第8話:もう一度、背番号を
放課後の準備室は、夕日でほんのりオレンジ色に染まっていた。
窓を開けた隙間から吹き込む春風が、ミシンの音に混ざってやさしく空気を揺らす。
室内からは、静かにミシンの音が響いていた。
キルキルキル……キルキルキル……。
窓の外では桜がそよぎ、差し込む夕日が机の上にオレンジの斜線を描いている。
「よし……これで、六番目っと」
千紗は、白地のゼッケンに紺色の“6”を縫い終えると、満足げに小さく息をついた。
机の横には、小さな裁縫箱。ふたを開けると、中には色とりどりの糸、針山、それに使い込まれた指ぬき。
「なんか、懐かしいな……これ」
千紗は、その指ぬきをそっと親指にはめる。少しだけ指に食い込む感じが、妙に心地よかった。
中学の頃の記憶が、ふとよみがえる。
あの夏、兄の修司が最後の大会前に言ったのだ。
「どうせなら、背番号くらい自分の妹に縫ってもらいてえな」って。
口は悪いくせに、意外と照れ屋だった兄のことを思い出して、つい笑みがこぼれる。
「下手でもいいんだよ。ほつれてもいいし。……ただ、それを着てる間は、“頑張ろう”って思えるからさ」
そう言って、兄は彼女の縫った“7番”を誰よりも誇らしげに背負っていた。
千紗は、もう一枚の布を手に取る。
それはまだ数字のない、真っ白なゼッケン。
“1”を縫うために取っておいた、特別な一枚。
「野球ってさ……なんか、縫い目が人をつなぐ気がするんだよね」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。
このミシンの音は、兄の背中を思い出させ、
今は風祭球児という、少し不器用で遠い誰かの心にも届いてほしいと願う音になっていた。
裁縫箱の隅に、小さなアップリケが転がっているのを見つけた。
中学の頃、自分がふざけて作った、下手くそな“猫のアップリケ”。
「ふふ……つけてやろうかな、風祭くんのに」
そう笑って、でもちゃんと真面目な手つきで、千紗は“1”の型紙を布の上に置いた。
針が布に刺さる音が、また静かに室内を満たしていく。
その手つきは、優しく、そして迷いがなかった。
ひと針ひと針が、過去と今と、そして誰かの未来を、そっと縫い合わせていた。
「よいしょ……はい、これで七番、完成っと……」
千紗は、机の上にそっとゼッケンを並べながら、ふふっと小さく笑った。
白地に紺の数字が整然と並ぶ、桜が丘高校野球部の背番号たち。
「背番号ってさ、なんだろ……あげるっていうより、なんか、“託す”って感じだよね」
誰に言うでもなく呟いた言葉が、机の上の番号たちに吸い込まれるようだった。
縫い終えたゼッケンを順に封筒へ収めていく中で──
一枚だけ、ぽつんと置き去りにされた白い布があった。
“1”。
それは、まだ誰にも渡せていなかった。
■
グラウンドの片隅、夕焼け色に染まるブルペンのマウンド。
スコップの音が、ザクッ、ザクッと土を削る。
その音だけが響く空間で、風祭球児はひとり、マウンドの足場を整えていた。
体をかがめ、踏み込み位置の硬さを確認し、丁寧に土を押し固めていく。
まるでそれが、誰かに見せるためじゃなく、
“そうするのが当然だ”という顔で──
「……相変わらず、無口なやつだなあ」
グラウンドの隅、草むらの向こうでそれを眺めていた三島大地は、誰にともなくぽつりとつぶやいた。
最初、球児がこの学校に来たとき──
自分とは正反対の人間だと思った。
無口で、冷たくて、無関心で。
それでいて、技術は抜群。背中から漂う「本物」の空気。
「……こんなすげぇやつ、何考えてるか分かんねぇって」
けれど、気づいた。
あいつ、誰よりも部員を見ていた。
誰よりも静かに、練習内容を見て、ミスを覚えて、ノートに書いて──
声はかけないけど、行動で全部伝えてる。
三島は拳をぎゅっと握る。
(主将ってさ、声張り上げてまとめることだと思ってたけど……)
でも、風祭みたいに“背中で引っ張る”やつもいるんだ。
言葉じゃなく、たった一球とか、ひと掘りの整備とかで──みんなに伝わることがあるんだって。
スコップを置いた球児が、軽く背伸びをする。
夕日を背にしたその姿は、なんだか“大人”に見えた。
(……逃げたやつだって、言ってたけどさ)
(弱くても、逃げたくても、それでも誰かのために動けるやつって、かっこいいよな)
