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第6話:風祭ノートと、目覚めたバット

 春の午後、桜が丘高校のグラウンド。


 声だけは元気に響くが、その実、部員たちの動きはどこかぎこちなく、まとまりがない。ポジションもあやふやで、打球の処理一つにもおたおたしている。


 風祭球児はベンチの端に腰を下ろし、腕を組んでその様子を見つめていた。


 ──俺がいたチームとは、まるで違う。


 それは最初から分かっていたことだ。だが、実際にこうして目にすると、やはり胸の奥に何かが引っかかった。


 そのまま静かに鞄を開けると、そこから一冊の黒いノートを取り出す。表紙は薄く擦れて、角は折れ、どこか古びていた。


 風祭は無言でペンを取り、カチリとノックした。


 ──三島:キャプテンだけど、スイングが自己流すぎる。フォームが毎回バラバラ。


 ──俊介:足は速いが、スタートの反応が悪い。塁間の距離感もまだ甘い。


 ──翔太:内野ゴロに対して詰まりがち。腰の使い方が硬い。


 書きながら、心の中でため息をつく。


 「……どうせ俺は、試合には出ない。けど──」


 それでも、この時間を無駄にしたくなかった。


 ボールを投げる代わりに、見て、考えて、言葉にしてみる。それが今の自分にできる、せめてもの“野球”だった。


 その手元のノートは、次第に彼の心を映す鏡になっていく。

 ある日の放課後。

 そのノートは、偶然見つかったものだった。


 放課後の部室。春の柔らかな光が窓から差し込むなか、千紗は一人で掃除をしていた。

 雑巾を片手に、ベンチの下を覗き込んだとき、黒いリングノートがほこりまみれになって転がっていた。


 「ん? 誰のノートだろ……?」


 拾い上げて開いた瞬間、彼女の手が止まる。


 ──三島:スイング時、右足の軸が流れる。→右足着地を1秒我慢するドリル案。


 ──俊介:俊足だが打球判断が甘い。→スタートダッシュと声かけ強化を。


 ──翔太:送球時の肘の角度が一定せずブレやすい。→鏡トレとフォーム矯正。


 「……これ、全部……うちの部員の癖……?」


 丁寧な文字でびっしりと書き込まれたページ。

 ただの観察ではない。個々の特徴にあわせた練習メニューまで添えられていた。


 「……風祭くん、これ……」


 千紗はそっと胸にノートを抱いた。

 彼は何も言わなかった。けれど、ずっと見てくれていた──その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。



