跪きたくなるような衝動を覚えるほどの光輝と気品を放っていた。
見惚れるのではない、目が吸い寄せられるのだ。
アスランは、瞬きもせずにアルフィナを見つめていた。
「──そうか、君が主人か。あれほどの騎士が君に膝を折ったのか」
ふいに目をそらしたアスランは、感情のない声で呟いた。
「あたしはあたしに尽くしてくれる騎士たちが好き。とっても大事よ。家族みたいにね……。だからだれかに馬鹿にされるのは絶対に許せない。あんたでもよ──孤高の黒騎士」
「君にそこまで想われてあの者も嬉しいだろうな。騎士にとって主人の信を得ることほど心躍らせるものはない」
「あんたがそれを言うの? 主人を持たないあんたが……」
「私の目にかなう者がいないからだ」
「じゃあ──あたしは?」
緊張で震える声を平静に保ちながら、アスランを見上げる、
不敵に笑っていた彼は、笑みを消すとアルフィナの視線を真正面から受け止めた。
一秒、二秒……。
時の流れがこんなにもゆっくりと感じられたのは初めてだった。
感情をすべて落とした彼からは、何を考えてるのかうかがい知れなかった。
それが余計に胸をざわめかせた。
しばらくして、彼の薄い唇が開いた。
とくんっとくんっと速くなる心臓にそっと手を置いたアルフィナは、彼の答えを神妙な面持ちで待った。
「君は────……」
「あぁ! こちらにお出ででしたか! お嬢さん、御館様がお呼びです……あ、アスラン様もご一緒でしたか。お久しぶりですっ」
アスランの言葉を塞ぐかのように若い男の声が響き渡った。
一瞬、その男に殺意を覚えたアルフィナは、ため息を飲み込んでから駆け寄ってきた男に向き直った。
「屋敷の主人は、今忙しいはずでしょ?」
「は、はぁ…、俺はただ呼んでこいって言われただけなんで……」
困ったように頭をかいた男は、そう言ってアルフィナを連れて行こうとした。
その背に、アスランが声をかけた。
「私も行こう」