約束は、叶わず。
それはある夏の、くらくらするほど暑い日のことだった。
甲高い無数の蝉の鳴き声が耳を打つ、蝉時雨。雲一つない海のような空と、嫌いになりそうな日差しの中。
そんな何気ない日常の中で、僕は冷たいバニラアイスを食べて、頭が痛くなった。
頭を抑えて悶える僕を、君はバカにしたように笑った。
君の、雪みたいに冷たくて白い肌に落とされた麦わら帽子の影に、僕は見蕩れていた。
(こんな日が、ずっと続けばいい)
君と他愛のない話をしながら、無駄に時間を潰す。
非現実的なことはなく、なんて事ない日々。
胸は興奮によって高鳴ることはなかったけれど、確かに大切だった僕らの日常。
それは、よくある夏の日の出来事だった。
「ねぇ」
子供特有の元気な声が僕を呼ぶ。
その日は、いつもよりも日差しが強くて君は日傘をさしていた。白い肌に日傘の影が落ちる。
僕はぼーっとそれに見惚れて、行き場のない感情を抱いた。けれど、その気持ちを言葉にするには幼すぎて、全部アイスのせいにした。
そして、僕はなんて事ない顔をしながら「どうしたの」と君に尋ね返した。
「この先も、一緒に居てあげてもいいよ」
蝉が甲高く鳴いていた。僕は、いつもよりも激しく心臓が揺れるのを感じながら、「ふぅん」と返す。
顔に熱が集まって、僕の顔は少し焼けた。
間を置いて、僕はやけに汗を流して顔を火照らせる君を見た。
(ばかだなぁ)なんて他人事のように思って、無性に笑ってしまった。
「じゃあ僕らの別れ方は、死別がいい」
僕の口からスルスルと言葉が零れた。日傘の下で君は、少し考えるように口を尖らせて目を伏せた。
経った数秒が、数時間のように思えた。僕は瞬きせずに君を見つめていた。
君は睫毛を震わせ、ぷっくりと膨らんだ赤い口元を動かす。年に似合わない些細な色気のある仕草をしながら、君は僕を笑った。
「いいよ」
何でもない、当たり障りな答えが返ってきた。
僕は、(やっぱり、ばかだね)なんて笑った。
きっと、気が遠くなるほどの長い時間、君と僕は時間を無駄にするのだろう。
僕は言葉を飲み込み、そしてやっとの思いでこう返した。
「そのワンピース、似合ってるよ」
君は、照れくさそうに笑って「遅い」と僕を小突いた。
白いワンピースに包まれる君は、まるで月下美人のようだった。
夏は続く。僕らが死んでも、続き続ける。果てしなく長く、繰り返す。
「今年の夏は、去年の夏よりも暑いね」
そう言うと君は、「そうだね」と空を見上げながらそう返した。
来年の夏も、きっと同じことを言うだろう。
夏も、空も。果てしないのだから。
僕らの関係はダラダラと続き続ける。その関係に、なんて名をつけようか。
夏が来た。君と過ごす夏が、あと何度続くのだろうか。
どうせなら、百年ば続けばいい。百年行かなくても、うんと長く、果てなどなく長く繰り返し続けばいい。
君は、冷房の効いた僕の部屋で汗を冷やす。
そんな君を横目に、僕は携帯を触る。
沈黙の時間、きっと一緒にいる意味なんてないのだろう。
僕は不意に君の名前を呼び、つい先日買った物を見せた。
「何それ、ギター?」
君は僕のアコースティック・ギターを小馬鹿にしたように笑った。僕は少しムッとして「アコースティックギターだよ」とぶっきらぼうに答えた。
君は、「へぇ」と感嘆の声を出し、ギターの弦を弾いた。
「おお、壊れてないんだ。いつ買ったの?」
「壊すはずないだろう。ほら、先週の僕の誕生日のとき」
僕は君に背を向け、ギターを守るように抱き締めた。そんな僕に君はケラケラと楽しそうな笑い声を上げ、「ごめんごめん」と適当な謝罪をする。
