賢人、おかしな喧嘩を目撃する
賢人は、今日も偵察に来ていた。
現在、午後三時である。まだまだ人通りが多い時間帯ではないが、それでも学校帰りと思しき少年少女らの姿が目につく。彼らは、楽しそうに歩いていた。
ただ、後藤ビルの周囲は昼間だというのに陰鬱な雰囲気が漂っていた。外壁のタイルはひび割れ、隣接する路地からは異様な空気が漂っている。歩道には軽いざわめきが絶えないが、不思議なことにこのビルの前だけは空気が淀んでいるように感じられる。
そんな中、賢人は後藤ビルの周辺を注意深く観察している。と、その目が奇妙な光景を捉えた。
ひとりの青年が、何やら怒鳴っているのだ。工員らしき制服を着ており、年齢は賢人と同じくらいだろうか。
相手は、若い女の子の三人組である。派手な髪型や化粧が特徴的だ。いわゆる「ギャル」と呼ばれる少女たちであろう。
何をやっているのだろうか……と思いつつ見ていたが、その青年の顔には見覚えがあった。
「あいつ、どこかで見たような……」
賢人は、眉間に皺を寄せる。が、すぐに思い出した。あいつは、数日前に後藤ビルの前で紙袋を鳴らし、ヤクザに囲まれていた男だ。
「おいおい、あんだけ脅されたのに、またバカやってんのか……とんでもない奴だな」
呆れた表情で、賢人は騒動を見ていた。
両者の口喧嘩は、ますます激しくなる。が、どうやらギャルトリオの方が優勢らしい。青年は何やら叫んでおり、ギャルたちは笑いながら流しているという感じだ。
やがて、青年は悔しそうに去っていった。と、ギャルたちも飽きたのか、その場を離れていく。楽しそうに笑いながら歩いていった。
「まったく、お気楽極楽な連中だぜ。羨ましい話だよ」
そんなことを呟きながら、賢人は再び偵察を続ける。
今の言い争いで、ヤクザたちに動く気配はなかった。まあ、当然であろう。バカな青年とバカなギャルが口喧嘩……その程度で、いちいち動くはずもない。
とはいえ、裏カジノの金が盗まれたとなると話は別だ。一般市民に紛れているヤクザたちが、一斉に動き出す。
いっそ、地下の駐車場でふたりとも殺してしまえば簡単なのだが……という思いが、賢人の頭を掠めた。
裏カジノから、ふたりの男が売上金を運び車に乗せる。その後、ふたりは仁龍会の本部まで金を運ぶのだ。そのルートは車に乗るふたりしか知らない上、日によって変えているという。
つまり、車に乗られたら終わりなのだ。車に乗る前、駐車場で売上金を奪う。
賢人の計画では、ここでスタンガンを用いて相手の動きを止め、売上金を奪うことになっていた。だが、問題なのはその後だ。スタンガンは確かに強力ではある。しかし、相手の意識を奪うほどの効果はない。一時的に動けなくなったとしても、いつかは回復する。
その回復するまでの時間には、個人差がある。頑丈な男なら、一分も経たぬうちに回復してしまうだろう。
それから数秒で、後藤ビル及びその周辺にいるヤクザたちに連絡がいく。もちろん、賢人の人相風体の情報つきで、だ。
賢人の計画は、そこのところがネックであった。首尾よく金を奪ったとしても、その後どうやって逃げるか……一番の問題点である。
だが、ふたりとも即死させれば問題ない。拳銃を用いて射殺すれば、ふたりとも何もできない。賢人の人相風体の情報も、広まることはない。ふたりの死体が見つかるまでに、逃げ切ってしまえばいいのだ。
もっとも、これにはかなりのリスクが伴う。
まず、拳銃を用意するのが簡単なことではないのだ。間に人を通さねば、手に入らない。
その間に入った人間もしくは拳銃を売った人間が「そういや、伊達賢人って奴が拳銃を買ったぜ」などと仁龍会に喋ってしまえば、その時点で終わりである。
