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その三

 アルフィナにあてがわれた客室は、白と蒼を基調とした上品な一室だった。

 結局、老医師の説得のおかげか、アルフィナたちは留まることを許されたが、不用意に出歩くことは禁じられた。

 老医師は、元患者のところへ行き、今この部屋にはアルフィナと紫狼の騎士しかいなかった。彼にも部屋を一室用意されていたが、荷物を置いたきりここに入り浸っていた。


 それぞれ勝手に過ごす二人に会話などあまり必要なかった。

 無言でいてもそれが苦痛に思わないから不思議だ。それほど心を許しているということなのだろう。

 広々とした室内に気後れすることなく窓辺に腰掛けていたアルフィナは、さわさわと揺れる木々の葉を見つめ、しんなりと形良い眉を潜めた。


「荒れているの……?」


 窓を開き、腕を外へ伸ばす。

 少し冷たさをはらんだ風が肌にまとわりつく。

 それほど強風という感じではなかったが、アルフィナの耳には警告するようなうなり声が届いた。


「そう……ありがとう、風の精霊さん。常に警戒は怠らないわ。──神よ、願わくば、あたしたちの未来に幸いを」


 小さく十字を切ったアルフィナの視線がふと眼下に向けられる。

 白と金の物体が目の端を過ぎていった。興を惹かれ、それを追いかければ、ちょうど迷路のように複雑に入り組んだ庭園の中に入るところだった。

 よくよく目をこらせば、それが動物ではなく人であることがわかる。


「子供……?」


 そう、小さな子供だった。

 自分よりもずっと背丈の高い緑の壁の間を子供は転びながら進んでいく。しかし、途中で力尽きたかのように地に倒れ込むと動かなくなってしまった。

 目を細めたアルフィナは流れるような動作で立ち上がった。


「──どこへ?」


 大理石のテーブルに長い足を置き、椅子の背にもたれ眠っていたフェゼルは、部屋を出て行こうとしたアルフィナに気づいたようで、閉じていた瞼を開いた。


「すぐ、そこよ。迷い猫を見つけたの」


 軽く言いながらも、フェゼルがついて来ようとするのを全身で拒絶する。

 それが気配で伝わったのか、フェゼルは再び目を閉じると、


「オレは可愛い子猫を所望するよ」


 そううそぶいた。

 アルフィナの気持ちを尊重してくれたフェゼルにお礼こそ言わなかったが、心がほんの少し温かくなった。見知らぬ地で心強い友人がいるというのは、とても安心できることなのだと改めて発見した思いだった。

 微かに笑みを浮かべ部屋を出たアルフィナだったが、扉を守るように両端に立つ二人の兵士を見つけ、口角を下げた。


「どちらへ行かれるのですか?」


 柔らかい問いかけだったが、その声音はどこか険を宿していた。

 右を向き、声をかけてきた人物を見上げ、反対に聞き返した。


「もしかしてあたしは自由に動き回れない立場?」

「そのようなことは……。わたくしどもの主人からあなた方に粗相があってはならないと厳命に言い渡されていているのです。もし、散策をご希望ならわたくしがご案内致しますが」


 アルフィナの鋭い返しにもひるんだ様子は見せず、慇懃に説明した男は、最後に笑みを浮かべた。


「結構と断ってもついてくるんでしょ」


 そう皮肉ったアルフィナは、嘲るように彼を一瞥してから、階段に向かって歩き出した。

 男が何か言っていたが、アルフィナは耳を貸さなかった。ただ後ろをついてきているのを気配で察しながら、正面玄関に続く階段を降りていく。もう一人は、紫狼の騎士を見張るために残ったのだろう。

