第一審
千年の都、京都。
永く日本の首都として機能してきた京都は、歴史を持つ一方で様々な伝説や事件の宝庫でもあった。
京都の伝説の一つに、あの世とこの世を繋ぐ井戸の話がある。
平安時代の公卿、小野篁は毎夜あの世に繋がる井戸を降りて閻魔大王の裁判の補佐をしていたという伝説。
この伝説が本当だったのかどうか定かではないが、あの世とこの世を繋ぐと言われる井戸は今現在も確かに存在している。
「それでは、雅也と奈緒の結婚を祝して、かんぱーい!」
幹事の乾杯の音頭と同時に、乾杯と口々に言いながら各々グラスをがちゃがちゃとぶつけていく。
花の金曜日の四条河原町。めぼしい居酒屋はほとんど満席で、あちらこちらでやんややんやと盛り上がっている。
そんなめでたくもハッピーな飲み会で、一人の女は浮かない顔をしながらグラスにちびちびと口をつけていた。
柔らかい茶色の長い髪を内側にくるんと巻き、淡い色のシャツワンピースを着ている。
「だからやめとけって言ったのに」
彼女の隣ではボーイッシュな雰囲気の女性がビールジョッキを呷りながら呆れた様子でつぶやいた。
「だって……」
浮かない顔で酒を飲んでいた小野真知子は渋い顔をして再びグラスに口をつけた。
今回の飲み会のメンツは大学時代のサークルの同期で、その中のカップルがこの度めでたくご成婚と相成ったので久しぶりに皆で集まってお祝いをしよう、という趣旨の飲み会である。
しかし、祝う気持ちなど一ミリたりとも真知子の中にありはしない。あるとすれば呪う方だ。
何故かというと新婦となる奈緒は真知子の親友だった子で、新郎となる雅也は二週間前まで付き合っていた真知子の元カレだからだ。
つまり真知子からすればこの飲み会は結婚おめでとう飲み会では無く、寝取られた彼氏と寝取った元親友のツラを拝みに来た呪いの会なのである。
元カレこと雅也と出会ったのはこのサークルがきっかけで向こうから告白されて付き合う事になった。ちなみに奈緒と出会ったのもこのサークルである。
グループ間での付き合いが密で他のメンバーと気まずくなりたくないと雅也が言った為、ここにいるメンバーは彼と真知子が三年も付き合っているのを知らない。
結婚する奈緒以外は。
奈緒は真知子と雅也が付き合っていると知って取ったのだ。
三週間前、仕事ばかりで最近あまり会えていなかった雅也から日曜日に会えないかというメールが来た。
少々かしこまったメールから、まさかプロポーズされるのではと真知子は舞い上がった。
しかし現実は残酷であった。
久しぶりにおしゃれして待ち合わせの場所に行くと、思い詰めた顔の雅也が真知子に言ったのは別れてくれという言葉だった。理由を聞くと、「他に好きな人ができた」と言った。
離れたがる男を引き止めるのは至難の技だ。その日も「私じゃだめなの?」と言い縋ったりもしたが結局彼が首を縦に振る事は無かった。
そして別れ話の一週間後に電話で別れを告げた。
また新しい恋をしなくちゃと前向きに物を捉えようとしていた矢先、寝耳に水の事態が発覚した。
久しぶりにサークルメンバーで集まって飲み会をすることになったから来ないかと隣の彼女、さわちゃんから電話があった。
大学を卒業してそれぞれ仕事が忙しくて学生時代みたいに集まることができなくなっていたのでそのときは純粋に飲み会が楽しみだった。
だが、飲み会の趣旨を聞いた真知子は我が耳を疑った。
『雅也と奈緒が結婚するからそのお祝いも兼ねて皆で集まろうかって』
愕然とした。
怒りと絶望で言葉が出て来なかった。
携帯電話の向こう側で真知子の異変を察したさわちゃんが懸命に名前を呼んでいる。
真知子は泣きながらさわちゃんに全ての事の顛末を話した。