 翌日の昼休み。

 千紗は三島と数人の部員を呼び出し、部室のベンチに並べて座らせた。


 「ちょっと……これ、見てほしいんだけど」


 ノートを開いて手渡すと、最初にページを覗いた三島が目を見開いた。


 「うわっ……これ、俺のクセ、めっちゃ書いてある!」


 「……え、俊介のページもあるじゃん。マジでここまで見られてたのかよ……」


 「フォーム改善案まで書いてある……コーチかよ、あいつ」


 部員たちの顔が、驚きから静かな感動へと変わっていく。


 「これ……風祭が?」


 千紗は小さく頷いた。


 「うん。本人は何も言ってないけど、きっとずっと見てくれてたんだと思う。黙ってるけど、本当はこのチームのこと、ちゃんと考えてるんだよ」


 誰からともなく、笑みが漏れた。


 「……なんか、やる気出てきたな」


 「俺、次の練習からノート通りやってみるよ」


 「風祭さん、かっけぇな……」


 部員たちの目に、確かな火が宿った瞬間だった。



 放課後。

 グラウンド脇のベンチに、球児が座っていた。グローブを膝に乗せ、ぼんやり空を見ている。


 「ねえ、風祭くん」


 麦茶入りの紙コップを持って千紗が隣に腰を下ろす。


 「今日は、ミント入り。疲労回復に効くらしいよ」


 「……部活で出すレベルじゃないだろ、それ」


 「マネージャーなめんな~」


 球児は一口すすって、少しだけ目を細めた。


 「……うまい」


 「ありがと」


 ふたりの間に、風が吹き抜ける。


 「ノート、見ちゃった。ごめんね。でも……すごくよかった」


 「別に、隠してたわけじゃない」


 「でも、見てたよね。みんなのこと、ちゃんと」


 球児は麦茶の表面をじっと見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。


 「……背番号は、まだ背負う気になれない。けど……」


 ゆっくりと、彼は空を見上げた。


 「誰かの役に立てるなら……もう少し、ここにいてもいいかなって」


 千紗はそっと微笑み、頷いた。


 「うん。風祭くんがいるだけで、みんな変わってる。もっといてよ。桜が丘にさ」


 照れくさそうに目を伏せた球児の横顔に、淡い陽が差していた。


 遠くから聞こえる打球音。

 風の音。

 そして、背中合わせのやりとりの中で、確かにチームの心がつながりはじめていた。

 桜色の光が差す部室に、千紗がそっと入ってきた。風祭はベンチでグローブの紐を締め直している。


 「風祭くん」


 その声に、彼はちらりと顔を上げた。


 「……ああ」


 千紗はそっと、手にした黒いノートを差し出した。


 「ごめんね。勝手に見ちゃった。返すね」


 風祭は一瞬だけ視線を泳がせてから、ゆっくりとノートを受け取った。


 「別に。どうでもいいよ」


 「……でも、すごかったよ。みんなのこと、あんなにちゃんと見てて」


 沈黙。


 千紗は続ける。


 「私も、あのノート見て、ちょっと泣きそうになったんだ。ちゃんと、チームのこと考えてるって分かって」


 風祭は視線を落とし、ノートをぱらりとめくった。


 そして、ひと言。


 「……使ったなら、次のページからも使っていいよ」


 「……え?」


 「勝手に見られたんだから、どうせなら勝手に活かせばいい。そういうの、嫌いじゃないから」


 千紗はふっと笑った。


 「それ、許可ってことでいいんだよね?」


 「さあな」


 照れくさそうに鼻をかいた球児に、千紗はそっと言った。


 「ありがとう」


 ノートは風祭の手に戻ったが、その距離はもう以前とは違っていた。


 夕方のグラウンド。日が傾き、肌寒い風が吹き始める頃。誰もいなくなったベンチに、一人の影が残っていた。


 三島大地。桜が丘高校野球部、主将──だが、経験は浅く、技術もまだまだ未熟だ。


 彼は手にしたノートをじっと見つめていた。

 風祭球児が残した、部員一人ひとりへの細かな分析とアドバイスが詰まったノートだ。


 ページの上、太字で書かれた自分の名前を見て、三島は苦笑する。


 「三島──スイング時、右足の軸が流れる。ボール球にも手を出しやすい。試合中の視野が狭い」


 「……マジで当たってる。くそ、悔しいけど、ありがてぇな……」


 正直、最初は風祭が怖かった。圧倒的な実力と、何も語らない目。その背中に、どこか遠さを感じていた。


 だけど、このノートを見て、考えが変わった。


 あの人は見てた。黙って見てた。だけど、ちゃんと“チーム”のことを考えてくれていたんだ。


