そのニ
「……はぁ」
「どうした? ため息なんかついて」
「鬱にもなるわよ。こんなところにいればね。孤高の黒騎士は見あたらないし……」
アルフィナは、使用人が昼食の用意をしているのを横目で見ながら隣に座るフェゼルの肩にもたれかかった。
「奥様はお元気かしら……」
窓越しに見える空は雲がたなびき、澄んだ色をしていた。
晴れ渡った外とは対照的に、同じ光景を見ているかもしれない主人の顔を思い描き、瞳が揺れた。
「心配?」
「当たり前じゃない。泣いてらっしゃるかと思うと胸が痛むわ。いつか…そう遠くない未来、あたしは奥様のもとを去る。それは変わらない事実。けど、不安よ。奥様があたしなしで生きていけるか。もちろん奥様の周りには奥様を慕う人たちがいて、あたしなんか用なしになるときが来るかもしれない……。けど、それはまだ早い」
「アルフィナの望みは、プリシラ夫人の独り立ちか」
「そう、ね…そう。あたしがいなくても人生を愛せるよう、人を愛し、生きる喜びを知って欲しい。この世は怖い場所じゃないってことをわかっていただきたい。多分、…奥様があたしを必要としなくなるまであたしは側にいるつもりだけど」
堅い決意を秘めた双眸は、熱く輝いていた。
アルフィナの顔を覗き込んでいたフェゼルは、眩しげに目を細めると、少し目線をずらした。
「……あぁ、跡もすっかり消えたな」
傷があったなどだれにもわからないだろう。たった半日あまりで傷はすっかり癒えてしまったようだ。
きめ細やかなアルフィナの肌を注意深く見つめていたフェゼルは、安堵したように目尻を下げた。
「お医者様の軟膏が効いたのね」
「よかった。貴女の綺麗な肌に少しでも傷跡が残ったら、オレは確実に殺されるな」
「くすっ。面白い冗談ね」
「オレにとっては笑えないよ。オレのお姫様はちっともわかってない。あいつらが烈火のごとく怒り狂うのは目に見えてるのに。オレがついていながらなんたる失態だってね。そしたらオレはアルフィナに当分会えなくなるだろうな。この待遇よりももっと酷い監獄に入れられてね」
整った美貌が嫌そうに歪む。
アルフィナはくすくすと笑っていた。
「あ、あの、支度が調いました」
使用人の一人がそう言うと、アルフィナの返事も待たずにそそくさと部屋をあとにした。
きっとこの屋敷の主人に無駄口は叩くなと命じられているのだろう。
「いい匂い。食事がまともなのは救いよ」
「同感。これで上質なワインでもあれば文句なし、だけど」
猫足の食卓の上には、食欲を誘う香りが漂っていた。出来たての白いパンと具がたくさん入ったホワイ
トシチュー。籠の中にはいろとりどりのフルーツと木の実のパイが入っていた。
見目よく並べられたそれらを見ながら席についたアルフィナは、まず神々と自然界の長に感謝の祈りを捧げた。
「──すべての恵みに感謝を」
「感謝を」
アルフィナと同じ言葉を繰り返したフェゼルは、ふわりと微笑み、手に持った盃を掲げた。深く色づいた果実酒がゆらゆらと揺れるのを楽しげに見つめながら、アルフィナに視線を移した。
「なに?」
視線に気づいたアルフィナがスプーンを手にしたまま顔を上げた。
「ずっとここにいられたらいいのに……。そうしたらアルフィナと二人だけの世界に浸れる」
愛おしげな眼差しと甘い囁きに声に、ほんの少し胸を高鳴らせたアルフィナは、そんな自分をごまかすかのように咳払いをした。
「ハーバラスにいても変わらないでしょ」
「いいや違うよ。オレのお姫様。あっちだと常に貴女の周りには人がいて、オレだけのものにはならない。みんなが貴女を欲しがるから。側にいたくても、そこにはほかのだれかが貴女に張り付いていて離れない。腹立たしいことにね。だけど今は──ここにいるときだけはオレのものだろ? すべての時間までは奪えないけれど、だれよりも貴女と過ごす時間が多くてオレは嬉しいのさ。こんな話しをあいつらにしたらきっと大変だろうな」
「あいつらって……蒼の騎士と緋蘭の騎士のこと? あの二人が顔色を変えるなんて想像できないけど」
蒼の騎士は目映い金の髪が美しい青年だ。穏やかで、たおやかで、騎士といわれなければ貴族の子息で通ってしまう。