 屋敷の外へ出れば、女たちの焦りを含んだ必死な叫び声が聞こえてきた。


「カシュター様ぁ、どちらにおいでです?」

「お顔をお見せ下さいまし」


 使用人や兵士が外をうろついていた。

 その尋常ではない雰囲気に何ごとかとわずかに目を見張っていると、アルフィナのあとを追ってきた男が数歩前に出て、近くにいた者を捕まえた。


「何があった?」

「あぁ、カシュター様が……」

「馬鹿か。むやみやたらにその名を口にするなと……っ」

「ひ……っ」


 パンッと乾いた音が鳴った。

 男が女の顔を叩いたのだ。

 それを見たアルフィナは、カッと頭に血が上るのを感じた。


「女性に手をあげるなんて……! この屋敷の程度が知れたわねっ」

「あ……」


 男は、しまったと言いたげに打った方の手を反対の手で押さえた。

 アルフィナは男を遠ざけ、女のもとへ行くと、口の端に滲んだ血をハンカチでぬぐった。


「かわいそうに。口の中を切ったのね」


 よほど強く叩かれたのか、それとも運悪く歯が柔な皮膚に当たってしまったのか……。

 女は見ているのが憐れなほど怯え、震えていた。また暴力を振るわれると思っているのだろう。


「大丈夫。あたしの目を見て。……そう、いい子ね」


 年上の女性に、まるで幼子に語りかけるように柔らかく言葉を紡いだアルフィナは、しっかりと目が合ったのを確認してから、笑みを浮かべた。

 慈愛に満ちた穏やかな微笑みは、それだけで緊張していた空気を和ませてしまう。

 光り輝く美しさというよりは、水面に映る太陽の光りのようなきらびやかな美を宿すアルフィナに魅入ってしまったかのように女の顔が惚けた


「お医者様───クロイツ医師に診てもらうといいわ。少しの間痛いかもしれないけど、すぐに治るわ。そこのあんた、この人をクロイツ医師の元へ連れて行ってあげて」

「いや、しかし……」


 言葉尻を濁したのは、ちょうど目があった兵士だった。騒ぎに思わず足を止めていた彼は、アルフィナから頼まれて、渋るように顔をしかめた。


「あたしが行ってもいいんだけど?」


 その言葉が決定打だったのか、彼は意を決したように頷くと、ぼーっとしている女性の肩を抱き、そこから去っていった。

 ちらちらとこちらを伺う視線をいくつも感じながら、アルフィナは女に卑劣な振る舞いをした男に向き直った。

 アルフィナが何も言うわけでもなく、ただ澄み切った眼差しで見つめていると、男はきまり悪くなったのか視線を避けるかのように目をさまよわせ、そして俯いた。


「──あたしは事情を知らないからあんたが悪いって糾弾できない。あたしが間にはいるのは筋違いかもしれない。けど、どんなことがあっても自分より弱い立場の者に暴力を振るうのは人として最低なことよ。あんたが少しでも守る者としての誇りを持ってるなら、あの女性に誠意を持って謝ることね」


 そう言い捨てると、遠巻きに見守っていた人に視線を動かし、彼らに一人一人焦点を合わせた。止めに入らなかった彼らに対しても怒りはある。けれど、あえて何も言わなかった。これが領内で起こったことならば、アルフィナはただ見つめるだけだった彼らも同罪と見なし、なぜ助けなかったのか問いただしただろう。


 だが、ここはハーバラスではなく、彼らはアルフィナの知り合いでもない。

 ここにはここの法があり、よそ者のアルフィナが口を出すべきではないのだ。

 だからこそ口をつぐみ、庭園へと向かった。


「ま、待て、そっちは……!」


 アルフィナの厳しい言葉に悄然と立ちすくんでいた男は、己の仕事を思い出したのか、慌てた様子で追いかけてきた。しかし、角を曲がった瞬間、そこに壁があるかのように立ち止まった。苛立たしげに地団駄をふみながら、最初の頃のような表面上の柔らかさを脱ぎ捨てた男は、アルフィナをにらみ付けた。


「そこは禁止区域だ。客人でもない者が足を踏み入れていい場所では……っ」


 けれど、アルフィナはその声を無視し、さらに奥へと進んだ。

 上から見ていたのと違って、間近に見ると大きく、まるで葉っぱの壁のようだった。けれどそれを地味と感じないのは、陽光に当たって新緑の葉が一枚一枚粒子を宿してきらめいているからだろう。微妙に色の濃さが違う葉が密集し、言葉では語れないほどの美しい色合いを映し出している。

 葉の隙間を縫うように走る細い蔦は、複雑に絡み合い、小さな実を宿していた。

 春には咲かない花なのだろう。

 固く閉ざされたつぼみは、綻ぶ気配がなかった。

 その一つを指先で突きながら、迷路の入り口に立った。


「御館様はお前を絶対許さないぞ!」

「……この屋敷の主人の不快を買うのは今更だし、あたしにとってはどうでもいいことよ」


 男はなおも騒いでいたようだが、アルフィナは聞こえていないふりをして中へ入っていった。

 その瞬間、なんともいえぬ爽快感が体の中を通り過ぎていった。


「素敵……。ここは人工であって人工じゃないのね……。風も太陽も…すべてが輝いて見える。清涼とした空気がなんて清々しいのかしら……まるで自然の恵みを頭上に注がれているような心地だわ」


 あぁ、神よ……アルフィナは十字を切った。


 この世はなんて美しいのかしら。


 今ここで神を賛美し、祈りたい誘惑にかられたが、あの少年のことを思い出し止めた。

 あの少年が倒れていた場所を頭の中に思い描き、右、左と入り組んだ道を進む。

 上から見ていなかったら迷ってしまっていただろう。

 確かここを右に行けば…と角を曲がったアルフィナの目に芝生の上に倒れていた少年の姿が飛び込んできた。

 駆け寄ると、その少年を抱え起こした。

 顔についた泥を袖口でぬぐい、顔を覗き込んだ。


(なんて可愛らしい……)


 目は閉じているが、金色の長い睫毛といい、小さな顔にバランスよく収まっている鼻や口は、賞賛していいほどだった。

 彼が着ているものが性別のはっきりとわかるものでなかったら少女と勘違いしてしまいそうなほどの可憐な美貌だった。

 けれど目の下についたクマとこけた頬がその美しさを半減させている。

 ふいにマリアンナのことが思い浮かび、きゅっと胸が締め付けられた。


「あの子は元気になるけど、あんたはどうかしらね……」


 その呟きが聞こえたのか、それとも人肌の温もりに気づいたのか、少年が睫毛を震わせ目を開けた。


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