「あーいうのは静かに家で呪っとけばいいのよ。視界に入れても公害だし、説教しても馬の耳に念仏なんだから」
他のメンバー達は奈緒と雅也を囲んで昔話に花を咲かせているが真知子とさわちゃんは部屋の隅でぼそぼそと話している。
もしかしたら奈緒の座っていた所に自分が座っていたのだろうかと考えるとやっぱり切ない。
ここに来てもまだうじうじとしている自分にも嫌気がさす。
「……真知子、このあと二人で飲み直しに行くわよ」
「へ?」
「こんなまずい酒で眠れる訳無いじゃない。何、私と酒が飲めないっての?」
「さわちゃん……!」
上から目線の発言だが、これがさわちゃんの優しさだと真知子は知っている。
感極まってさわちゃんの首根っこに思いっきり抱きつく。
さわちゃんの気遣いもあって一次会で飲み会を抜け、二人で別の店で飲み直した。
「良い!?あんな奴らのことなんかちゃっちゃと忘れて、めちゃくちゃ良い男捕まえるのよ!!」
「了解でありますタイチョー!」
駅の出入り口前でべろべろに酔っぱらった女二人が大声で騒ぐ。
あのあと二人で飲み直し、文字通り浴びる程酒を飲んだ。いつもだったら飲み過ぎると気持ちが悪くなるのに、今日は不思議と気持ちがふわふわとして何だか変に楽しかった。
多分ショックが勝って空回っているだけだろうが、泣くより笑い飛ばしてしまった方がすっきりする。
「ん!分かればよろしーい!後は気をつけて帰りたまえ!」
「タイチョーもお気をつけて!」
二人で敬礼して地下にある駅に降りて行くさわちゃんを見送る。
「はぁ」
一人になると一気に寂しくなった。
早く帰って寝よう。
肩に掛けていた鞄を掛け直してバス停へ向かって歩き出した。
いつも使っているバスは祇園から出ている。四条河原町から少し歩いてバス停に着くとバス停には誰もいなかった。何本ものバスが停まる停留所なので自分以外に人がいないのは本当に珍しい。
「あのぅ、すみません……」
背後から声がして振り返ると、おばあさんが立っていた。
「え、あ、私でしょうか?」
今が夜の所為か、一人でいる所為か、どちらかは分からないがちょっと怖いと思ってしまった。
「すみません、この住所に行きたいのですが……」
なんとも面倒くさそうな匂いがする。しかし夜遅くにおばあさんを放っておくことも出来ず差し出された手描きの地図を手に取る。
「あー……」
ここからも何本か通りを南に降りて東に右折するだけなのだが、道路何本目だったかな……と思い出そうと試みるが記憶が曖昧だ。
「えっと、私一緒に行きましましょうか?」
バスもまだ何本か残っているしすぐ近くなのでそう時間は掛からないだろう。
「そんな、そこまでご面倒をお掛けするわけには……」
「私説明へたくそなんでご一緒させて下さい」
おばあさんは少し迷って、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
おばあさんの話しを聞くと京都で一人暮らしをしている孫に会いに来たそうだ。
「この辺りのはずなんですが……」
通りから逸れて住宅街に入ると、車も人通りも一気に減ってぽつぽつと等間隔に灯っている街灯が少し怖い。
「お孫さんのアパートの名前とか知ってますか?」
後ろから着いて来ているおばあさんを振り返ると、おばあさんはこつ然と姿を消していた。そしておばあさんの姿が消えた途端、一帯の街灯がバチバチッと不穏な音を立てて一気に消えた。
「え?え!?」
今日は満月の筈なのに足下すら見えない。
灯りが溢れているこの世界で本当の暗闇を経験することはあまりない。まるで世界から一人だけ隔離された様な感覚に絡めとられる。
「お、おばあさん……?誰でもいいので返事してくれませんかー……?」
