その三
「ラザス様がお呼びです」
そう告げたのは、この屋敷に来たときに会った執事だった。
相も変わらず、執事らしくない男は、慇懃に頭を下げるとアルフィナに目を合わせた。
「……だそうよ、フェゼル。あんたはお留守番ね」
「悪いけど、その願いはきけない。昨日だって危なかったのに。あの男のもとに一人で行かせるわけないだろ」
「そこも見てたの……。あたしの命令なんてちっとも守ってなかったのね」
ちょっとトゲを含んだ物言いに、フェゼルはしまったとばかりに顔をしかめた。
「まぁ、いいわ。執事さん、あたしこの人も一緒じゃないと行かないわ」
執事は不服そうな顔を一瞬で穏やかな笑みにかえると、主人に訊いて参りますと去っていった。
それからしばらくして戻った彼は、承諾の意を伝え、アルフィナとフェゼルを階下にある部屋へ案内した。
「それでは、わたくしは失礼します」
「ご苦労だった」
ラザスはねぎらいの言葉をかけると、アルフィナたちに向き直った。
そこには老医師もいた。老医師は、寝台側の丸椅子に座っていた。
と、その時、薄い膜のように垂れ下がった布越しに、幼い声が聞こえてきた。
「来たのか!」
「カシュター様、お声が高いですぞ」
「余は、恩人には感謝を示すのじゃ」
アルフィナは、あっと目を見開いた。
高慢な物言いは、聞き違いようもなく、あの助けた子供のものに違いない。
「クロイツにも余が治せなんだ。余を診に来る者らは、どれもヘボばかりで、余は不愉快じゃった。不自由な生活にはあきあきしておったのじゃ。さ、顔を見せい。許可するぞ」
傲慢さのある態度に、ラザスも困ったように苦笑してみせたものの、態度を改めさせようとはしなかった。
アルフィナは、頬はこけているが、表情の明るくなったラザスの顔をじっと観察した。
老医師が煎じた薬を飲んだのだろう。
毎日三回以上、花びらを煎じたお茶を飲めば、体内から毒は出て行くだろう。
長い間毒を飲んでいたらしいから、完全に治るには時間がかかるかしもれない。
「手数をかけるが、カシュター様に会っていただけないか」
「そのために呼ばれたんでしょ」
ふとラザスの視線が扉にもたれかかっているフェゼルに移る。
二人の間に一瞬緊張したような空気が流れたが、ラザスが謝罪するように腰を折ったことで、すぐに消え去った。
ラザスは寝台を覆っていた絹の布を横に引いた。
「カシュター様、こちらがその娘です」
「うむ。よく来たな。余はカシュターじゃ。光栄に思え。余の名を口にしてよい……あ!」
カシュターと名乗った少年は、半身を起こし、クッションに寄りかかっていた。
顔を上げた幼い顔は、やはり可憐で、人形のように美しかった。
アルフィナを見ると、ぱくぱくと口を動かし、行儀悪く指までさしてきた。
「お主は───っ!」
「知り合いですか?」
ラザスが驚いたように尋ねる。
かぁっと顔を赤らめもごもごと口の中で濁すカシュターにかわり、アルフィナが説明した。
「庭園で倒れてたのをあたしが見つけたのよ。あたしにつけてた見張りの兵士から聞いてない?」
「あぁ──あの者は、謹慎させている。サイに任せていたが、そうか…あそこで……。アスランもわかって黙っていたな」
「アスラン……」
どこかで聞いた名だと考え込んだアルフィナの脳裏に、白をまとった襲撃者と孤高の黒騎士の姿が思い浮かぶ。
毒のことといい、襲撃のことといい、この子供が必ず関わっている。確実に命を狙われているとしか思えない。
「ねぇ、この子は命を狙われているの?」
子供に配慮して声を潜めて問えば、ラザスの顔に緊張が走った。
「……! どうして…そうか、その場に居合わせたのだな。なんということだ! 庭園に無断で入り…いや、それには感謝を……だが、いやいやカシュター様のために……しかし、兵士はいったい何を……なぜ止めに入らなかったのか……」
難しい顔で意味不明な言葉を呟くラザス。
「あぁ、関係のない者を巻き込んで……いや、知られてしまったことのほうが重大か……。──アルフィナと言ったな。この屋敷で起こったことはすべて他言無用で頼む。もし外に漏れるようなことがあれば、私はお前の口を封じなければならない。私とカシュター様の長きにわたった病名を容易く解き明かしてくれたことには感謝しよう。命の恩人に対して脅迫するのは騎士道に反するが……、これもすべてはカシュター様をお守りするため」
すっと面を上げたラザスの双眸がアルフィナを射抜いた。
戯れ言は許されない厳しい眼差しに、息を呑んだアルフィナは、苦笑を浮かべた。
もとよりだれにも話すつもりはなかった。
フェゼルにだって話していなかったのに。
ちらっとフェゼルのほうをうかがうと、大体の内容を察したのか、不機嫌そうな顔をしていた。
なぜ言わなかったと瞳が語っている。
困ったことと、肩をすくめたアルフィナの耳に、幼子の声が飛び込んでくる。
「ラザス! 失礼だぞ! この卑しい位の者は余を守ってくれたのだ……っ。余の命の恩人に対して無礼であろう!」
「守る……? この娘が……?」
ラザスがぶしつけな視線をアルフィナの全身にはわせた。
信じていない目に、カシュターが唇をとがらせる。
「そうじゃ。白の者に負けぬほど強かったぞ。余が五体満足だったのは、そこな娘のおかげじゃ」
