第一章第一節<沙嶺>
囂々と腹の奥底にまで響く大音声が、辺り一帯に響き渡っている。目も眩むほどの高さの崖から迸っているのは、白煙と化した水流である。
一条の太い流水は宙空に弧を描いて落ち、そして遥か下の滝壷へと注がれている。果たしてどれほどの歳月を、その膨大な質量を受け止めつづけたのであろうか。既に大きく抉れている岩盤では泡だった水が渦を巻き、そして拡散していく。
しかし、その只中に人影はあった。滝壷よりも僅かに奥に逸れた部分に、水面にまで突き出た岩の足場の上に、一人の青年が座していた。
滝行故に、白い装束を纏っているその青年は、身を切るほどに冷たくまた身を打つ圧倒的な水量という苛酷な状況においてさえ、一歩も引かぬ強靭な何かを感じさせる相貌をしている。恐らくは身は氷のように冷え切ってはいるものの、唇一つ震えてはおらぬ。
青年は、名を沙嶺といった。
濡れそぼってはいるものの、胸まで垂れた長い髪は、摩訶不思議な銀色であった。一体、如何なる血族であればそのような髪の色を持つことができるのか。
およそこの日本の国において、沙嶺は同じ髪の色を持つ者とであったことはなかった。それは沙嶺を異端とする蔑視を招くことはあれ、彼の為になったことは一度としてない。
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵
一瞬の淀みなく、沙嶺の口からは経文が紡がれていく。瞳はしっかりと閉じられ、沙嶺の精神が遠い観想の世界に旅立っていることが窺い知れる。
しかしそれは、決して厳しい行からの逃避ではない。肉体を酷使することによって極限状態へと追い込み、そして開眼する境地へと到達するのだ。
更に経文が数周し、そして最後の一音が力強く沙嶺の唇から発せられた。
突如、滝の流れの方向が変化した。いや、目に見えぬ不可視の壁が沙嶺の頭上に出現したのだろうか。それまで沙嶺の頭や肩を打ち据えていた水は、頭上一メートルほどの地点で飛沫を上げつつも四散していた。
たっぷりと冷水を吸った衣が肌に張りついている。決して虚弱ではない、数々の荒行によって鍛えられた細身の躰が浮き出ている。
滝の音量は決して衰えぬ。しかし、その只中にありながら、既に身を打つ滝は、ない。
じっとりと垂れた前髪が雫を結び、それが膝に落ちた。沙嶺は瞳を閉じたまま、岩盤の上に立った。
結跏趺坐の姿勢を解き、直立する足に痺れは無い。岩盤から降り、膝の下まである冷水に足を入れてもなお、沙嶺の瞼は開こうとせぬ。
いや、開く必要が無いのだ。
何故なら、沙嶺の紺碧の瞳は、生まれ落ちたその瞬間から、如何なる光をも映した事が無かったからだ。
その場を後にし、沙嶺は鼻から溜めていた息を吐き出す。気息はすなわち力を意味する。不可視の障壁を生成していた沙嶺の法力が解かれ、滝は再びその流れを取り戻した。
滝壷から岸へと上がり、かけてあった布を手にとろうとした瞬間であった。
沙嶺の聴覚が、何かを捕らえた。
それは悲鳴のようでもあり、また仲間を呼ぶ鳥獣の声のようでもあった。甲高い音は確実に沙嶺の鼓膜を貫き、そして彼の感覚を刺激した。
これにも似た事を、沙嶺はここ数週間の中で幾度となく耳にしていた。
それでも、声の主は杳として知れぬ。
沙嶺は今度こそ、その主を探ろうとして、感覚の網を周囲に張り巡らせた。
待つこと数刻。しかし、二度目は無い。
深い溜息をつき、沙嶺は頤を下げた。
あの声の主が何であれ、その身には危険が迫っていることを意味している。たとえ人と獣の隔たりはあれ、そのくらいは分かる。猟師に狙われたのか、それとも他の獣に捕まえられたのか。それ以上の詮索は意味が無いと感じた沙嶺は、緊張を解いた。
この山は、武州御嶽と呼ばれる霊山であった。
沙嶺が修行を積んでいる宗派は曼華経と呼ばれるものであった。元は大陸における様々な神々がこの国にもたらされた際に、共に流入した呪術一派とされており、奥義は全ての事象空間を包括する絶対の智に到達することとされている。
曼荼羅と呼ばれる世界観はこの曼華経における全世界である。中央に最大仏尊を配したその幾何学世界は物質と精神の構造を表現し、地水火風空の五大世界の圧縮された図式を表現している。信者はつまり、最大仏尊との知行合一を最終目的とし、さらに到達までの道程において障碍となる魔を浄滅調伏する呪法もまた、存在する。
冷え切った躰に纏う白装束を脱ぎ捨て、躰を拭き、そして新たな衣を身に着けた沙嶺が、ふと頭を巡らせる。
枝を踏みおりながら、こちらへとやってくる足音に気がついたからだ。
敵意は無い。それに、気配は沙嶺がよく知っている者であることを伝えていた。