第二章 第二節
理由ありて情愛なし、憎悪の末
無我の復讐に、私は狂うのか
血から離れることはできない
体を碇とするなら、心はどこにある
向こう側の現実は、自己愛を映していた
カデュラの血、幻影、この間ヴェルナ群地との交易で得ることになったレチアの香葉、先程食したキェーンの臓を裂いた割石、火打石、あまり好みではない音を発する石の数々……最早命もないような呪いの数々。未来永劫を約束するにはまだ足りない。私の心臓でさえ釣り合わない。個人しか呪えない。もし行うならば、全て人類を根絶やしにしなければならない。私には到底できやしない。
それをメレディサは望んでいないのだから……
ここを発つ際に、私は一つ、大地に呪いを残していった。通りかかったダウの民に、できればあって欲しくはないがカイケの民へも向けた一つの呪禁。エウラの枝で刻み込んで、私はスィダラスの山並へと向かった。
『私欲に天罰をぞ見よ』と。
山を越えるに向けて、発つ前に用意したものが役に立った。杖だ。地面に打ちつけて、その音が語るところの、最も早く返答した場所へと向かって行く。これを繰り返せば、杖を用意せずに登るよりも安全に、かつ早く、かつ食料も少なく済む。何回か、杖を打つ場所もない足場に掛かったことがある。これは罠だろうと思って、至る前の場へ戻し、別の答えを探して行く。
カンプの一本も生えないような山肌に遭遇しても、アルの木やエウラで覆い尽くされて杖の音の返答もかき消されるような地面でも、適当な答えを求め、実際に正答を得た。
道中、打ちひしがれた人影があった。聞くに、彼はカイケの隣接する、ヴェルナの地に向かうところであったという。不憫に思えた。だから助け起こして、ここまで行けば一人で歩めるというところまで進めてやった。一人で進むよりも苦労した。何しろ体が二つあるかのようだったからだ。私はつい折ってしまったアルの幼木を渡した。これで恐らく迷うことはないだろう。
彼は私の名前を聞いてきた。私は特に関係がないと思ったので、その時は答えなかった。
だいぶ道草を食べた。
何回もカンプは開いて閉じた。その開閉の間に私は移動して、ようやく平坦な大地を踏むことができた。今やカイケの地は遠い、が、思い残したことは特に無かった。復讐が叶ったならば、そこで死んだとしても本望だ。
ダウの地では、やはりというか、大地に傷を付けて、その間に糸を縫うかのように、植物を埋め込んで行くことが行われていた。予想はできていた。それは姿であった。
今面している現実の中に、カイケの地が取り入れるべき文化があるならば、誰もが奉仕をすることで、全体の労働力を少なくしているところであるだろう。自分の取り決められた箇所は自分でやるのだが、それ以外の領域はてんで手をつけないのだ。却ってそれが最も早く作業を終えることになった。
どうしてここまで詳しくなったかと問われると、こう答えなければならない「機会を伺うため」と。できるだけ失敗のないようにしたかったのだ。だから味方と名乗った。一人の血を撒き散らして、戸籍を奪い、成りすました。仮面を被る者は、仮面の役割を徹底しなければならない。
向こうの文化を学んでいると、ふと興味を示す会話があった。曰く、「大地に女を捧げる」ことであった。
もしかしてそれは、カイケの地の模倣ではないのか?
早合点しては私の復讐も失敗する。用心深く聴くに、「女の方が宗教に密接しているから」とのことで、更に聴けば、生産や労働の面において、新しい命を産むことにしかならない女をただ生かしておいても、などとほざいているのだ。産めなくなったらそこでおじゃんになるような産業であるから、不確かな利益と一夜を共にする程恵まれてはいないからと。
ふざけるな。
それだけの理由のために、私のメレディサは埋められたのか、そうか、要するに口減らしだったか、そうか、そうか、そうか、人間とは醜く赦し難いものだったか、そうか、そうか、そうか。
私の後ろから聴く者がある。名を怒りと呼ぶ。彼は私の赦し難いという感情から来ていた。後ろから私の背中を撫でて、後ろ指を指して、後ろから私に口を出す。
「おまえの心を実現せずして何が呪術師か。何が奇術師か。おまえのいつも言うことには、心を実現させなければならないだろう。おまえがそれを成さないならば、何故おまえがカイケの地の呪術師たるか。」
火よ、火よ、何故汝燃えゆるか
水よ、水よ、何故汝流るるか
風よ、風よ、何故汝吹き荒ぶか
土よ、土よ、何故汝動かざるや
火が燃えるのと同じように、水が流れるのと同じように、風が吹き荒ぶのと同じように、土が動かないのと同じように、私が復讐を成すのも、同じように。成さないわけがなかった。私は炎で、水で、風で、土だったのだ。
何度も「怒り」は私を動かしてきた。私に取り憑いて何を成そうと言うのかは分からない。だが、利害が今のところは一致している、それだけが全てであった。
早いうちに、この悪質な神話を改定せねばならない。そのためにはダウの地の先頭に立つ者を仇なすことになる。地に仇なす妄執の剣を、自己保存の為の愛情に向けるしかない。