次に、拳銃を使えば発砲音が出る。万一、銃声を聞きつけたヤクザが駐車場に現れたら、その時点で終わりである。サイレンサーを使えば音の問題はクリアできるが、サイレンサー付き拳銃など、そう簡単に用意できるだろうか。
さらに、賢人は拳銃を撃ったことがない。これまで、仕事の時はもっぱら己の肉体のみを頼りにしていた。武器を使った時でも、せいぜいバール程度だ。
拳銃は、実のところ撃つのは簡単だ。本物を手に入れ、引き金をひくだけでいい。しかし、目標に当てるとなると、全くの別物である。
仮に本物の拳銃を手に入れたとしよう。賢人が駐車場に行き、拳銃を撃つ……一発で仕留められる自信はない。おそらく、数発撃って一発当たる程度だろう。
その間に、もうひとりが反撃してくる。しかも、相手は賢人と違い拳銃の扱いには慣れているはずだ。撃ち返されたら、賢人は倒れる。その時点で、ゲームオーバーだ。
さらに、もうひとつ理由がある。賢人は、人を殺したくなかった。
これは、何も善人ぶっているわけではない。同じ強盗でも、強盗殺人ともなると罪の重さが違ってくる。強盗罪は五年以上の懲役だが、強盗殺人は無期懲役もしくは死刑である。
裏社会のルールでも、それは同じだ。同じ強盗でも、組織の人間を殺害した場合……相手の気合の入り方が違ってくる。ウチの者を殺されて、黙っていられるか……という考えが働くのだ。
また、殺された組員と関係の深い者たちも黙ってはいない。下手すると、復讐のため組織を無視して独断で動くケースもある。個人的に殺し屋を雇い、仇を殺させるケースもあるのだ。
そう、ヤクザとはいえ親はいる。兄弟もいる。恋人や配偶者、さらには子供もいるかもしれない。
人を殺すということは、そうした者たちの恨みを背負う覚悟が必要なのだ。
頭の中で様々な考えを巡らせつつ、賢人は偵察を続行した。
やはり、殺さなくては駄目なのか……。
そう、自分には両親がいない。友も恋人もない。自分が死んだところで、悲しむ者などいないのだ。
これまでの人生で、本当の意味で微笑んでくれる人などいなかった。明日なんて言葉も知らなかった。ただ、今日を生き延びる……それだけだ。
そんな自分が、今さら何を恐れる? 金さえ手に入れば、それでいいのではないか?
金さえ入れば、後のことなど知ったことか──
そんな考えが、頭を掠める。
殺すとなると、拳銃では駄目だ。弾丸を確実に当てられる自信がない。ならば、ナイフか。いや、刺し傷や切り傷では、意外と人は死なない。
では、何を使うか。バールのような鈍器でぶん殴るか。あるいは、日本刀のような大型の刃物で首を切るか。
いや、どちらにせよ白兵戦用の武器では無理だ。仮に、ひとりを一撃で殺せたとしても、もうひとりが拳銃を抜いて反撃してくる。撃たれたら、一発で終わりだ。仮に即死せず、返す刀でもう一撃加え殺せたとしても、こちらはとんでもないダメージを負うことになる。
そんな状態で、重い現金を持って逃げる……無理だ。途中で倒れるのがオチだろう。
となると、爆弾でふっ飛ばすか。だが、爆弾では現金までふっ飛ばす可能性がある。
クソ、どうすれば殺せる?
賢人は、思わず奥歯を噛み締める。
その時、唐突に浮かんできたものがあった。幼い頃、教会で過ごした日々。牧師やシスターの説教。そして、昨日出会った女の感謝の表情。
さらに、彼の裡で何かが尋ねる。
血に染まった金で、お前は何をしたいのだ?
そんな賢人を、暗がりから見つめているものがいた。
二本の尻尾が生えた黒い猫である。まるで意思を持つ別な生き物であるかのように、その尻尾は優雅に動いていた。そんな奇妙な生き物がいるにもかかわらず、賢人は全く存在に気づいていない。
黒猫のエメラルドグリーンに輝く瞳は、賢人をじっと見つめている。その視線は、どこか憐れんでいるようにも思えた。




