第十四審
最近真知子は現世の仕事に追われていた。それこそ殺される勢いで。
大きな仕事が立て続けに入ってしまいここ数週間碌な休みも無く働き詰めである。仕事が終わるのは連日深夜の二時三時は当たり前。さすがに出勤時間を遅くしても多めに見てもらえるが、連日の激務で疲労は蓄積されてふらふらだ。
いつ帰れるか分からない真知子に付き合って田中さんも遅くまで会社に来ている。といっても彼はずっと真知子の足下で寝ているが。
学生の時は徹夜しても眠気が凄いだけで体調に影響を及ぼすことは余り無かったのだが、最近は体が鉛の様に重くて怠い。
そして今日は先方から仕事を進めるのに必要な原稿が待てども暮らせども送られて来ないので先輩が「今日は、もう帰って、明日頑張ろう」という英断を下し、久しぶりに早く帰宅できた。
といっても夜の八時で定時はとっくに過ぎているのだが定時を二時間も過ぎたのに早く帰れたと思ってしまう辺り毒されている。
バスの中で寝てしまった田中さんを抱えて玄関のドアをくぐる
「ただいまー……」
今日は早くご飯を食べてさっさと寝よう、と靴を脱いでいると玄関の光景に妙な違和感を覚えた。
見慣れない男物の靴が綺麗に玄関に並んでいる。
いつもならこの時間は皆夕食を食べ終えてリビングには母くらいしか残っていない筈なのだが、今日はやけに賑やかだ。
もしかしたら父か弟の会社の人が遊びに来ているのだろうかと恐る恐るリビングに足を踏み入れた真知子は目の前の光景に度肝を抜かれた。
「あ、真知子ちゃんおかえりー」
食卓では小野家全員集合で夕飯を囲んでいる。
そこに今日はお客さん用の椅子を出して来て征将が朗らかに笑って小野家の食卓に加わっている。その後ろには三郎がひらひらと手を振っていた。
征将は濃いグレーのシャツに瑠璃紺色のネクタイを締めており、そこだけスポットライトが当たっているかの様な華やかさである。ストライプの入った上等の黒いスーツの上着は安っぽいプラスチックのハンガーに掛けられてカーテンレールに吊るされている。
一方小野家の人々はというと父は青のジャージ。母は弟が履かなくなったジーンズに「新選組」という黒い文字だけプリントされた謎の白いTシャツ。弟は高校時代のよれよれジャージ。祖父は妙にくすんだ緑色の長袖のポロシャツにステテコ。祖母は極彩色の花柄のブラウスに黒のズボンといった個性派揃いだ。
恐らく祖母はこの後友達と出掛けるからまだまともな格好をしているが(センス云々は不問とする)他の家族と征将の服装の格差がひど過ぎて真知子は顔を覆った。
「あら、今日は早かったのね」
そんな服装格差を全く気にしていないらしい母親が真知子に声を掛ける。
「た、滝さん、何でうちに……」
「征将君、あんたに用事があったのにあんたの携帯電源切れてて連絡つかなくてうちの近くまで様子見に来てくれたんですって」
「あー……」
昨日仕事から帰って来てすぐに寝てしまった為携帯の充電をするのを忘れ、昼頃には充電が切れてしまってそのままにしていた。
「夕飯の買い物帰りに征将君に会って見とれてたら「突然すみません。小野真知子さんのお母さんですか?」って声掛けられてびっくりしたわー!」
「それで話し込んでるうちに夕飯に誘って頂いたんだ」
娘の知り合いとはいえ初対面の人間に夕飯の誘いまでさせるとは、イケメン恐るべし。
「真知子ちゃんはお義母さんそっくりの美人さんだからすぐ分かりましたよ」
「まぁ!そんなお世辞言ったってコロッケくらいしか出せないわよ!」
「お義母さんとおばあちゃんのコロッケもとても美味しいですよ」
「征将君ビール足りとるか?」
「はい。ありがとうございますお義父さん」
「ごはんのおかわりはいるかい?」
「すみません、もう一杯頂けると嬉しいです」
「良い食いっぷりだねぇ」
「ジュエリー関係ってやっぱり美人多いんですか?」
「俺は営業部所属だから周り男ばっかりだけど、店舗は華やかな女性が多い職場だね」
「いいなー」
「………」
名字呼びをすっ飛ばして名前呼び。どんな技を駆使したのか分からないが小野家全員が見事に骨抜きにされている。
改めて征将の手腕を目の当たりにして真知子は恐ろしい男だと思い知った。
結局夜の十時まで小野家の面々は征将を引き止めてしまい、父と弟と祖父は見事酔いつぶれてしまった。祖母は中座して友達とカラオケ教室に出掛けて行ったが。
