そのニ
その夜。
庭園に入ることを許されたアルフィナは、月明かりの下でぼんやりとたたずんでいた。
「綺麗な満月……」
アルフィナはたった一人でここにいる。
それを望んだから。
この場所には一人で来たかったから、フェゼルと老医師は部屋にいる。
見張りの兵士は角のところにいたけれど、今のアルフィナには気にならなかった。
満月の夜に花開く、月下草。
まさか異国の地で目にすることができるとは……。
神々しく輝く満月の下で優麗に咲き乱れる月下草。銀色の花弁が宝石のように輝く。月明かりの下だからこそなおいっそうときらめきながら眼前に広がっていた。
「母様……」
この月下草にたとえられて月華の姫と呼ばれていた母。
凛とした高貴な美しさの中に消えてしまいそうな儚さが母と似ていると思った。
泣き枯れたと思っていた涙がこみ上げてくる。
心臓がきゅっと苦しくなり、緩んだ目尻から一筋の雫がこぼれ落ちた。
月下草に手を伸ばそうとして、けれどなぜか爪ほどの距離をあけたまま、指先が滑らかな花弁に触れることはなかった。
かたかたと震える指先をもう一方の手でおさえ、そっと下ろした。
触れるのが怖くて。
過去を思い出すのが幸せだけど辛くて。
アルフィナは、一歩後ずさった。
こんな情けない姿を見られたくなかったから一人で来たというのに。
「あたしっていつからこんなに臆病者になったんだろ」
花を手折らねばならないのに、なぜか手が動かなかった。
もう二度と──宮殿でしか見られないと思っていたのに。
「──月、玲瓏たるや
月華の君
花、匂い立つや
月下草
月の化身とうたわれし
その美貌
あまねく響き
とこしえに」
詩を口ずさんだアルフィナは、静かに目を閉じ、今度は歌うように調子をつけた。
切なげな歌声がひっそりとした中をかけていった。
けれどそれを破るかのように低音の音が重なった。
「……けれどついに名花は手折られ、悪魔のもとへ
月の女神と
闇の王
生まれ出るは
悲劇か
喜劇か
定かにあらず」
ハッと我に返ったアルフィナの目に飛び込んできたのはこの屋敷の主人の姿だった。
「なんで……」
昨日会ったときよりも更に憔悴した様子の男は、強ばった顔のまま近づいてきた。
「……」
「なんであんたが知ってるの!」
「……月華の君の詩を知らぬ者はいないだろう。あの方は、すべての貴族の若者の憧れの的であり、恋い慕う存在であった。まさか、この年になって再び詩歌を耳にするとは、な」
男──ラザスは、感慨深げに呟くとアルフィナにハンカチを渡した。
涙をふけということなのだろう。
小さく礼を言って受け取ったアルフィナは、驚いたひょうしに引っ込んだ雫のかけらをそっと拭った。
「もしかして、月下草の苗床はあんたが?」
「あぁ───そうだ。あの方に願い出てわけてもらった」
最初に会ったときよりも対応が柔らかなのは気のせいではないだろう。
顔色は悪いのに、にじみ出ている雰囲気はどこか落ち着いていた。
「最初は鉢ほどしかなかったものが、今はこんなに成長し、咲き誇っている。まるであの方のようだ……」
「綺麗よ……けど、毒もある。月下草にちなんで呼称をつけた者は馬鹿よ。月下草の真の姿を知らない。月が隠れれば毒草となるのに」
「だが、これ以上にあの方に相応しい花はあるまい。これほどまでに近寄りがたい存在感の中に、触れれば壊れてしまいそうな繊細さを含む花は」
「昔月華の姫と呼ばれていた者と親しかったの?」
「親しい……どうだろうな。だが、あの方は私のすべてだった。すべてを捧げたいと思える方だったよ」
淡々とした物言いは、やけに熱く響いた。
単調だからこそその声音の中に宿る想いは強い。
(この人は母様を知る人なんだ……)
それも知人ではなく、それなりに親しい間柄だったのかもしれない。
「──お医者様から話しを聞いたの? だからここに来たのね。月華の姫から直接もらったなら、月下草の蕾が人体にどんな害をなすか説明されたはずよ。立ち入り禁止にしておけば安全と思ったの?」
「立ち入りを禁じたのは、別の理由からだ。ここは私の聖域だった。毒のことなど忘れていたさ。満月の夜だけ愛でることのできるこの美しいたおやかな花を見て、禍々しい毒花とどうして思えよう」
やけに饒舌に語るラゼス。
この庭園がそうさせているのだろうか。
それとも月華の姫を知る者に出会えたからなのだろう。
多分、どっちもなんだろうとアルフィナは思った。
