序章
「あたしは掴む。栄光を──────!」
だから見ていて、と。
儚く消えていった父と母に心の内に語りかける。
小高い丘の上に広がる宮殿は、下々の暮らしをあざ笑うかのごとく華麗に、そして雄々しくそびえ立ち、侵入者を阻むかのようにぐるりとまわった高い塀が、松明の明かりに照らされて闇の中であっても神々しく輝いていた。
アルフィナ・ディル・カスターナ
王家の第一王女であった母を持ち、王家よりも長い歴史を持つカスターナ家の血を引き、その富と財は国庫をしのぐともいわれている公爵家の娘は、屈辱と怒りに支配された幼い顔に、抑えきれない憎しみを宿らせながら、今は遠い宮殿を睨みつけた。
魔法というものがこの世に存在するのならば、彼女は喜んで、民衆が崇める者が住まう宮殿を眼力だけで燃やしつくしただろう。
この国の王に対する憎悪だけが、小さなアルフィナを支えていた。
アルフィナは、母の弟であり、自分の叔父でもある国王の顔を脳裏に刻み込んだ。
「呪われよ。この国に禍あれ! 罪なき者の命をたやすく奪った国王に死を!」
王都の外れから、最後の別れの言葉を吐き捨てたアルフィナは、未練はなくなったとばかりに敵となった王に背を向けた。
王は、今宵も国民から搾り取った税金を使って絢爛な舞踏会を開いているのだろう。
その様を思い描き、目の裏が赤く燃え上がった。
自分の不幸の上に彼らの幸せがあるのかと思うと決して許すことはできない。
否。
許したくない。
「もういいのかね?」
アルフィナの声は彼の耳に届いていたはずなのに、そう問いかけてくる声音は落ち着いていた。
この国の王を愚弄するとは不敬罪だと罵倒することなく、声を荒げるアルフィナを訝しく思うことなく、老人は、少し離れたところでアルフィナのことを見守っていた。
老人の存在を思い出したアルフィナは、瞬きのうちに、激情を笑みの下に隠し、従順な態度で頷いた。
「──はい、先生」
先生と呼ばれた老人は、月明かりの下で重々しく十字を切った。
「復讐など考えないように。わしがお前さんを助けたのも神のお導きだからこそ。まだまだ若いんだ。そう悲観することもあるまい」
「……」
彼は何も知らない。
アルフィナがどのような世界で生き、そして墜ちたのか。
だからこそ表面上の生ぬるい慰めの言葉をかけてくる。
けれどそのぬるさが今のアルフィナには嬉しく、荒れた心の中に染みこんでいった。
「飢えて死ぬところだったあしたを助けてくれたんだもの。あたしは絶対この命を無駄にしない。あんたの善意は、決して忘れない。もしこの先あんたが窮地に陥ったら、あたしは何があっても、どこにいても先生を助けに行くわ。あたしのこの誓いをただの戯れ言なんて取らないで。あたしは本気よ。親しい人たちから裏切られ、見捨てられたあたしを先生だけが手を差し伸べてくれた。だからいつか──そう今は頼りない無力な子供だけど、命の代価は必ず払う。精霊と主の名のもとに誓うわ」
これは宣誓。
決して違えることのないよう。
彼は荒んでいたアルフィナに光を与えてくれた人だから。
この誓約の見届け人は、自然界に住まう者たちと古の神々。
アルフィナが精霊と神の名に誓ったことにより、それは破られることはない。
「ほぅ」
まだ人生とはなにかも知らない小娘の口から出た高慢さに、有能な医師は驚いたかのように目を見開いて、そしておかしそうに笑った。
「変わった子供だ! わしの患者の中でとびきり元気で、口達者。年に不釣り合いな老いた目にこれまでの
荒んだ暮らしぶりが浮かんでこよう。翼をなくした天使さん。今はただ地上で生きるがよい。お前さんには神々の楽園よりも地面の上を走っている方がよく似合う」
おどけたからかいに、どことなく暗い光を宿していたアルフィナの双眸が、パッと輝いた。
こけた頬。
青ざめた顔。
体型は健康とはいいがたく、やせ細った体を包むのは、すり切れ、ボロボロとなった薄布一枚。
貧民街にいる乞食みたいな姿なのに、見る者を惹きつけてやまない大きな瞳は、先ほど呪詛をはいていたのが嘘のような無垢さを放っていた。
「あたしが天使なら、あんたは神よ。病に伏せる者たちの救世主!」
少女の軽やかな笑い声が、人気のない道沿いに華やかに広がる。
そのまま楽しげに、優雅にくるりとまわると、今にも折れてしまいそうなほど肉を失った両足で、しっかりと地面を踏みしめて、医師を見上げた。
「忘れないで。あたしのこと。神の導きがあるならまた会える。今度は偶然じゃなくて必然よ。──ごきげんよう、お医者様」
浮浪者のようなアルフィナから出たのは、見かけを裏切る上品な言葉遣い。
子供らしくはしゃいでいた顔が一変して、不透明な美しさに包まれる。
「あなたの頭上に神の栄光が注がれますように」
笑顔で告げたアルフィナは、いきなり態度の変わった彼女にびっくりして、目を丸くしている彼に、宮廷式のお辞儀をして宮殿とは正反対の方向に駆けていった。
残された老医師は、まるで悪い夢でも見ていたかのような心地で、一陣の風のように走り去っていた少女を追いかけることもできずに佇んでいた。
ひんやりとした風をきりながら彼女は走る。
骨が透けて見える体のどこにそんな力があるのかというほど、今のアルフィナは儚く、それこそ蝋燭のように一消しで吹き飛びそうなほどであったが、大自然に身をゆだねるアルフィナの顔は明るい。憑き物が落ちたかのようにすっきりとした表情は、これまでの苦しみの影が残っていながらも、清らかさを保っていた。
「我が主、我が主よ。わたくしの進むべき道に光を───っ」
アルフィナは、昂然と顔を上げ、天高くそびえ立つ山へ向かった。