「てっきりアスランが退けたものかと……なぜもっと早くおっしゃらなかったんですか!」
語尾を強めたラザスに、びくっと震えたカシュターが視線を泳がし、意を決したように口を開いた。
「……ぴりぴりしてたではないか。ラザスはこの頃余の話しもまともに聞いてくれなんだ。余の気持ちをちっともわかってくれぬ」
「だから何度もこの部屋を脱走したのですか……」
「よ、余はっ、ラザスに迎えに来て欲しかったのじゃ……っ!」
唇を噛んだカシュターは、大きな双眸を潤ませた。
それは初めて吐露された想いだったのだろう。
ラザスは硬直すると、カシュターの言葉を噛みしめるように呟いた。
「私に……カシュター様、もったいないお言葉です」
「余は…、余は、そなたを第二の父と慕っておる、のじゃ」
恥ずかしげに、けれど素っ気なく出た言葉は、彼の本心だったのだろう。
流れる穏やかな雰囲気。
ふと老医師のほうを見れば、彼はそっと目の端を拭っていた。
アルフィナの視線に気づいたのか、目が合うと微笑した。そして、よかったといいたげに頷いた。
「──アルフィナ」
聞き落としそうなほどの小さな呼び声に、すぐさま反応を示したアルフィナは、フェゼルのほうに目だけを動かした。
彼はわずかに顔を横に動かし、顎をしゃくった。
それがなにを示すのか察したアルフィナは、視線をラゼスのほうへ戻した。
「ラゼスさん」
「あぁ、すまない。存在を忘れていたつもりは……」
「違う。気づかない? 扉の外に気配が三つ。それまであった兵士の気配が五つ──消えたわ」
囁くように言った。
「……!」
「あんたはその子を守りなさい。あたしはお医者様を守るから」
「ラザス……?」
漂う雰囲気に、なにかを感じたのか、カシュターが不安そうに視線をさまよわせる。
「紫狼の騎士───!」
「御意」
フェゼルは剣を手にすると飛んだ。
次の瞬間、扉が轟音をたてて壊れる。
ラザスが剣を片手に、子供を庇うように立ったのを見届けてから、懐から短剣を取り出したアルフィナは老医師のもとへ駆け寄った。
「ア、アルフィナ……っ、な、なんだね、」
丸椅子を倒して立ち上がった老医師は、どもりながら尋ねた。
「落ち着いて、お医者様。あんたはあたしが守るから」
白い衣装に身を包んだ者たちが、音も立てずに入ってくる。
頭からフードを被り、白い面をつけている。
前とは違い、判別が不可能であった。
「この中に相手した金髪の人がいるのかしらね」
好戦的に口の端を持ち上げたアルフィナは、まず先に子供のほうへ向かった三人の内一人に手近にあった花瓶を投げつけた。
ガシャンッ
壁に当たって砕け散った高価そうな花瓶。
予期していたとはいえ、軽々と花瓶をよけられほんの少し悔しいアルフィナは、舌打ちした。
「さぁ、こっちに来なさい! あんたの相手はあたしがしてあげる」
フェゼルも一人を引き受けたようで、あっちは不満そうに剣を振り回していた。
どうやら彼にとっては、遊び相手にもならないらしい。
ラゼスのほうへ視線をやると、彼は顔を歪め、敵の剣を受け止めていた。
やはり守りながら戦うのは苦労するのだろう。
「……っと、他人の心配をしてる場合じゃないわね。お医者様、斬られたくなかったら隅でじっとしててね」
老医師は慌てて窓側に行くと、ガタガタと震えながらへばりついた。
キイ────ッン
剣身のふれ合う音が、あちこちで響く。
アルフィナは、眦に力を入れると、短剣を構えた。
「あんたたちの目的はようやくわかったけど、なぜあの子を殺そうとするのかしらね。雇い主はだれかしら……」
小首を傾げながら、襲い来る剣を軽々とよけていたアルフィナは、足に力を込めると前に跳躍した。
短剣を逆手に持ち替え、脇腹を斬りつけようとしたが、彼の動きのほうが一瞬速かった。
剣をアルフィナの頭目がけて振り下ろそうとする。
しかし、アルフィナも気配で察してとっさに横に飛んだ。
「……っぅ」
剣先が左肩をかすめたようで、服が裂けていた。
それほど深くなかったのは幸いだろう。
一進一退の攻防を繰り返しながら、アルフィナは冷静に場を見ていた。
フェゼルのほうはもう片がつきそうだ。相手の動きを余裕の顔で見きりながら、剣をふるっていた。
だが。ラゼスのほうは───……。
眉を寄せたアルフィナは、紫狼の騎士に命じた。
「フェゼル、遊んでないでさっさと片付けて」
とたん、彼の雰囲気が変わった。
すっと目を細めた彼は、敵が戸惑ったすきを見逃さず、剣を心臓に突き刺していた。
そのまま、目にもとまらぬ速さでラザスのもとへ駆けると、ラザスが苦戦を強いられていた敵の首をはね飛ばした。
顔色一つ変えず血がしたたり落ちる剣をふるったフェゼルは、残りの一人に視線を定めた。
形勢が不利と悟った襲撃者が、窓から逃げようとしたが、アルフィナは彼の足めがけて短剣を放った。
「く……ぅ、あ……っ」
足を引きずり、倒れる襲撃者。
その側では、老医師が顔を真っ青にして床にへたり込んでいた。
「さて、どうしようかしら。───あぁ、やっと思い出したわ。アシルの使徒さん」
剣の柄に彫られた刻印を目にしたアルフィナは、喉につかえた小骨がとれたかのようにすっきりした顔で、呻く襲撃者を見下ろした。
「まさか、まだ生き残ってたなんてね……」