月下草の効能をアルフィナが知っていたことを老医師から聞いたとき、アルフィナが少しでも月華の姫を知っていると勘づいてしまったのだろう。だからこそ毒に蝕まれている体を休ませることもせずに、ここへ現れたのかもしれない。
「……たいした裏切りね。そうよ、裏切りよ。月華の姫に対する想い語っておきながら、どうしてそう簡単に愛しい人の言葉が忘れられるの? 月下草が美しいと同時に危険な花であるからフィラデルの一部にしか咲かせていないのに。それがどんな意味を持つか月華の姫は理解してたはずよ。なのにあんたのために分け与えてしまった。あんたを信じていたからじゃないの? しっかりと管理をしてくれると信じていたからあんたにあげたんでしょ? なのに、現実を見てごらんなさいよ。あんたの認識の甘さが、今回の病を招いているのよ」
それは厳しい言葉だった。
ラザスは虚を突かれたように瞠目すると、苦渋を滲ませ片手で顔を覆った。
「おぉ…なんということだ。私が……私のせいで、」
「後悔してもしかたないわ。死人がでなかっただけよしとしなければね。毒素が体内から消えれば、精神も安定して元気になるわ」
ラザスはふいに顔を上げるとアルフィナを訝しげに見下ろした。
「お前はいったい何者か。月下草のことだけでなく、あの方についても知っているようだな。フィラデルの者か? いや、そうだろうな。もしや、あの方に仕えていたのか? 年齢からみると親類が仕えていたのかもしれないな。あの悲劇的な出来事を知っているか?」
「知ってるわ……」
「真実は定かではない。吟遊詩人の語りはどうも信じられん。かといって私の調べでは限りがある。なあ、聞かせてくれないか。もしもお前が真実を知っているならば」
「知ってどうするの? 月華の姫はもうこの世にはいないわ。王の逆鱗に触れて一族は滅んでしまった。公爵家に仕えていた使用人もね。みんな、み~んな殺されたわ。悪魔の印を持っているとされてね」
「だが、公爵は闇と関わりがあった。違うか? 悪魔と契約をしたと噂されていた公爵が、なんの咎めも受けなかったのが不思議だ。月華の君も公爵のせいで変わられたのだ。名のある貴族たちとふしだらな生活を送っていたというのは、私の耳にも届いていた。──あぁ、清らかだったおのお方が、あぁ、そうだ!
よもや淫売のように体を売るとは……っ」
怒りを押し殺した声音は、語尾が微かにかすれていた。
それまでの和らいだ表情が消え去り、苛立った、それでいて辛そうな顔が表れる。
「くそ……っ。なぜ、なぜ────っ!」
ラザスは、いきなり月下草を握りつぶすと、地面にちぎり捨てた。
「ぁ……」
目を見張ったアルフィナは、荒らされていく月下草を前に呆然とたたずんでいた。
むせかえるような月下草の匂いに包まれながら、震える手で無惨に潰れた花を手にすると、そっと胸元に引き寄せた。
アルフィナは、まなじりをつり上げると、自分よりだいぶ体格のよいラザスに向かっていった。
「やめなさい!」
気が触れたような彼の行動が毒のせいなのか、それとも感情が高ぶりすぎたためなのかアルフィナにはわからなかった。
しかし、どちらにせよ、ラザスの行動は許せなかった。
血走ったラザスの目がアルフィナをとらえる。
とたん憎悪に歪むのを間近で見つめながら、ふと彼が憐れに思えた。
「女など──! しょせん淫婦でしかない! あぁ、聖書の通りだ。そうだ、女は男を堕落させる。あの方が……、そうであったようにっ。月華の君はもういない。語り継がれるのは、娼婦のように振る舞った愚かな女の話しだ!」
「──それを信じてるならなんでそんなに悲しげな瞳をしてるの? 月華の姫が憎いのね、けれど憎みきれない? 罵り、蔑んでおきながら、あんたは月華の姫との思い出の品を焼き払おうとしない。この場所、あんたの聖域なんでしょ? 心の底では、ほんとは信じてるんじゃないの? 月華の姫のこと、」
「うるさい! 貴様になにがわかる!」
ラザスは腰に差していた剣を抜き、アルフィナに襲いかかってきた。
「かわいそうな人……」
アルフィナは憂えた眼差しでラザスを見つめると、すっと一歩下がって避けた。
雑な動きの剣筋を見切れないほど弱くはない。
けれど、彼を傷つけるわけにもいかず、懐にある短剣は抜こうとしなかった。
角にいる兵士も異変には気づいているようだが、駆け寄ってくる気配はない。
それほどまでに禁止区域への立ち入り制限が徹底されているのだろう。
洗練されていない乱れた動きの剣を振り回すラザスの姿が、なぜか泣いているように見えた。
