2.大公家での朝
不思議な感覚だった。
イリスはその時、確かにこことは違う世界のことを認識した。
遠く離れた日本での人生。色々な現代的な知識。
でも、イリスとしての人生や記憶もしっかりとある。
例えるなら、真に迫った映画を頭に焼き付けたみたいな……。
あるいは長い長い本をすべて暗記したかのような。
今ならチャーハンも作れるし、日本の歌も口ずさめる。
(でも、だからどうするって話じゃない?)
泣き出したかったのが、どこかに離れていった気はする。
前世でもそれなりに異性経験があるからだが。
ムカつく元彼やお酒での失敗うんぬん……を思い出し、イリスは顔をしかめる。
(昨夜のことはアレだけど、追突事故のようなモノよ。泣いても、何も解決しないし……!)
幸いにも昨夜のことは全然覚えていない。
確かに男がいて、一夜を共にしたのは間違いないのだけれど。
「問題は――いつまでこんな生活に甘んじるかってことよ」
言って、イリスは精神を切り替える。
これまでのイリスは言いなりの人生を送ってきた。
母が平民であること、大したことのない魔法、嫡子の義妹。
16歳の自分では仕方ないが、負い目を感じてしまったのだ。
そんなことは自分の価値を決めることにはならないのに。
髪の毛の先まで貴族と世界の常識に浸かって、自分を見失っていた。
自分がどう生きるかを決めるのは自分なのに。
そこまでふんふんと考えて決意して、イリスはノック音に気付く。
「お嬢様、よろしゅうございますか」
「ええ――大丈夫よ」
しずしずと寝室に入ってきたのは、簡素なドレスを手に持ったイリスの侍女であるレイリア・ナデリッツであった。
この世界には珍しい眼鏡と青い髪。清楚な出で立ちにしっかりとした知性の宿る瞳の女性だ。
年齢は20代前半で、16歳のイリスよりちょっと年上だろうか。
(確かナデリッツ辺境伯家の出身で、その縁で大公家に仕えていると言っていたような)
イリスは昨夜、自己紹介された内容を思い出す。
昨夜はかなり動揺しながら聞いていたのであるが、間違いはないはずだ。
「湯浴みの用意が整っております。どうぞ」
「あ、そうね……お願いするわ」
イリスは言ってレイリアの持っていたドレスにぱぱっと着替えて、屋敷内の浴室に向かおうとする。
そこでイリスはレイリアがうっすらと瞳に涙を浮かべているのに気が付いた。
「ど、どうしたの?」
「……お嬢様は平気なのですか? 昨夜、とても大変な目にあわれたのに」
「あー……まぁ、仕方ないわね」
イリスはあっけらかんと言い放った。
それがイリスの嘘偽らざる本音だ。
アレはもう事故だった。
くよくよしてもしょうがない。
だが、イリスの言葉がよほど衝撃的だったようで、レイリアが固まっている。
そこでイリスはぽんとレイリアの肩を叩く。
「あなたも気に病まなくていいわよ」
「お嬢様……っ! なんと気丈で、お労しい!!」
「むぎゅっ」
感極まったレイリアに抱きしめられるイリス。
豊満な胸に抱かれて、頭を撫でられる。
レイリアは大公に仕える身のはずだけれど、イリス側に立ってくれる人間のようだ。
(……嬉しい)
実家のアデス公爵家では義妹のせいで、メイドや執事もイリスの味方になってくれることはなかった。
それが、まさか……奴隷と変わらないような身の上で人の温かさに触れるなんて。
イリスはレイリアと出会えたことに感謝し、しばらく抱き合う。
それからイリスはゆっくりと時間をかけて湯船に入り――お腹が鳴って、昨日の夕方からろくに何も食べていないことに気が付く。
「……昨日はもう、それどころじゃなかったしね」
1時間後、さっぱりしたイリスは着替えて広間へと向かう。
とりあえずレイリアにお願いして、何か食べたかった。
そこでイリスは豪華な朝食を目にする。
こんがりと焼けたパン、ツヤツヤに折り重なったローストビーフ。
一番目を引いたのは、秋のフルーツが山盛りに乗せられたタルトであった。
「うあっ! 美味しそうっ!」
イリスは思わず大きな声を出して、駆け寄る。頭の中はもう食欲でいっぱいになっていた。
「……ん?」
そこでイリスはわずかな違和感を察知する。
この秋のフルーツタルトは、子どもの頃によく見たような。
そう、イリスの幼馴染の彼がよく作ってくれたタルトに似ている。
「これって、まさか――」
「久し振りだな、イリス」
背後から声をかけられ、イリスは振り返る。
そこには大公の息子で王国一の騎士にしてイリスの幼馴染。
クリフォード・レインドットが立っていた。
ここしばらくは会えていなかったが、彼は変わっていなかった。
年齢はイリスよりも2つ上の18歳。
しかし遥かに大人びて見える。
黄金よりも輝く金色の髪。エメラルドよりも色鮮やかで吸い込まれそうになる深緑の瞳。顔立ちも端整でくっきりとして、神様が特別に手を加えたとしか思えない。
白の騎士服の下の筋骨もがっしりとして安定感がある。
クリフォードは騎士としても名を馳せているが、それだけでなく王国一の美男子ともされていた。
(……まぁ、誇張ではないわよね。こんな人、前世ではテレビ越しにしか見ないレベルだし)
間近にするといつまでも眺めていたくなるような人。
さすがに幼馴染のイリスは慣れたが。
そんな彼は悲しそうに立っていた。
(あ、そうか。私がここにいるのがどういう意味か、クリフォードは知っているのか)
それはそうだ。彼の父の妾になったのだから。
一晩経過して私がいて、どういう状況なのかは馬鹿でもわかる。
……。
イリスは何かを言おうとして、言わないことにした。レインドット大公とクリフォードは何の関係もない。
前向きに生きていこうと、イリスはもう決めている。
だからイリスは明るい声を出した。
「これ、クリフォードが作ってくれたの?」
「そうだ。君がお腹を空かせてるかもと、レイリアから聞いて」
クリフォードの秘密の趣味が料理だった。
これは彼のトップシークレットで、多分大公家の身内の他はイリスしか知らないだろう。
イリスはクリフォードに微笑みかける。
「じゃあ、食べちゃおうよ。ほら、クリフォードも一緒に座って!」
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