第二十五章第三節<ソロモンの魔術書>
頬を伝う暖かい血の感触と入り混じり、鋭い痛みが高坂光照の感覚に不協和音を送り込んでくる。
それを指で拭い、そして痛みを訴える部分に指を当てると、ずるっと皮膚がずれ、痛みが強くなる。
浅くではあるが、確実に斬られている。
光照は一度息を大きく吐き出すと、眼前の青年に目を向けた。
白いスーツに身を包んだ、金髪の青年。それはまるで日本という国に新たな経済資本を築かんと、極東の地に向かった青年実業家のようでもあった。
しかし、指先に揺れる霊気の流れは、この青年もまた、通常の人間ではないことを示していた。
魔術的技量では一歩劣る光照ではあったが、やはり飯綱使いの家系の血を引く者として、異界の力を捉える視覚は常人よりは優れていた。
軽く握りこんだ拳の先に伸びる、力の気配。それは先刻、青年の唱えた奇妙に間延びのする、そして低い旋律の詠唱によって召喚されたもののようであった。
霊視能力を有する者が見れば、青年の手には確かに一振りの剱が握られている様子が見えるだろう 時に霞み、時に震え、その姿は決して物質として固定せず、しかしそれゆえにエノクの風の魔力を十二分に発現することのできる魔術武器。
そう、彼こそが水のルスティアラ、炎のユリシーズに続く第三のエノク魔術師、サミュエル・リンドバーグであった。
ひゅごう、と手元で風が鳴る。属性の力の象徴として幻視されたその剱は、サミュエルに現実の世界において影響を及ぼす風の支配力を一時的にではあれ、付与していた。
「お前……魔術師ってよりは、使役師だな?」
つい先刻、光照の繰り出した飯綱による攻撃を躱しているサミュエルは光照を指すと、そう尋ねた。
「さっきのはいったいなんだ? ただの獣じゃないし、精霊でもないし」
「そのどちらでもないよ、面白いだろ?」
傷を負わせられたことにすら、微塵も怯んではおらぬ口調で、光照が返答する。
サミュエルが攻撃を仕掛けたのは、憲兵本部を背後に控えた東の大手門。
鋭利かつ精密な操作の可能な風によって、サミュエルは門扉を正方形に切断し、生じた間隙から堂々と足を踏み入れていた。
これにより、ほぼ同時にではあるが、攻撃を受けた方角は西を除く三方向。そして全ての攻撃に対し、陣を組んだそれぞれの術師や能力者が迎撃にあたっていた。
「なら、教えてやるよ」
サミュエルは幻視剱を握ったまま、両腕を左右に広げた。
「使役師や召喚師の弱点ってヤツを……よ!」
だん、と地を蹴ったサミュエルは、左手の指を揃えると視覚化した剱の表面を指でなぞる。
「K=A=Lの式文によりて出で成せ、等しき霊数のベイバロンの獣!」
風鳴りの音が唐突に大きくなり、サミュエルの剱の周囲に精霊の力が集結する。それはしだいに形を成し、サミュエルの詠唱に導かれるように、淡く青く光る巨大な肉食獣を浮かび上がらせる。
まるで肉に直接、楔や釘を打ち込んでいるのかと思わせるほどに禍々しい鉄の臭気を纏わせた獣。
顔面から前肢の付け根の辺りまでを、幾重にも重ねられた鋼鉄の板によって覆いつくされ、わずかに眼窩の部分に小さな穴が開いているのみ。さらには顎の関節までもが強化されており、本来の濡れ光る牙に重なるように、鋭利な鉄の刃がずらりと並んでいるではないか。
しかし、かといってその獣が現実に召喚されたものなのではなかった。
その証拠に、獣は胴の半ばほどまでしか、結像してはいないのだ。それよりも先には、渦を巻く風のエレメントが存在するのみであり、それらにはなんら力は与えられてはいなかった。
獣は一声吼えると、宙空にまるで前肢を立てるように身をかがめ、爛々と光る瞳で光照を見据えた。
人間から放たれるものとは根本的に異なる、純粋な闘争本能から生み出された威圧感。
光照の脚が、意思とは完全に無関係なまま、じりと半歩下がる。
その動作に勝利を確信したのか、獣は咆哮を上げつつも光照に突進をかけた。
