その三
それからしばらく。
あれから手を付けられることなく放置された料理がすっかり冷めた頃、老医師がやって来た。
「待ってたわよ、お医者様。…あらあら、よほど急いで来てくれたのね」
肩で大きく息をしていた老医師は、からからと笑うアルフィナをにらみ付けた。
「憐れな老いぼれをちっとは労ってくれ……」
「では、ご老体。忙しい中お越し頂き恐悦至極に存じます。どうぞそちらの椅子におかけ下さい」
フェゼルがわざとらしく腰を折り、お辞儀をした。
「──で、話しとは? アルフィナのほうから呼び出すとはなんとも珍しい」
どこか疲れている様子の老医師は、身を投げ出すかのように背をもたれて座った。
「お医者様、顔色が悪い。疲れてる? たった一日でずいぶんと年をとったみたい」
精彩を欠いた老医師の顔を正面から見つめたアルフィナは、かすかに眉を寄せた。
「そんなに患者さんの容態よくないの?」
「──あぁ、原因が…困ったことに見つけられん。マリアンナのときのように救えないのかと思うと……。わしは医師に向かんのかもしれんな。いくら技量を積み、薬学の知識はあっても、それは病を癒すことには繋がらない。今日ほど己の慢心さに気づいた日はないのぅ。優れた腕を持っていると過信しすぎたよ」
「……そうかしら? お医者様は、立派な方よ。こんなに世の中は人であふれているんだもの。病だってその数ほど存在すると思わない? 医学書にだって記されていない病は、それこそ星の数ほど存在するでしょうよ。あたしはお医者様が多くの患者を癒してきたのを知ってるわ。奥様もリティーも、城の者たちの多くがお医者様の世話になってる。お医者様はちっともヤブ医者じゃないわ。ハーバラス一有能なお医者様よ。そんなに悲観することない」
「だが……」
老医師の顔色は晴れない。
マリアンナの病名が特定できなかったのがよほど堪えたのだろう。
アルフィナは気づかなかったが、ずっと引きずっていたのかもしれない。
そしてまた己の力では救えない患者に出会い挫折してしまったのだろう。
「お医者様なら大丈夫よ。だって、マリアンナのためにあんなに必死になってくれた。多くの医師が見捨てた中、お医者様だけは最後まで付き合ってくれた。あたしが知らないと思う? マリアンナのために国中の医学書を買いあさってくれたこと。あたしはちゃんと知ってるわ。お医者様が患者のために必死になって診てくれたことちゃんとわかってる。だからそんなに嘆かないで。あんたは医師の中の医師。王家に仕える医師団にだって負けるとも劣らない。博識で、聡明で、いい腕を持ってる。医学書に書かれていないなら、自分で発見すればいい。難しいかもしれないし、根気がいるかもしれないけど、お医者様の知識があれば、答えは自ずと見えてくるんじゃないかしら」
口元に笑みを浮かべたままそう諭すアルフィナ。
老医師は、ハッとしたように目を見開くと、小さく首を振って自嘲の笑みを浮かべた。
「なんてことだ……! すまない、アルフィナ。あぁ、…わしは少し頭がおかしくなっていたのかもしれない。このわしが弱音を吐き出すとはな……」
「きっと……この屋敷が悪いのよ」
あまり心地よいとはいえない空気に包まれている屋敷そのものが人の心を蝕んでいくのだろう。
闇というよりは、汚毒にまみれた嫌な空気。
アルフィナはこの屋敷に来たときからそれを感じていた。
怖気を振り払うかのように立ち上がったアルフィナは、老医師のもとに片膝をつき、何ごとかと目を丸くしている彼の額にすっと指先を当てた。
「主──エッセ=リットよ、そして安らぎをもたらす自然界の長たち、どうかこの者の心に安寧をお与えください。闇を心に巣くわせたこの者を、再び光りの中へお導きください」
凛とした声音は、青空よりも澄み切っていた。
空気を震わす鈴の音のように軽やかで、教会の鐘のように厳かな響きを乗せた祈りは、静まりかえった室内を浸すかのように広まった。