「そう…今も好きなんだ。月華の姫を今でも愛してるのね」
「違う! 私は───……」
彼の手から剣が落ちた。
がっくりと膝をつくラザスの側へ寄ったアルフィナは、裾が汚れるのもかまわず、膝をついた。
びくりと震える彼の額にすっと指先をあてた。
「心安らかなれ、穏やかなれ、自然の恵み、神の恵みが頭上に降り注ぎ、いかなる苦難も苦痛も禍もすべて神の御心の計らいによって取り除かれますように。あなたはこれまで悩んできた。苦しんできた。でも、もう大丈夫よ。いついかなるときも主は側におられ、いついかなるときも主の眼差しは注がれる。この先に、あなたの喜びがありますように。主──エッセ=リットに願います。あなたの道に光りと幸いあれ。そして願わくば、女性に対する不信が拭われますように」
「……ッ」
「ねぇ、噂ってね、あてにならないものよ。月華の姫の人間性を知っているなら、わかるでしょ。気高く美しく、けれど儚さを持った人。あんただけは信じてあげてよ。周りの言葉に惑わされないで……」
それは心からの願いであった。
多くの人が月華の君をふしだらな姫と記憶していることだろう。
夫をなくし、未亡人となった公爵夫人が、どのような気持ちで生きたかアルフィナは知らない。
側にいることが叶わなかったアルフィナに、心中を察することはできない。
けれど、父を愛していた母が、複数の男と関係を持ったとは信じられない。
否、信じない。
(母様は殺された。それだけは真実よ)
アルフィナが気づいたとき、すでに母は事切れる寸前であった。
血に濡れた腹部を押さえ、それでも微笑を浮かべていた母。
『ごめんなさいね…アルフィナ。愛しい子。貴女を置いていかなければならないことを許してね』
『叔父様が……! そうでしょ、この部屋からこそこそ出てくるのを見たわ!』
『あの子も苦しんで……ぅっ』
『母様ッ!』
『お逃げ。王の手の届かないところへ……』
光りを失った目。
糸の切れた人形のようにがくんと落ちた手。
そのすべてがアルフィナにはゆっくりと感じられた。
そして、すべての元凶が叔父である国王のせいだと悟ったのだ。
父の死も。
母の死も。
母は殺されたはずなのに、なぜか自害という形になって闇に葬られてしまった。
精神に異常をきたしていたんだと弁をふるう国王におされ、議会は動いた。
『闇に浸食された領地をこのまま放っておいてよいのか!』
『皆殺しにしてしまえ!』
その声が日ごとに高まり、公爵が所有していた領地はすべて焼き払われた。その地に住んでいた者ともども。
彼らはアルフィナが生きていることを知らないだろう。
アルフィナと年格好の似た者が、犠牲となったから。
ひとり、追い払われるように城を追い出されたアルフィナの目に映ったのは、燃えさかる町であった。
アルフィナはぎゅっと目を瞑り、こみ上げてくるものをやり過ごした。
過去は振り返りたくなかった。
もう過ぎてしまったことだから。
思い出しても憎しみと怒りと…悲しみしか浮かんでこない。
「……あたしってば、まだまだね。フェゼルたちには後ろを振り返るなってかっこいいこと言ってるのに」
ため息混じりの呟きは苦かった。
「──アルフィナ」
ふいに感じた温もり。
背後から包まれるように抱きしめられたアルフィナは、息を詰めたあと、嘆息した。
「来るなって言ったでしょ」
「貴女が泣いてるように思えたから……」
「いつから見てたのよ。気配を殺されると探れないから悔しいわね。……大丈夫よ。ただ感傷に浸ってただけ」
「オレが側にいるから。アルフィナ、決して貴女を独りにさせない。貴女の力になりたい」
真摯な声だったが、ほんの少し語尾が震えていた。
顔は見えなかったが、たぶん切なげな表情をしているのだろう。
「オレは……オレたちは、アルフィナのことを何も知らない。ただ、復讐したい相手がいるとしか。そのためにオレたちが必要だということしか──、知らない。それでもいい。貴女が何者であっても、天使ではなく、復讐に燃える女神だとしても、オレには貴女が必要だ。荷を分かち合いたいとは言わない。それでも、側にいるだけは許してくれないだろうか」
「……ずいぶん大げさね。けど、ありがとう、紫狼の騎士。今のあたしにはとっても染みこんでくる言葉だわ」
首に回された腕に触れたアルフィナは、目を閉じた。
(神様……、あたしは幸せね。あたしを想ってくれる人がいる。これ以上の幸せってあるかしら)