身を縮こませて恐る恐る暗闇に向かって呼びかけてみた。
『……こ……じゃ……』
「!!だ、誰かいるんですかー!?」
微かに声が聞こえてくる。おばあさんの声では無さそうだが、この際誰でも良い。
しかし、どうも先程から嫌な予感がする。
残念ながら今までの経験則からこの手の嫌な勘は外した事が無い。
『ひとのこじゃひとのこじゃ』
『しかもわかいおなごじゃ。うまそうじゃ』
「あ、あはは……」
段々と言葉が明瞭に聞こえるようになったがなんだか聞いてはいけないものを聞いてしまっている気がする。
「ひぃっ!!?」
ぺたぺたと水気のあるものが足に触れて真知子は飛び上がる。
『おれはあしがほしい』
『おれはめだまがほしい』
『おれはてがほしい』
足に触れられている所から悪寒が走る。
本能が逃げろと言っている。でもどこへ?怖くて声も出ないし足も動かない。
死を覚悟してぎゅっと目を瞑ったその刹那、
「こっち」
「!!?」
突然肩を掴まれて体をぐっと引き寄せられる。その瞬間、一気に周囲が視認できるようになった。
助けてくれた人物の歩幅に合わせて大股でこの場から離れる。
「女の子がこんな夜更けに誰にでもついて行っちゃだめでしょ」
「ははははははい!!!!」
突然現れた人物によって恐怖から開放されて安堵したのも束の間、助けてくれた人物が絵に描いたような整った顔の男で、思わずどもりまくる真知子。
全てのパーツがバランス良く、形の良い顔の中に収まっている。背もすらりと高く、背の小さい真知子は彼を見上げる為に少し首が痛いくらいだ。髪は丁寧にセットされており、持って生まれた見目に胡座を掻くことをしていない、一分の隙もない完璧な美男である。
そんな美形に体を引き寄せられたりなんかしたらどきどきしてたまったものじゃない。
失恋して、怖い目に遭って、そこに美形が颯爽と現れて助けてくれるなんて、まるでハリウッド映画的な展開である。
だが安心したのも束の間、彼も謎の行動を取り始める。
彼に導かれるがまま走っていたが何故か迷いなくとある寺の境内に足を踏み入れる。寺の門前には『六道の辻』と書かれた立派な石碑が建っていた。
「え?え?え?」
普通こういう時は交番じゃないのかと思うのだが突っ込む暇さえ与えてもらえない。
奥に大きなお堂があり、その前に細長い石の石碑が建っている。
境内の左手にお地蔵様が山を作る様にずらりと並んでおり、夜ということもあってかその雰囲気は異様だ。
「ちょっ、どこ行くんですか!?」
真知子の問いかけも虚しく彼はずんずんと境内を進んで本堂の脇にある木製の階段を靴のまま上り、木製の引き戸を引いて寺の中庭に足を踏み入れる。
中庭は小さな面積に高低様々な木々が仲良く寄り合っており、通り道には白い砂利が敷かれている。突き当たりにある真っ赤な社に目が奪われるが、彼は縁側を降りて社の右に少し逸れる。
右に逸れた先には竹の簀の子で蓋をされた古井戸が姿を現す。彼は井戸の蓋を取り、あろうことか真知子を井戸の方へと押しやった。
「ええええええ!?ちょっ、ちょっ、ちょっと!!!なななななにするんですか!!?」
「とりあえず今は俺を信じて!」
「信じられるかあああああ!!!」
偶然出会った美形に助けられて恋に落ちるのはハリウッドの定番だが、真知子の場合、偶然出会った美形に古井戸に突き落とされそうになっている。
これではラブロマンスではなくサスペンス劇場である。
なんでここまで不運なんだ!と嘆いてみるが、背中を押される力は弱まりそうに無い。
「落ちても大丈夫だから!」
「げっ!!」
必死に井桁に掴まってなんとか堪えていたが結局男の腕力には勝てず、井戸に突き落とされた。