祈りを捧げるときのアルフィナの声は、まるで天に住まう神々に伝えるかのように清雅さをまとっていて、心が洗われるような力を秘めていた。
近づきがたい雰囲気というよりは、侵しがたい神聖な空気を漂わすアルフィナに、その場に居合わせたフェゼルと老医師の両名は、熱に浮かされたかのようにぼんやりとしていた。
しばらくして我に返ったフェゼルは、無言で跪き、まるで王に忠誠を誓う騎士のように恭しく頭を垂れた。
老医師は、わずかに目を潤ませ、余韻を味わうかのようにそっと瞼を閉じた、
「おぉ──神よ……ありがとう」
この目の前にいる天使をこの世に遣わしてくださって、と。
言葉にはならない歓喜の思いが胸に広がっていった。
震える体は、その想いのたけを映すかのように小刻みに揺れていた。
「楽に、なった? お医者様は一人で抱え込みすぎるのよ」
「わしがまた吐露したくなったときは聞いてくれるか?」
「あたしでよければ。聖殿はいつでも開いてるわ」
「そうか……」
「そうそう。お医者様。もしかしたら手がかりを見つけられるかもしれないわ」
「手がかり?」
「そ。──フェゼル」
アルフィナが名を呼べば、いつの間にか立ち上がっていたフェゼルが、あのシチューの入った深皿を持ってきた。
「人使いが荒いなぁ」
「使えるものは犬だって使うわよ。ありがとう、紫狼の騎士」
にっこりと無邪気な笑みを向けられてしまったらそれ以上は反論できない。
オレも甘いなあと呟きながら、フェゼルは一人がけの椅子に腰掛けた。
「これはさっき食べた……」
「お医者様も同じだった? 珍しい料理よね、この地方で食べるには」
「あぁ、だが、それとなんの関係が……」
「やっぱり気づかなかったのね。混ぜられてるわよ。微量だけど毒がね」
「──────ッ!」
目を見張る老医師に、アルフィナは更に言った。
「この屋敷の主や患者さんもこれを食べていたら厄介よ。もちろん、致死量に至る量じゃないし、一杯完食したからって目に見えて症状が見えるはずないわ。けど、この量を何度も何度も食べ続けてれば──どうなるかわかるでしょ?」
毒を体に慣れさせるには専門の知識が必要だ。
ただ毒を含めばよいのではない。適量が決まっており、含み過ぎれば死することはあるし、逆に少なすぎれば免疫がつかない。
今回の場合、毒を体内に慣れされるというよりは、毒殺を狙ったものなのだろう。
少量なのは、じわじわと体の内から毒を浸透させ、血液から蝕ませるため。
本人は毒をあおっている自覚はないから一番厄介だろう。
「そんな馬鹿な……っ。その可能性は真っ先に調べたぞ。わしの知る限り、精神を病ませ、血液を濁らせ、身体に害をなす毒草などこの世には……」
「神が創造されたこの世界を知り尽くすなんてことは、だれにもできない。未知はいつだって無限に続いてる。人は、完璧な叡知を授かることは永遠にできないのよ。だって、すべてを知ってしまったら世の中がつまらない。神様はそれをご存じなのだわ。あたしたちは、ほんの少しの知識で、あぁ、これがすべてだって思ってる。実際は、地面にうごめく蟻ほどの知識しかないっていうのに。だからお医者様、無知は恥ずかしいことじゃないわ。これから知ればいいんだもの」
「アルフィナには見当がついているようだな……」
「さっきまではわからなかったけどね……お医者様が病状を言ってくれたでしょ? 似たような症状がでる毒草を知ってるの」
「それは……」
「月下草。フィラデル国の丘陵地帯に咲く花よ……別名、死神とも呼ばれてるわ。お医者様が知らなくて当然よ。フィラデルの一部の地域にしか咲かない花だから、一般的に知れ渡ってないの。フィラデルの医師だって何人が月下草の効能を知ってるか……」
「月下草……なぜお前さんがそれを知っている?」
「それを答える必要はないでしょ、お医者様。まずは、本当に月下草なのか確かめないとね」