第二章第三節<神風>
一八七七年、二月十五日。
西郷軍連合大隊が鹿児島を出発したという情報は、逸早く士族の間に流れ行き渡った。
あの西郷率いる軍隊ならば、今度こそ政府を打ち負かすことができるかもしれない。
そうした噂は瞬く間に知れ渡り、そして事実進軍のたびに、西郷軍には各地の士族らがこぞって入隊志願を持ちかけた。鹿児島を発ったときには一万五千ほどであった西郷軍は、度重なる志願兵によって見る間に膨れ上がり、熊本城を眼前に捉えたときは既に倍近い人数を抱え込んでいた。
熊本領内に入った西郷軍に、末弟西郷小兵衛は長崎を攻略、占拠して新たな拠点とする作戦を提案するも、桐野はこれを拒絶し、あくまで熊本鎮台を攻略する作戦を主張。
そして攻撃目標を目の前に、高鳴る胸を抑えつつ野営をしている軍からふらりと離れた桐野は、愛刀を腰に吊ったまま、小高い崖の傍らに腰を下ろし、一人夜酒に静かに酔っていた。
どのくらいの時間を過ごしただろうか。
いつしか、手元の酒も底を尽き、桐野自身も微かなまどろみの中に足を踏み入れてしまっていたようである。いまだ焦点の定まらぬ目でぼうっと夜空を眺めていた桐野の視界に、何か白くはばたくものがふいと横切った。
鳥かとも思ったが、鳥がこのような夜更けに飛ぶはずがない。
そのままの姿勢でじっとしていると、それはもう一度、桐野の近くに寄ってくるようにぱたぱたと身を揺らしながらやってきた。
鳥にしては小さすぎる。ならば蝶か。
しかし今の季節に蝶はおらぬ。
ならば何か。
無造作に腕を伸ばし、はっしとそれを捕まえた桐野は、手の中の感触に驚いた。
なんと、今しがたまで命あるもののようにはばたいていたものは、何と和紙で作られた折り鶴であった。
それを放り捨てようとして、桐野はすんでのところで手を止めた。
不思議なのは、俺が酔っているだけではない。
確かに俺は酔っているだろう。しかし、この手で何かを掴んだことだけは確かだ。
そして何かをつかめたと言う事は、そこを確かに何かが飛んでいたからだ。
まじまじと見つめるが、手の中で少し翼が曲がってしまった折り鶴は、もう動く気配はない。
「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり」
人の声がする。
はっとなり、桐野は腰の刀に手をかけて一動作で身を起こした。
酒に酔っているとはいえ、さすがは幕末に「人斬り半次郎」の名を持つ男である。
気配には、人一倍敏感であった。
「誰だ」
「これは失礼。風流な御仁の邪魔をするつもりはありませんで」
夜闇の中から出てきたのは、まだ若い男だった。
「私、水前寺と申します。太田黒伴雄様をお助けし、乱に参名致しましたが無念の有様にて、今もこうして」
太田黒という名前に、桐野は敏感に反応した。
「……では、貴様は」
「はい、神風連の神祇の御術を心得ておりますが……貴方様こそ、鹿児島にて決起した西郷先生とご一緒なのでは?」
「桐野だ」
水前寺と名乗った男は、柔和な笑顔で今一度、頭を垂れた。
「これは、お前か」
「はい」
桐野に並んで腰を下ろした水前寺は、折り鶴を見せられて首肯した。
「折り、とは『天降』であり、『天振』、すなわち天意の律動……神典形象という術にございます」
「ふむ」
分かっているのか、適当に返事をしているのか。
「で、貴様のその妖術が、どれほどの力を持っているのだ」
「はばかりながら、妖術ではございません。日本の太古の時代より語り継がれて来た、神の秘術にございます」
「能書きはいい」
「では……桐野様は、言霊というものはご存知ですか」
「知らん」
腕を組んだまま、桐野が無遠慮に言い放つ。
そのような態度にも表情を崩さず、水前寺は言葉を続けた。
「言霊は、いふ言に即ち神の霊まして、助くるよし也。日本語の言葉一つ一つに神霊が宿り、不思議な力を持っているという考え方です」
鼻で笑うことはできる。
しかし、先ほどの不可思議な鶴も、水前寺の術によるものだとすれば、この男、どれだけの力を持っているのか。
「西郷先生は、これからどうなさるおつもりですか」
「熊本鎮台を落す」
その言葉を聞き、水前寺の表情が変わった。
「どうした」
「我等が神風連の決起に際し、鎮台司令種田政明に変わり……現在は、谷という男がその地位に就いているようです」
「谷……か」
「おや、ご存知で」
「五年前の徴兵令のときに、俺が文句をぶちまけてやった。それだけだ」
桐野は身を起こし、それから水前寺に向かって顎をしゃくった。
「来い。貴様の評価は先生が決める……それでいいな」
「よろしくお願い申し上げます」
水前寺は、目を更に細くしてにこりと笑って見せた。