この刃は、心臓を求めていた。私の赦し難いと思う者の心臓を。早く刺さなければならない。刺さなければ……
懸命に働いた。いずれ裏切るために働いた。その労力を無駄なものだと笑う者もいるだろうが、呪われてあれ。私は私のメレディサと、メレディサの腹の子を取り戻せたら、それだけでよかった。三人で魚を捕って食べて、それが単純にできたならそれだけで良かった。ただの母胎としか思っていなかったかもしれない。だけれどもいずれ裏切るための実績が重なるにつれて、私はメレディサを思わずにはいられなかった。遠い場所に置き去りにしてきた。底で休んでいておいで、ここからは現にいる私の仕事だ。
これからあるのは、向こうの大将の、そして対象である者との謁見。私の指は、その血に飢えていた。
「我こそはダウ群地の王たるスティグラエである。汝何故呼ばれたるか理解しておろうな?」
かの王はよくもまあ堂々と語りかけてきた。そして何よりも驚いた。女だったからだ。
母胎が母胎を殺すほど無意味なことは存在しない。いずれ彼女が孕むとしたならば、きっと殺した相手に似るだろう。
何故呼ばれたか。実績を堆積させたからだった。ふと興味を覚えたのは、私が成りすましている人物は、元々そこまで真面目でないらしかった。今はわからない。適当に歩いていたのを見計らって、丁度いい、と思っただけだ。スティグラエは驚いていた。どうしてあれほどまでに真面目でない人物が、熱心に作業に励むようになったのか、そして、どのようにすればそう変革できるのか、と。
私は心底失望した。向こう側の現実は自己愛を映していた。自身の存続のためだけに食われた、彼女たちの命さえ弄んでいた。
今すぐにでも刺してやりたかった。怒りが、かの女王の血を求めていた。私は自制した。
まだ機会はあるじゃないか。
何を思ったのか、スティグラエは私の隣に座る。沸々と燃える水が、私を突き動かさないように願った。
「褒美をやろう。我と同衾せよ。未来永劫の光栄に思うがいい。高貴なる身分の我と、平民の汝、交わることはこれまで無かった。
断るなどと吐かすことは無いだろうな?」
驚くことに、スティグラエは自分を犯せと言うのだ。聞くに、番もいるのに、毎日のように同衾してもいるのに、子供ができないらしい。どうしても後継が欲しいらしく、スティグラエは男と見ればすぐに誘って、同衾をしていたようだ。群地のほとんどの働き者の男を食ってしまった、と話していた。
私もこんなふしだらな女と寝るのは断りたかった。番との子供も孕めないのならそのまま王家として滅んでしまえとも思った。断りたかった。
しかしこれは逆に機会だと思った。逃したならば、メレディサの仇は取れないだろう。そして彼女の友人の仇も。
愛しているよ、胎も、心も、魂も。だからこそ、今だけ堕とさせてくれ。
私と彼女は愛憎の土台に立った。座り、互いの体に軽く触れていき、つるりとしたスティグラエの肌を弄んでいた。淫王の肉体だった。しかし柔らかく、成る程、男を手玉に取れるはずだと納得できた。
メレディサがこの世に最初からいなかったなら、私はこの淫王の夫となっても良かった。だが、メレディサが存在していた。彼女には淫王に無いものがあって、私はその部分を好きと思っていたらしかった。
淫王スティグラエは、かつての私と同じように、異性に子孫を残すだけだと思い込んで行動していた。本当は、柔らかな肌の一つ一つの仕切りにさえ、意味があって、価値があるものであった。触れ合うことに意味がないわけがなかった。彼女は私の上で、早く、早くと誘ってくる。違う。これは食されるのだ。汚らわしい目的と、かの女王の存続のために犠牲になる。
背中から腰にかけて、するりと触れてやると、彼女は火を見た人間のように震えあがっていた。反応としては上々だが、この場限りの関係だ。夜ごとにこの大声が響き渡っていたならば、私は少し遣る瀬無くもなったが、逆に昂ぶるものもあっただろう。メレディサは、声を抑えていた。その反応が、その反応こそが、愛おしかったのだ。
淫王の訴えが強くなっていく。
ついにこの仇なすための槍を向けることができる。
ずっとこの時を待っていた。
そして
復讐は果たせる
はずであった。
片方だけに輪郭が映っていた。何故か、下の方で音がしない。生きていたものが私の前にそれはそれは贅沢で自己愛的に置かれた。周りからは「食せ」と声が上がっている。私は唖然として、動けなかった。程なくして、一人の男が私の頭を掴んで、食器を持つと、私の口に流し込んでいった。何を食べているのか判らなかった。囃し立てる声たちは、「どうだ、美味だろう」と自身を称賛していた。そうは思えなかった。あわや片目が利かず、片足が無くなったこの状況下で、誰が大人しく餌食を得られると思うのか? 私は人間であって、カデュラではなく、カイケの地の呪術師であって、そこな歩く畜生ではない。