「そろそろ、ゼッケン配られるな」
ぼそりとつぶやいて、三島はそっとその場を離れた。
風祭の背中に、余計な言葉をかけることはなかった。
でも、心の中ではもう決めていた。
“1番”は、この男に着てもらうって。
たとえ、本人がまだ納得していなくても。
あの背中にこそ、仲間がついていくと信じていた。
■
夕暮れのグラウンド。
赤く染まった空の下で、ブルペンに一人しゃがみ込む男の影がある。
風祭球児。
制服の袖をまくり上げ、手にはスコップと金ブラシ。
「……硬すぎるな。これじゃ、踏み出したとき足が滑る」
独り言のように呟きながら、黙々とマウンドを整備する。
柔らかすぎず、固すぎず、踏み込みがちょうど沈む程度まで──。
「やっぱ、ここが一番“野球”って場所だよな……」
誰にも聞かれないつもりで、ぽつりとこぼした言葉。
けれど、その声を拾う足音が、背後から静かに近づいていた。
「おーい、球児ー。……やっぱ、ここにいたか」
三島大地は軽く嘘をついた。
本当はフェンス越しに見ていた自分の中のエースを見ていたのだけど……。
いや、桜ヶ丘の一番の背番号をつけるに相応しい風祭球児。
振り向くと、三島大地がグラウンドの端に立っていた。
いつものように制服のシャツは出しっぱなしで、髪は乱れていて、
でもその手には、丁寧にたたまれた一枚のゼッケンが握られていた。
「ったく、お前、ほんと黙って働くよな。……ブルペン、めっちゃ綺麗になってんぞ」
「ヒマだっただけだよ」
球児はスコップを立てたまま立ち上がり、軽く肩をすくめた。
「ヒマなやつが、ここまで丁寧に整備するかっつーの」
三島が小さく笑って近づき、ゼッケンを差し出す。
それは、白地に“1”と書かれた、あの一枚だった。
「……お前にしか、ここは埋められねぇんだよ」
その声は、真っ直ぐで、少しだけ震えていた。
球児は黙ってそれを見つめる。
手は伸びかけたが、途中で止まり、視線を落とす。
「こんなもん、もらっていいのかよ。俺、試合から逃げたやつだぞ?」
「知ってるよ」
三島は即答した。
迷いも、躊躇もなかった。
「でも、お前は“今”、このチームのためにグラウンドにいる。十分だろ」
夕日が、二人の影を長く伸ばしていく。
「三島、お前……変わったな」
「いや、むしろ、やっと“変われた”んだよ。みんなのおかげでな。……だから今度は、お前の番だろ?」
少しの沈黙。
球児はゆっくり手を伸ばし、“1”を受け取る。
「……じゃあ。今回は、借りとくわ」
ぶっきらぼうに言いながらも、その手はしっかりとゼッケンを握りしめていた。
その瞬間、グラウンドの脇から駆けてきた千紗が、息を切らしながらやってくる。
「間に合った……!」
そして、二人のやり取りを聞いた千紗が、そっと微笑む。
「……貸しじゃなくて、預かりでもいいんだよ。風祭くんの“これから”に返す場所があるならさ」
球児は驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。
ただ、ゼッケンを見つめ、そっと胸の前で握りしめた。
その日の夕焼けは、やけに長く空を照らしていた。
グラウンドにはまだ少し桜の花びらが残っていて、
“背番号1”の影が、静かにマウンドに落ちていた。
■
夜のグラウンドは静かだった。
照明は落ち、校舎の灯りも消えかけている。
グラウンドの隅、ブルペンにだけ、ほんのりと月の光が射していた。
風祭球児は、整えたばかりのマウンドに立っていた。
制服の上着は脱いで、白いシャツの袖をまくりあげている。
右手には、硬球──この場所に、久しくなかった“本物”があった。
「……誰もいねえな」
ぽつりとつぶやいて、球児はキャッチャーミットのないブルペンの壁を見据えた。
立ち位置を整え、右足をゆっくりと上げる。
マウンドに立つのは、夜の日課になりつつある。
胸に背番号がないのが、妙に軽くて、落ち着かない。
だから、三島から背番号を受け取った。
これは誰かに頼まれたわけじゃない。
自身の意志なのは理解している。
(やっぱり俺は野球が好きだ……一球だけ)
そう心の中で区切りをつけて、彼は投げた。
フォークではない、ストレート。
自分の“原点”のような球を、真っすぐに。
ビシュッ。
硬球がネットに吸い込まれる音が、夜の空気を裂いた。
「…………重いな」