圧倒的な質量と、憎悪の塊。生半可な迎撃では獣の突撃を止めることすらままならず、そして命がけの反撃すら跳ね返す装甲に護られた獣には傷ひとつ追わせられぬのではないか。
そんな意識に囚われつつあった、光照の精神が生存本能の必死の抵抗に覚醒する。
この獣は魔術によって生み出されたもの。となれば、懐に忍ばせてある銃では効果のある攻撃を仕掛けることはできまい。
光照は意を決し、瞳を閉じ、両手で包み込むように竹筒を掲げ持つ。一見すれば、まるで迫り来る死の運命を甘受しようとでもしているかのようであったが。
「彼方の 繁樹がもとを焼鎌の敏鎌以て打ち祓うことの如く 向かう禍魔を打ち祓ひけり」
ぱん、と拍わ手のような音が鳴った。
同時に、獣の鋭い牙と爪が、光照の艶やかな着物をさらに赤く染めようとしたときであった。
竹筒の中から飛び出した飯綱が、光照の唱えた祝詞によって霊力を増し、体格差十数倍はあろうかという獣に対抗したのだ。
現実世界のことではないから、その差が影響を及ぼすことはまずありえない。しかし、サミュエルとてエノク魔術における風の象徴として剱を呼び出し、携えることで自らの力を高めているのだ。
まさかあの異形をもって、己の獣に立ち向かうなどと想像できなかったに違いない。
いやよしんば異形を用いたとしても、圧倒的な攻撃の象徴の前に光照の精神を動揺させ、本来の力を発揮することなく、文字通り四散させることができるだろうと、考えていたのだろう。
しかしその思惑は、見事に外れることとなった。
獣の牙も爪も、飯綱に触れることすらできなかった。飯綱の躰を覆う目に見えぬ壁が、がっちりと獣からの攻撃を阻む。
それ以上は前進することすらできず、空中で獣と飯綱は組み合ったまま拮抗状態に陥っている。
「く……!?」
「どうしたんだ? 何かを教えてくれるんじゃなかったのかい?」
余裕を見せ付けるような光照の声に、サミュエルの怒気がさらに膨れ上がる。しかし、最終的な理性の崩壊による感情の発露を見せないあたりは、やはり魔術師の端くれと言ったところか。
「我は命ず、いと高き全能の名において……滅ぼせ! 大いなる伯爵、鳩将参謀ッ!」
サミュエルの指が、空中に奇妙な図形を描き出す。
堕王召喚呪を刻み、ソロモンの英霊を呼び出そうと絶叫する。
明らかに空間が変質し、どこからともなく無数の鳥の羽ばたく音が耳を打つ。
だが光照にも策はあった。指を突き出し、先ほどのサミュエルのものとは別の軌道を持つものの、やはり同種の魔力を持つ紋章を空中で描く。
「偉大なる主の力によりて誘われよ、汝焔狼侯爵……主天使の地位を望む者よ!」
今度こそ、サミュエルは愕然となった。
まさか眼前の東洋人の口から、言語こそ違えど同じ教典に記された詠唱旋律が流れ出てくるとは。同じ空間の中で、それもごく近い地点で堕王召喚呪を連唱され、歪曲が加速度的に大きくなる。
それによって、実体化の速度が速められ、サミュエルの頭上の闇から無数の鳩が呼び出された瞬間、空間は紅蓮の光に包まれたのだ。
本格的な西洋魔術の修行を積んでいないために、不安定な実体化しかできなかった光照の召喚術ではあったが、それでも飯綱使いの家系に受け継がれた異界を近しく感ずる血は、魔術を発動させた。
本来であれば、グリフォンの翼と大蛇の尾を持つ狼が呼び出されるはずであったが、代わりに出現した濃く黒い霧から、焔狼侯爵のものと思われる炎の息吹が、迫り来る鳩を殲滅したのであった。
戦争を司る英霊鳩将参謀の象徴たる鳩は、同じ英霊の炎によってかき消されてしまっていた。
対する焔狼侯爵もまた、不安定な次元においての活動限界を即座に迎え、術者の強制力をかなぐり捨てて異界へと帰還していく。
「……ッ、てめェ、何者だよッ!」
「びっくりしたかい?」
光照は微笑み、人差し指を立てて横に振って見せた。
「僕の知り合いにはずいぶんと舶来の人間も多くてねぇ……その中の一人から、怪しげな本を手に入れていたのさ。まさか、こんなところで役に立つとはねえ?」