どこか動かせる場所はないか確かめていた。腕は錘のようなもので固定されている。片方残った足では地面も蹴れない。頭を振ろうにも掴まれているので動かせない。声にしろ、元を切られて、何か言おうとも風しか出ない。今動かせるのは、舌と、歯と、顎ぐらいなものだが、それも掴まれて、咀嚼を促されている。一瞬吐きそうになる。が、私の頭は上に向かされて、否が応でもと味のしない肉体を押し込められていく。すべてが実像を以って存在していて、すべてが実感を伴って存在していた。未だに失った目と、失った足が痛んでいる。訴えてもお前の主人は治せないぞ、と念じても、耳がないからか彼らは信号を発し続ける。
食事のようでない食事が終わった。頭が離され、空中で私というのは分離した。
人が去って暫くすると、遠くの方で誰かが泣いているのが聞こえた。
見ると私で、涙をも流して泣いていた。その様子を、私は遠くから「男らしくない男だな」と思ってぼうっと見ていた。なぜ泣いているのか解らなかった。何がそんなに悔しかったのだ? 疑問のようでそれは疑問でなかった。この私と、泣いている私は、私だったのだから。
私も一緒に泣こうとした。しかし泣けなかった、既に泣いていたのだから。机に付着した涙汚れに、これは処理しないと不味いことになると訴えようとした。私はそれを良しとしなかった。腕が重い。動けない。遠くから一緒に泣こうとしていたはずの私は、滑稽な様子を感じて笑っていた。それに伴って向こうの私も笑っている。笑いながら泣いて、泣きながら笑って、笑い、泣き、笑い、泣き、笑い、泣き、泣き、泣き、泣き───
というのが、三日三晩続いた。何度も痛みで目を覚ました。何度も痛みで肉体を捨てて、何度も痛みで肉体に戻った。こんなことなら、メレディサの復讐などと意気込まず、カイケの海で魚でも採って、何も気にしないように生きてしまえばよかった。女などいくらでもいるのに、どうしてメレディサに固執して、どうして彼女を選んだのか、今ではもう分からなくなっていた。ただ何もない、海すらも山すらもカンプすらもない平原に立つ私の中に、メレディサの柔らかな声が、響き渡っていた。君のいる底には、きっと辿り着けない。私は赦されない罪を犯したのだから。
肉体を叩かれている。肥えた音が帰ってきた。どこもかしこも肥えていて、今なら深い海に潜っても凍えない。周りでは「良い頃合いだ」という声が上がっていた。とぼけて何のことだろうかと首をかしげるが、首は顎と、そして胸と癒着していたので、何も動かすことはかなわなかった。呼吸すらも貯めた肉に押しつぶされる。おそらく何をされても、何もされなくても、死んでしまう。
私の乗った荷台がどこかへ奔っていく。風は普段ささやくのだが、この時はもう何も聞こえなかった。ただ存在しているだけ。
私というのは落下していく存在であった。私というのは落下するのを祝われる存在であった。私は穴の中に存在していた。私というのは穴の中から外を聴くこともできない存在であった。私というのは自分の心臓の音すら定かでない存在だった。私はカイケの地にいた。私は母親を殺した。私は独りだった。私は凍えかけた。私は彼女と出会った。私はメレディサに助けられた。私はメレディサを好きになった。私はメレディサを孕ませた。私はメレディサが埋められたと知った。私は激怒した。私は復讐を試みた。私は幻覚の中でメレディサを聞いた。私はメレディサの言葉を信じた。私はスィダラスの山並を越えた。私はダウの地に辿り着いた。私はダウの民を一人殺した。私はそれに成り代わった。私は働いた。私は働いた。私は働いた。私は女王に呼ばれた。私は女王と同衾した。私は復讐を試みた。私は私がそれでないと明らかにされてしまった。私は私が何であるか明らかにされてしまった。私はカイケの呪術師だ。私は捕らえられた。私はスティグラエを刺すことができなかった。私は復讐を成功させられなかった。私は右目を潰された。私は右足を潰された。私は右手を縛られた。私は左手を括りつけられた。私は味のしない食事を延々と食べさせられていた。私は泣いていたのを私が見た。私は笑っていたのを私が見た。私は私が遠くから聞いていることを私が気づいた。私はそれが幻覚ではないと知っていた。私は脱魂していた。私は肉体に縛り付けられていた。そして今、まさしく今、耳を塞ぎたくなる現実で、私は埋められようとしている。
母も、メレディサも、メレディサの友人たちも、ひいてはその背後の多くの女性たちも、メレディサの孕んでいた子供も、ダウの民が接触などして来なければ、きっと笑っていたんだろうな、と思うと、どうしても呟きたくなった、そして私は声にもならない声で、語った。誰に聞かれようとも、誰にも聞かれなくてもいい。ただそれが空気に影響して、地面に伝わって、水を汚してくれればいい。
──呪い在れ。
呪いだけが紡がれる、憎悪の末
無我の復讐は、私を失った
血から離れることはできない
体は石となり、心を閉じ込めている
理由がないならば、穏やかな風に撫でられていた