男連中にかなりの量を飲まされていたにも関わらず征将は顔色ひとつ変わっておらず、言動も普段と変わらずしっかりしている。イケメンは酒に呑まれて醜態をさらすということもしないらしい。
片付けの手伝いを申し出た征将であったが、お客さんにそんなことさせられないと母が断り真知子に征将をバス停まで送る様に言って来た。
「真知子ちゃんの家族は楽しいね。お義母さんとおばあちゃんのご飯も美味しかったし」
「田中さんがより一層太ったのも分かる気がしますねぇ」
「ほっとけ」
確かに出会ったときより田中さんが一回り大きくなったような気がしていたが、どうやら真知子の気のせいではなかったようだ。
しかし原因は田中さんだけでなく小野家にもある。
皆何かにつけて食べているものを田中さんにあげてしまう。見た目に反して気性の穏やかな田中さんを小野家は大層気に入っている。今では小野家のマスコットキャラクターの様な存在だ。
「皆久しぶりのお客さんで嬉しかったようで……すみません、こんな遅くまで引き止めてしまって。あの、それでご用件はなんだったんでしょうか?」
「あ、そうそう、忘れてた」
もちろん家族は真知子が冥界の仕事をしているなんて知らないので家族がいる場で仕事の話しはできない。
「今日閻魔庁から出勤要請が出てたんだけど、真知子ちゃんから返信が来ないから様子見て来てって閻魔大王から頼まれたんだ」
「え!?」
仕事の連絡を怠ってしまったことに一気に血が引く真知子。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。現世の仕事が忙しいって聞いてたから今日中は無理ですって連絡しといたんだけど、明日なら大丈夫かな?」
恐らく今日入って来なかった原稿が明日は入って来る筈なので、明日は九十九%修羅場だ。
「あー……ちょっと仕事抜けて閻魔庁に行きます。……仕事終わるの待ってたら朝になっちゃうと思うんで……」
「え!?朝!?」
遠い目をして真知子が答えると征将が驚いて聞き返す。
「こいつの職場今すげーぞ。地獄より地獄らしい」
昨今ではブラック企業が問題視されているが、デザイン関係の職場では昔からそれがまかり通ってしまっているのが実情だ。寧ろデザイン関係の会社の九十%がブラック企業だと言っても過言ではない。
金融や医療など直接的に生活に直結する仕事とは違いデザインは突き詰めてしまえばあっても無くても生活できてしまう。
圧倒的な才能とセンスがあれば別だが、そんな人間ばかりでもないので極限までスピードと量を要求されてしまうのが常。デザイナー達は皆日々精神と体力を極限まですり減らして仕事をこなす為体を壊して仕事を辞めて行く人も多い。
そんな過酷な業界でも成り立っているのはこの業界を志す人間が多いからだ。
薄給でもいいから自分の夢を叶えたい。自分の夢を形に残したい。
真知子もその一人である。
「……好きな事を仕事にできて幸せだなぁって思うんですけど、正直、ここまで来るとキツいなぁって思います。志だけあればやっていけるって思ってたんですけど、やっぱり労力と給料が比例しないのって辛くて」
好きなことが義務や責任になった途端苦しくなる。
憧れた世界で認められたくて飛び込んだのに、これ以外の選択肢が自分に出来る訳なくて後悔なんてしていない筈なのに、たまにどうしようもなく苦しくなる時がある。
「俺は真知子ちゃんとは真逆の人間だから好きなことがあるってだけで羨ましいし、好きな事を仕事にしてそれを頑張ってることが凄いって思うよ」
自分の弱音に対して真っ直ぐな言葉を返して来た征将に目を丸くさせる真知子。
しかし、こんな非の打ち所の無い人間に羨ましいとか凄いとか言われて素直に喜べる程素直でもない。
それを察したのか征将が苦笑を浮かべて言葉を重ねる。
「結局人は手に入らなかったものが欲しくなっちゃう生き物だから他人に憧れるのは仕方ないけど、真知子ちゃんの生き方も他人からしたら充分魅力的だよ」
真知子も征将も他人が羨ましくて仕方無い。
例え多くの物を手にしていても手に入らなかった物が輝いて見えてしまう。
人とは恐ろしく厄介で強欲な生き物だ。
「人間っつーのは本当に面倒くせーな。食って寝る所がありゃそれでいいじゃねーか」
くありと大きな欠伸をしながら田中さんが呟いた。
田中さんの豪快な感想に思わず二人で笑ってしまった。




