【猫又】
――九月四日――
抜け出せない沼。
また――
九月四日が来た。
「お願いっ!」
「助けて!」
女は泣き叫ぶ。
何度も。
何度も。
声が掠れる。
それでも懇願する。
ベッドに縛られたままの女。
両手足の縄が擦れる。
血が滲む。
身動きできない。
そのまま乱暴される。
仮面の男は満足そうに女を見下ろした。
手には銀色に光る刃物。
恐怖する女。
刃物を振り上げると、躊躇なく女の腹に突き立てた。
目を見開く。
真っ赤な血が白いシーツを染め上げていく。
スマホが、全ての惨状を淡々と記録していた。
――九月三日――
――早朝。
部屋のベッドで目を覚ます女。
頬には涙の跡。
「また……戻った?」
同時に――
言い難い苦痛と陵辱を思い出す。
トイレに駆け込む。
胃液を吐く。
毎回同じ行動。
――朝。
キキーッ!
交差点。
甲高いブレーキ音が響いた。
ドンッ!
黒猫が宙を舞う。
アスファルトに叩きつけられた。
車は減速すらしない。
そのまま走り去った。
この沼にはまってから繰り返される。
いつもと同じ光景。
女は立ち尽くしていた。
虚ろな目。
痩せた顔。
生気のない表情。
猫が痙攣している。
口から血を流しながら。
「……」
女はしゃがみ込んだ。
今まで何度も見捨ててきた猫。
困っている人も。
泣いている人も。
どうせ自分も死ぬ。
そう思っていた。
だから、自分も他者を見捨てていた。
だが。
今回は足を止めた。
「最期に……善いことでもしようかな」
初めて女は血まみれの猫を抱き上げた。
痙攣する猫は、苦しそうに女を見上げた。
その時だった。
「あ……」
猫の尻尾が一瞬だけ二本に見えた。
だが。
次の瞬間には一本だった。
「気のせいかな……」
女は猫を動物病院に連れていった。
――夕方。
廃ビルの屋上。
風が吹く。
女は手すりの向こうを見下ろした。
「死ねば……脱け出せるかも……」
何度目の夜だろう。
分からない。
ただ――
明日になれば殺される。
それだけは知っていた。
女は飛んだ。
身体が落ちる。
地面が近付く。
終わる。
そう思った瞬間――
影が飛び出した。
ドガッ!
何かにぶつかった。
視界が暗転する。
――夜。
女が目を覚ます。
病院だった。
白い天井。
消毒液のにおい。
「助かったの……?」
女は茫然と呟いた。
看護師が困った顔をする。
「起きたのね。助かったのは奇跡よ」
「……」
「それとね。貴女の下に、猫がいたらしいわ。普通なら、貴女もただじゃ済まなかったはずよ」
女は息を呑んだ。
「猫……?」
「黒猫だったらしいわ。回収しようとしたら……消えてたらしいわよ」
看護師が怖そうに答える。
あり得ない。
猫が人間を支えられるはずがない。
そんなこと。
絶対に。
だが。
女には分かっていた。
あの時。
確かに、何かが自分を受け止めた。
そして――
胸を締め付ける現実を思い出す。
「また……」
唇が震える。
「また殺される……」
――深夜。
日付が三日から四日に変わる頃。
病院から女が忽然と消えた。
――九月五日――
ニュース番組。
『身元不明女性の遺体が発見されました』
『警察は殺人事件として捜査しています』
――九月三日――
――早朝。
部屋のベッドで目を覚ます女。
頬には涙の跡。
「また……戻った?」
同時に――
言い難い苦痛と陵辱を思い出す。
トイレに駆け込む。
胃液を吐く。
毎回同じ行動。
スマホを見る。
【九月三日】
何度も繰り返した日。
女はタイムリープしていた。
気付けば、終わらない二日間に沈んでいた。
最初は犯人を探した。
警察へ行った。
逃げた。
隠れた。
だが――
駄目だった。
誰も信じてくれなかった。
家族も友人もただ困惑するだけ。
世界に見捨てられたと感じた。
九月四日。
必ず捕まる。
必ず殺される。
何度やり直しても。
対策を練っても。
結末は変わらなかった。
九月五日へ進めない。
やがて――
女は諦めた。
殺される前に、死ぬことにした。
それが前回。
ニャー。
窓辺から鳴き声が聞こえた。
女は振り返る。
そこにいた。
黒猫。
金色の瞳。
尻尾が怪しく揺れる。
揺れる尻尾が二本に見える。
「あ……」