「すぐ物壊すじゃん、シャーペンとか。ああ、お誕生日おめでとう」
「丁寧に扱ってるのに壊れる方が悪い。遅いよ」
僕は呆れたような目線を送る。君は、ヒラヒラと手を左右に振りながら、やっぱり笑っていた。
「嘘つけ。普通に忘れてたよ、なんか欲しいのある?」
「嘘じゃないし……そうだな、ジュースが欲しい」
僕は溜息を着きながら君の方を見て、やっぱり落胆した。
君は、あまりにも僕を意識していなかった。(危機感がないなぁ)と思ったが、僕は紳士なので何もしない。それに、今は夏だ。僕は夏の彼女との思い出を腐らせたくないのだ。
「無欲だね。そのうち買うよ」
「それ、絶対買わないやつ」
「あー、バレちゃった?」
つまらない会話で時間を潰す。でも、嫌いではなかった。男友達とは違う、別の面白さがあった。
「来年は、一週間前ぐらいに誕プレ渡すよ」
「いらん」
「まぁまぁ、遠慮せずに」
来年も、夏が来ると信じて疑わない僕らは幾つも約束を重ねる。
僕らの関係に、愛とか恋がある訳ではない。くだらない関係がズルズルと終わることなく続いているだけだった。
その関係がどうにも意地らしくて、心地よかった。
互いに欲は持っているが、互いに向け合うことがない、正に理想の関係。
なぜなら僕らは最後、死別するのだから、そんな欲など向けるだけ虚しくなるのだ。
冷房の風がカーテンを揺らすたび、外の熱気がわずかに入り込む。君の髪がふわりと動いて、夏の匂いがした。
今年の夏も、何も無かった。
「今年の夏は、去年の夏よりも暑くない?」
君が言った。僕は、「そうかもね」と携帯から視線を離すことなく返した。
外では蝉が、もう一度だけ鳴いていた。
あれから何十年と時間が過ぎた。相も変わらず、年々夏は暑さを増していく。
貴方は、幾つになっても白いワンピースと、日傘をさして私の隣で空に浮かぶ雲を見ていた。
私はバニラアイスで頭を痛めて、昔よりも耳が遠くなった貴方に「今年の夏は暑いね」と笑いかけた。貴方は、変わらず私に目もくれずに雲が所々にある空を仰いでいた。
私は、手に持っていた少し解けたアイスに視線を落とした。視界は、ぼやけていた。
不意に、視線を感じて顔を上げると彼女が私の方を見ていた。
「ねぇ」
柔らかい彼女の声が私を呼ぶ。まだまだ雪のように白い肌を持つ貴方に落ちた日傘の影をはっきりと見た。私は、随分と皺ができた貴方にやっぱり見惚れていた。
私は、やんわり微笑みながら「どうしたの」と尋ね返した。
「この先も、一緒に居てくださいね」
蝉の声が去年よりも減っていた。私は、心臓が激しく鼓動し始めるのを感じながら、「ふふ」と声を出して笑った。
顔がふんわり火照っている貴方に視線をやる。熱に犯されたみたいに顔が熱い。
「『僕ら』の別れ方は、死別にしよう」
私は、かつての青臭い少年のように言葉を紡ぐ。
日傘の下にいる貴方は目を伏せた。
その沈黙は、ほんの数秒だったようにも、数年だったようにも感じられた。
貴方は睫毛を震わせ、シワが増えた口元を動かす。些細な仕草には、色褪せない色気があった。
「いいですよ」
予想していた通り、当たり障りな返事が帰ってきた。
私は、(馬鹿な人だ)と思い笑った。そして、界がぼやけて、ろくに見えなくなった目に鮮明に焼き付く記憶の中の白を思い出しながら貴方に言う。
「そのワンピース、似合ってます」
貴方は、きっと変わらない照れ笑いをして「遅いですよ」と私を小突くのだろう。
相も変わらず、私たちは夏の下で無駄な時を過ごす。
夏は、どこまでも続くのだから。
よくある夏の、些細な会話だった。