対する緋蘭の騎士は炎のような真っ赤な髪が印象的で、揺るがない双眸を持っている。気ままで、猫のような性格だが、いざというときには頼りになる。
二人とも気性は荒いほうではなく、感情をむき出しにしているところなど見たことがなかった。
「……そりゃ、愛しの方の前で失態など見せないでしょ」
「なに?」
フェゼルの苦笑じみた呟きは届かなかったようだ。
聞き返すアルフィナに、ゆるく首を振ったフェゼルは、盃を傾け果実酒を口に含んだ。
アルフィナも丸い木の皿の中にたゆたうシチューを木製のスプーンですくった。ぶつ切りの野菜と肉が食欲を誘う。
プリシラ家のスープは、野菜本来の味を引き出すために、ほとんど調味料を入れなかったから、こんなに濃厚そうなものは久しぶりだった。
(料理長は北のほうの出身なのかしらね)
乳製品のシチューは、この国では珍しいほうだろう。
アルフィナも城に呼ばれたときに二度ほど口にしたことがあるくらいで、比較的温かな地域で暮らしていたアルフィナにとって、カロリーの高そうな熱いスープは、それほど縁のあるものではなかった。
乳白色の液体をゆっくりと口元に運ぶと、小さく口を開いてジャガイモやニンジンと一緒に食べた。
ふわっと口腔を広がる独特の味。
「ん、ちょっと濃い……」
言葉を不自然に切ったアルフィナの顔が強ばった。
たった一口のシチューがやけにゆっくりと喉の奥へ消えていく。
ごくん、と喉を鳴らし嚥下する。
「アルフィナ?」
「……」
訝しげな問いかけに答えられぬまま、何か考えるようにじっとシチューを見つめていたアルフィナは、もう一度スプーンですくい、そっと舌の上にのせた。
やけどするほどの熱さではなかったが、冷まさずに舌の上にのせると少しぴりっとした痛みが走った。けれどそれにかまわず、味わうように舌の上に転がすと、目を瞑った。
「苦みをごまかすように味を濃くしてるのね……」
悔しさが滲む声がぽつりと漏れた。
なんて迂闊だったのだろう。
平和ぼけしていたのだろうか。
「どうした?」
心配そうな声に、ふっと目を開けたアルフィナは、苦く笑った。
「やっちゃったわ。毒の混入なんて初歩の初歩なのにね。ちっとも気づかなかった」
「毒!? の、飲んだのか?」
フェゼルが持っていたグラスが食卓の上に落ちた。中身がこぼれおち、白いクロスを染めていく。
椅子を飛ばす勢いで立ち上がったフェゼルは、血相を変え、アルフィナの側に行った。
「大丈夫よ、これくらい」
幼い頃から毒に慣らされていたアルフィナに毒は効かない。
高貴な身分ゆえに命を狙われることが多かったアルフィナを慮って、アルフィナの父が料理長に命じたのだ。免疫をつけさせるために食事に毒を混ぜよ、と。公爵でありながら学者でもあった父は、薬学だけではなく毒薬にも精通しており、小さなアルフィナにもどの野草がどんな効能があるか教えてくれた。
そのおかげで、父ほどとまではいかなくても、薬草や毒草の知識は蓄えていた。
「毒じゃないと思いたいけど、微かな苦みの中にしびれるような感覚があるし……。お医者様に意見を訊いてみようかしらね」
毒を飲んだというのに取り乱した姿もなく、落ち着いた様子のアルフィナに、フェゼルは安堵の色を見せた。
「……で、どうする? 犯人を捕まえる? お姫様のためだったら喜んで日の出を拝めないようこの世から抹殺するけど」
「これがあたしを狙ってたんなら、そうね、あんたに任せたけど、犯人の目的はほかにありそうよ。覚えてる? さっき運んできてくれた子たちが言ってたでしょ。今日は特別にこの屋敷の主人が食べる物と同じのを用意したって」
「ふん、あいつ相当、恨みをかってるみたいだな」
愉快そうに笑ったフェゼルは、すっと腰を落とし、首を傾げながらアルフィナの顔を覗き込んだ。
「さて、どう動く? アルフィナのことだからオレが制止しても首をつっこむんだろ」
「気づいたのに気づかなかったふりはできないしね……。あたしはどうやら嫌われてるみたいだから、本音を言えば関わり合いになりたくないけど。人助けに好き嫌いは言ってられないし。まずは…お医者様に会いましょう。今の時間帯ならお医者様も一息いれてるはず。外に立ってる兵士にお医者様を連れてきてもらいましょ」