1.最悪な夜と朝
「レインデット大公の妾になってこい」
「……え?」
とある日の夕方。
執務室に呼び出された公爵令嬢のイリス・アデスは、自分の父であるアデス公爵の言葉に耳を疑った。
レインデット大公は50代、16歳のイリスとは親子以上に年が離れている。
しかもレインデット大公はかなり肥えており、髪も薄い。
薄い紫を帯びた夜色の髪、切れ長の黒曜石に似た瞳、陶器のように輝きながらもみずみずしい若さを放つイリスとは、まったく釣り合わない。
「レインデット大公は夜会で見て、お前をとても気に入ったそうだ。これもまぁ、公爵家の付き合いというやつよ」
「そ、そんな……っ」
イリスは抗議しようとしたが、アデス公爵はうっとおしいとばかりに手を振ってイリスの言葉を遮った。
「ふん、メイドから生まれた平民のお前を貴族として育ててやったのは、何のためだと思ってている? まさか自分の行く末を自分で決められるとは思っておるまい」
獰猛な猛禽類を思わせる瞳で射抜かれ、イリスは言葉を飲み込む。
イリスの母は他国生まれのメイドであり、アデス公爵の手がついてイリスを産んだ。母はその後、国に帰されたらしく、イリスは会っていない。
そしてアデス公爵にはきちんとした正室と嫡子がいる。
イリスに継承権はなく、庶子の扱いだ。
(――私は駒。公爵家を栄えさせるための、薪)
「大公は今夜にもお前を呼び寄せたいそうだ」
「……っ!」
「構わんだろう? ……返事は!?」
「はい……」
下がって良いと言われ、イリスは父の執務室を出る。
魂が抜けたかのような絶望感を漂わせ、イリスが廊下を歩いていると。
くすくすとわざとらしい笑いとともに、ひとつの影が廊下に佇んでいた。
呆れるほど派手なドレスとこれみよがしの金のネックレスと腕輪。大きく豊かな金髪に勝気な、アデス公爵によく似た残酷な瞳。
イリスの腹違いの妹にして公爵家の嫡子、キャロル・アデスであった。
キャロルは楽しそうにイリスの顔を覗き込む。
「お姉様、聞いたわよ? あのブタのところに行くんですって?」
「…………」
レインデット大公はその外見を知る女性貴族から、ブタと呼ばれていた。
派閥も財力もあるのに外見だけが豚のようで。
「……仮にも大公閣下ですよ」
「そうよね。今の陛下にも気に入られて、お父様とも仲良し。でもあの外見で女好き」
なぶるような言い方をして、キャロルは笑う。
「あはは、大公家ならあの騎士様のほうが良かったのに! よりにもよって、ブタの妾だなんて。私なら耐えられない、死んじゃいたいくらいの屈辱だわ」
「……っ」
それはイリスも同じだった。
あの男を好きになる要素なんて、ない。
レインデット大公はおべっか、ゴマすりで出世したと噂されている。
しかも大の女好きで、これまで孕ませた女は10人を超えるとか。
「でも、あなたにも役目が見つかって良かったじゃない。お姉様の中途半端な魔法も、大公様なら気に入ってくれるかもね?」
イリスはこの世界でも珍しい、魔力持ちだ。
だが、魔法の力はこの世界では重んじられていない。
飛行機が実用化されるほど科学技術が発展した中、魔法はごく一部の人間だけに好まれる力になってしまった。
イリスの使える魔法も植物に干渉するものだけで、大した力はない。
実際、この力だけで屋敷を飛び出してお金を稼ぐのは不可能だろう。
ぎゅっと服を掴んだイリスがキャロルのそばを通り過ぎようとする。
イリスはもう、このような扱いに慣れすぎて反論する気力も失ってしまっていた。
それよりも。義妹の皮肉よりも大公家に行くほうがよほど大きな問題だった。
「……失礼するわ」
イリスがキャロルに並んだ一瞬、想像もしなかった一言が義妹から飛び出してくる。
「避妊にはライムの果汁が良いらしいわよ、お姉様。花弄りの魔法で、用意しておいたら?」
「――っ!!」
泣きたい。叫び出したい。
そんな気持ちを抑えて、イリスは自室へと飛び込んだ。
◆
そこから先のことは、矢のように早く過ぎていった。
夕方から夜になってイリスは馬車に乗せられ、レインドット家の門をくぐった。
国王に次ぐ広大な屋敷の離れ――それ自体がひとつの屋敷と言っても良いほどの建物にイリスは運ばれた。
どうやら公爵令嬢である以上、屋根裏部屋に閉じ込めるとかはないらしい。
相応の待遇ではあるようだ。
しかし、湯浴みをするように言われてからイリスは震えが止まらなくなった。
(嫌、嫌……っ)
だが、心のどこかでは諦めていた。
父から愛されず、義妹には馬鹿にされ。
イリスには居場所がない。
どこかの貴族に貰われる以外、価値もなければ生きる方法もなかった。
湯浴みが終わり、透けるほど薄いネグリジェを着せられてイリスは寝室に案内される。
案内された寝室は非常に暗い。大公だと思われる人影が部屋の中央に立っている。
そして甘い香りが部屋中に満ちていた。
目が慣れるまでの間に、イリスは身体が熱く酔ったような感覚に襲われる。
(なに、これ……?)
わからない。ただ、どんどんと身体の中の熱が高まって、おかしくなっていく。
「……っ!」
肩に手を置かれ、猛烈に拒絶したい気持ちが沸き上がる。
だが、もう足元がふらついて満足に歩けない。
目がかすむ。何もわからなくなっていく。
(私、どうなるの――?)
気が付くと、イリスは強烈な日差しが差し込むベッドで横にさせられていた。
剥ぎ取られた服。ベッドと身体に残る痕跡が昨夜のすべてを物語っている。
唯一の救いは夜の詳細が記憶にないことか。残っていたら、衝動的に死を選んでいたかもしれない。
イリスはシーツをたぐり寄せ、ぼんやりと窓の外を見つめる。
その瞬間、イリスの脳裏に大量の情報が流れ込んできた。
「なに、これ……?」
今の世界よりも遥かに高度な文明。様々な知識。どこか別の遠い世界のような。
イリスが生まれ育ったこの世界とは違う、異なる世界。
それは前世の記憶だった。
強烈なショックを受けたイリスは、前世の記憶を思い出していた。
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