第三十三章第二節<棄てられた街>
異状に逸早く感づいたのは、舞であった。
大気の中に血の臭いがすると。
鬼の血故か、そうした穢れには人一倍強い反応を示すというのか。
地獄なのだから、血臭など珍しくもないと一蹴しようとした光照は、続く宝慈の言葉に目を覚ませられた。
「今までに、死体なんぞなかったけどなあ」
固定概念をいつの間にか刷り込まれていたのは、光照のほうであった。
如何にここが地獄であれ、責め苦に苛まれる亡者がいなければ、そこに血の臭いなどするはずもない。
地獄という異界そのものに染み込んだ穢れであるならば、殊更に舞が気づくはずもない。
そのとき、一行が差し掛かっていたのは、聖堂の廃墟が一層密になっている区域であった。
聖堂だけではない、まるで街一つが何か途轍もなく無慈悲な力によって蹂躙された跡地のような、場所。
そもそも地獄において慈悲を乞うこと自体が、お門違いではあるのだが。
そこに何かがあるか、分からなければ、これまで同様の廃墟の一角であるということで素通りしていたかもしれない、その場所。
視界を遮るような瓦礫の中に、一行は足を向けた。
ひび割れた石畳はそこかしこでめくれ上がってはいたが、歩行が困難であるほどではない。誰一人、知るはずもないその失われた街の中央通りらしき幅広の道を、舞はしばらく歩き、そしてとある路地に折れた。
大人二人が並んでぎりぎり擦れ違うことが出来る程度の狭い路地の突き当たりの門をくぐる。
そこがかつてどのような場所であったのか、今となっては分からぬ。
しかし、そこが終着点であった。
家具らしきものが何一つ残されていない、その小屋の中に一人の男が倒れていた。
白いスーツを着た長身の男。
誰もがその服装を見たとき、北斗を思い浮かべ、騒然となる。
しかし、北斗が愛用していたのは紺のスーツ。今自分たちの目の前で倒れているのは、血に染まった白いスーツを着た、西洋人であった。
誰も言葉には出さなかったが、それが西洋の魔術師であることはすぐに分かった。
名はユリシーズ・ベネディクト。
だが彼を直接知るものは、三人の中では宝慈だけであった。天沼八幡の結界を死守する戦闘において、境内を背にした宝慈はユリシーズと対峙していた。
「……伴天連の者だな」
ぞっとするほどの寒気を起こさせるような、舞の声が響く。まるでおぞましい罪を犯した者を見下すような、凍てつく瞳でユリシーズを睥睨する舞からは、およそ情けというものは感じられなかった。
ぎりりと拳を固め、舞が一歩を踏み出す。
ユリシーズには動く気配はない。
死んでいるのではないことは、時折微かに動く呼吸から、知れる。舞の足が、さらに進む。
「まあ、待ちなよ。気持ちは分かるけどさ」
髪を掻き揚げ、光照がため息交じりに言葉を挟む。
目尻を吊り上げんばかりの形相の舞は、いささかも気迫を減ずることなく光照に向き直った。
「お前……何をして、わらわの胸中を知ると申すか!」
空気が渦を巻き、鬼としての妖力を喚起する。
「お前たち人に虐げられ、追われ、同胞を殺され、それでもなおこの土地からは離れられず、この国と命運を共にする……我等妖の念を、知ると申すか!!」
この地に足を踏み入れてきた人は、次第にかつての仲間に背を向けた。
それまでは、人と妖はそれぞれに敬意を持っていたのに。
人は、人の手によって生み出した知識によって、我等の存在から目をそむけた。それは何より、自分たちだけの手によって、この国を統治したかったからではないか。最早、お前たち人間にとって、我等妖はかつての友としての立場すら与えられぬ、前時代的な遺物に過ぎぬ。
「まあまあ、待て待て」
熊のような動きで、のっそりと身を起こし、二人の間に宝慈が割って入る。
「言い争いをしても、どうになるもんでもないだろうがあ」
「止めるな!」
舞の激昂を今度は宝慈は無視し、うつ伏せに倒れているユリシーズの腕を掴むと、その下に自分の体を入れ、持ち上げる。
「よいしょ……っと」
「お……おい、宝慈、ちょっ……」
二人の意見を無視し、ユリシーズを担ぎ上げる宝慈に、光照は呆気に取られた顔をする。
「そいつ、どうするつもりなんだい……?」
「せっかく見つけたってのに、捨て置くわけにもいかんだろう」
「その男は敵国の者であろうが! 助ける謂われなどはないはずだ!」
舞にまで同じことを問われ、宝慈は一度背負いなおすと二人に振り向いた。出血は止まっていないらしく、宝慈の装束の肩の辺りに血の染みがつく。
「なら、あんたはなんで、俺たち人間に力を貸してくれたんだ?」
舞の形相が、ふと緩んだ。
「さっきまでの話が本心だとすればだな、あんたは人間に強い怒りを感じていることになる……なら、天沼八幡で俺たちの前に出てきてくれたのは、どうしてだ?」
舞はその問いには答えようとはしない。しばらくの沈黙が辺りを支配し、そしてやがて、宝慈の肩でユリシーズがもぞりと動く。
「あんたは、もう一度、俺たちに力を貸してくれようとしたんだろう……共に日本を護りたいと。違うかあ?」
「それなら……その男を生かしておけば、それは護国の妨げとなろう!」
「ここは、もう俺らの知ってる世界じゃあないんだ」
瞳を閉じ、宝慈は誰にともなく、微笑む。
「奴さんを殺して、それでここから出られるなら話は別……しかしそういうわけでもなかろうに」
私利私欲を捨て、同じ日本を護るために、妖らは人にもう一度、力を貸した。
それならば、同じ人間として、この異界から戻るためにユリシーズを殺さぬことに、どれほどの違いがあろうか。
「それに、奴さんには一つ、聞きたいことがあるんでなぁ……どうして、日本をそこまで目の敵にするのか、それがまだわかっちゃいないんだ」