ぽつりと漏らしたその声は、疲れでも、後悔でもなかった。
「でも……悪くねぇ」
少しだけ、口元が緩んでいた。
投げた右手を見つめながら、軽く拳を握る。
その手には、まだ迷いがあった。
だけどそれは、前に進むための“躊躇”であって、もう後ろを向くための“逃げ”ではなかった。
「次は……フォーク、投げてみるか」
誰にともなくそう言って、球児はネットに向き直る。
夜風が、マウンドの周りを優しく吹き抜けた。
照明のないブルペンで、たった一球。
それはきっと、どんな試合よりも重たい“自分との勝負”だった。
その一歩が、やがてチームを動かしていくことを、まだ誰も知らない。
■
夜、千紗の部屋。
勉強机の上に広げられたのは、学校のプリントや参考書、そして──一冊の小さな手帳。
表紙は市販の普通のスケジュール帳。
でも中身には、ただの予定表以上のものが、こっそりと書き込まれていた。
《今日の風祭くん》
ページの隅に、そう題された小さな欄。
「ゼッケン“1”を受け取った時、耳がほんのり赤かった。たぶん、ちょっと照れてた。たぶん。」
「ブルペン整備してるとき、スコップの使い方がやたらプロっぽい。たぶん、前世は造園業の人。」
「麦茶をおかわりしたとき、『……うまい』って一言だけ。でもなんか、3割増しで嬉しかった気がする。」
千紗は、ボールペンの先を唇に当てて、ふふっと笑った。
「……風祭くんって、表情に出ないけど、意外と分かりやすいのかも」
メモは日記というほど大げさじゃない。
あくまで、放課後の“お楽しみ”みたいな、ゆるくて、秘密の時間。
次のページには、ちょっと歪んだ猫の落書き。
その横に、小さな一文。
「今日も練習、真面目だった。でも、自分のことはあんまり話さない。そういうとこ、ちょっと寂しい。」
千紗は、手帳をパタンと閉じてから、小さく深呼吸をした。
「……よし、明日はもっと話しかけてみよう。風祭くんが逃げない程度に、ね」
照れ笑いのような、ちょっといたずらっぽい顔で、ベッドに身を沈める。
布団の中でも、手帳のことを思い出しながら、
(次の『今日の風祭くん』には、どんなこと書けるかな)
なんて考えていた。
世界にひとつだけの、秘密の観察日記。
いつかそれが“好き”に変わっていくことを、本人はまだ、うすうすとしか気づいていない。
■
居酒屋のテレビが、高校野球地方予選の出場校を次々に映し出していた。
「……えー、今年は新顔のエントリーが目立ちますね。こちら、“桜が丘高校”も初戦突破を目指して──」
「……桜が丘?」
カウンターの端で、ビールのジョッキを手にしていた男が、ちらりと顔を上げた。
風祭修二──かつてプロの舞台に立ったものの、鳴かず飛ばずで引退した元・投手。
髭を剃り忘れた顎に指をやり、画面を見つめる。
画面には、簡素なグラウンドと、練習風景が流れていた。
桜が丘高校野球部。
ボロボロのバックネット、少ない人数。
決して“強豪”の姿ではない。
それでも──
「風祭球児(3年) 投手(登録予定)」
その字幕を見た瞬間、修二の手が、ジョッキの縁で止まった。
「……やってんのか、お前」
思わず、独り言のように声が漏れる。
あれから話していない。
最後に交わした言葉は、言い争いだった。
「逃げるな」
「そっちこそ、俺を押しつけんな」
父と息子、似すぎた背中がぶつかった。
「……あのバカ、なんでそんな学校に」
言いながらも、目はテレビから離れなかった。
グラウンドの片隅、背番号をつけていない球児が、ブルペンで黙々と何かを整えている。
その姿が、一瞬、かつての自分と重なって見えた。
「ピッチャーってのはな、背中で見せるもんなんだよ」
それが昔の口癖だった。
息子がそれを覚えているかは分からない。
だが、画面の中の球児は、誰より静かに、マウンドと向き合っていた。
「……背番号、“1”はまだ空白か」
修二は苦笑いを浮かべた。
親として何もしてやれていない。
でも、画面越しに見るその背中は、ほんの少し誇らしく見えた。
「……勝手にやれ。どうせ、あのへんくつ者が選ぶ“1”には、何か理由があるんだろ」
テレビが次のニュースに移る。
修二はジョッキを飲み干し、そっと席を立った。
背中を向けたまま、こうつぶやく。
「今度、ちゃんと見に行ってやるよ。……桜が丘って、どこだ?」
それは不器用な男が、ようやく一歩踏み出す音だった。