前回、助けた猫。
「何で……?」
前回までとは、違う状況だった。
窓を開け招き入れる。
ニャー。
猫は語りかけるように鳴いた。
「私ね……」
女は嗚咽した。
なぜか、話したくなった。
胸の内を聞いて欲しかった。
「……明日殺されるんだ……」
猫は静かに隣へ座った。
ただ。
黙って聞いていた。
女を見上げる。
その瞳はどこか人間のようだった。
そして。
女の手の甲に落ちた涙を舐めた。
――その日。
女は猫と過ごした。
公園を一緒に歩いた。
コンビニで猫用おやつを買った。
久しぶりに笑った。
久しぶりに空を見た。
――河川敷。
夕焼け。
女は猫の頭を撫でた。
「変だよね」
猫は尻尾を揺らす。
「明日死ぬのに」
苦笑する。
「今回は……少し楽しい」
猫は返事をしない。
ただ隣に座る。
温かかった。
忘れていた。
誰かといる温もりを。
そして――
夜が来た。
――九月四日――
深夜零時。
日付が三日から四日になった。
目を覚ます女。
見知らぬ部屋。
だが――
知っている部屋。
何度もこの部屋で……
ベッド。
拘束された両手両足。
「……」
最悪の一日が始まる。
女は目を閉じた。
どうせ同じだ。
世界は自分を見捨てた。
抵抗しても無駄。
叫んでも無駄。
やがて扉が開く。
仮面の男が入ってきた。
「やっと二人きりになれたね」
知らない声。
だが――
何度も聞いた声。
ピコン。
スマホの撮影音。
仮面の男が女に覆い被さる。
女は動かない。
叫ばない。
もう疲れた。
その時だった。
シャァァァッ!!
「うぎゃぁぁ!」
男の悲鳴。
黒い影が飛び掛かった。
「えっ!?」
猫だった。
鋭い牙が男の首に食い込む。
「どうして……!」
女が驚く。
男は刃物を振り回した。
猫は避ける。
飛び掛かる。
血が飛び散る。
シャァァァッ!!
猫が女の腹の横に着地。
男を威嚇する。
ズズ。
猫の尻尾が二つに分かれた。
猫又。
次の瞬間――
拘束が切れた。
猫又が縄を噛み切ったのだ。
女を見る。
金色の瞳。
まるで――
『諦めるな』
そう言っているようだった。
女は震える手で、撮影スタンドのスマホを掴む。
警察へ通報した。
男と猫又は争い続ける。
転倒。
怒号。
悲鳴。
そして――
遠くから。
ファンファンファン。
サイレンの音が聞こえた。
――九月?日――
早朝。
目を覚ます女。
白い天井。
消毒のにおい。
だが――
部屋ではない。
病院だ。
女は恐る恐る聞いた。
「今日は……何日ですか?」
看護師は不思議そうな顔をした。
「九月五日ですよ」
女は固まった。
九月五日。
九月五日。
九月五日だ。
ループが終わっていた。
女は、ようやく沼の底から息ができた。
「終わった……」
涙が溢れた。
止まらなかった。
生きている。
明日がある。
もう殺されない。
その時――
ニャー。
どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
女は窓の外を見る。
何もいない。
けれど。
優しい鳴き声だった。
「ありがとう……猫又」
風がカーテンを揺らした。
女は思う。
世界は自分を見捨てたと思っていた。
けれど――
あの日、助けた小さな命は、自分を見捨てなかった。
――数日後――
公園のベンチ。
女はスマホを操作する。
画面には、動物愛護団体の申込みフォームが表示されている。
必要事項を打ち込む。
迷わず送信ボタンを押す。
秋風が髪を揺らした。
もうループはない。
もう追われてもいない。
明日がある。
それだけで嬉しかった。
その時。
ニャー。
聞き覚えのある声。
振り返る。
黒猫がいた。
金色の瞳。
風に揺れる尻尾が、一瞬だけ二つに見えた。
「会いに来てくれたの?」
猫は答えない。
ただ。
満足そうに目を細めた。
女は微笑む。
「ありがとう」
秋空の下。
黒猫は静かに歩き去った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
「良かった」「面白かった」と感じていただけましたら、感想・レビュー・評価・ブックマークで応援していただけると、とても励みになります。