 三島はそっとノートを閉じ、バットを手に立ち上がった。


 「右足……流れる、か」


 ポン、と自分の太ももを叩く。


 「じゃあ止めてやるよ、今日こそは」


 ガラン、と音を立ててネットにぶら下がる古いボールを拾い、バッティングマシン代わりのタイヤに向かって素振りを始めた。


 何度も。何度も。

 風の音に紛れて、乾いた空振りの音が夜に響いた。


 「俺がちゃんと主将やんなきゃ、チームはバラバラだろ」


 「風祭が来てくれてよかった……でも、それで終わりじゃねぇよな。俺が引っぱんなきゃ」


 誰にも見られない時間。誰にも知られない場所。


 それでも彼は振り続けた。泥臭く、情けなく、でも誇りを持って。


 月がゆっくりと昇るなか、グラウンドにはひとつだけ、止まらない影があった。



 放課後の風が、部室のカーテンをふわりと揺らしていた。


 ひとり残った千紗は、風祭のノートをそっと机に広げていた。返したはずだったが、「必要になったら見ていいよ」と言われたのをいいことに、こっそり読んでいる。


 真面目でびっしりと書き込まれた文字。練習メニュー、フォーム分析、部員の性格に至るまで、まるでプロのコーチの手帳のようだ。


 ──本当にすごいな、風祭くん。


 そう思いながらページをめくっていたそのとき。ふと、違和感のあるページが目に入った。


 「あれ……?」


 その右下に、何やらヘンテコな絵が描かれていた。


 丸い顔。三角の耳。胴体が妙に長い。そしてなぜか、体に“にゃ”と書いてある。

 どう見ても、猫──だと思われる。だけど……ものすごく、下手だった。


 「……ぷっ」


 思わず吹き出してしまった。

 あのクールで黙々とノートに書き込む風祭が、こんな子どもの落書きみたいな絵を?

 信じられなくて、でも愛おしくて、千紗は頬が緩んだ。


 その日の帰り道。


 たまたま同じ方向だった風祭と並んで歩くことになった。校門を出たところで、千紗がふと口にした。


 「ねえ、風祭くん」


 「ん?」


 「ノートに描いてた、あの猫……あれ、何?」


 風祭はピタリと足を止めた。

 そして、気まずそうに目を逸らしながら、ぽつりとつぶやいた。


 「……クセ。中学のときから……考え事してると、いつの間にか描いてるんだよ」


 「ふふっ、あれ、猫だったんだね。かわいかったよ」


 「どこがだよ……自分でもわかってる。下手だって」


 「でもなんか、あれ見たときちょっと嬉しかった」


 「は?」


 千紗は、前を向いたまま笑った。


 「だって、風祭くんにも普通の男子っぽいとこあるんだなって。ちょっと、ホッとした」


 風祭は黙っていたが、ほんの少しだけ耳が赤くなっていた。


 空には、春の夕陽がゆっくり沈んでいく。


 ふたりの背中を、金色の光がやさしく照らしていた。


 夜。千紗は自室のベッドに寝転がりながら、スマホを耳に当てていた。


 ディスプレイには「兄・修司」の文字。


 「……それでさ、今日もまた、あの子ノートにごちゃごちゃ書いててさ。まじめなんだよ、すっごく」


 「ふーん。そいつが例の“元・名門エース”ってやつか?」


 電話の向こうから聞こえてきたのは、少し低めで、でも穏やかな声。

 社会人になったばかりの兄・修司は、かつて桜が丘の野球部でキャプテンを務めていた。千紗がマネージャーを引き受けたのも、兄の影響が大きかった。


 「うん。でもね、最初は“なんでこんなとこ来たんだろ”って思ってたけど……違った。ちゃんと見てる。みんなのこと、野球のこと。ノートにまで書いて」


 「なるほど。表じゃ無口でも、影では努力してるタイプだな。いいじゃん、そういうやつ」


 「……うん。なんかね、その人の背中、寂しそうなんだよ」


 しばらく沈黙が続いたあと、修司が静かに言った。


 「背番号がどうこうじゃなくてさ」


 「うん?」


 「グラウンドで大事なのは、“その背中に誰がついてくるか”なんだよ」


 「……」


 「お前も、そいつの背中、ちゃんと見てるんだろ?」


 千紗は目を閉じた。あの日、ひとりでブルペンを整備していた球児の背中を思い出す。

 誰に言われたわけでもなく、地面を均していたその姿。


 「……うん。ちゃんと、見てる」


 「だったら大丈夫。そいつ、きっとまたマウンドに戻ってくるよ」


 「そっか……」


 兄との会話は、心の奥に温かい灯をともしてくれる。


 「ありがと、修ちゃん」


 「照れんじゃねーよ、バーカ」


 電話が切れたあと、千紗はそっと机に目を向けた。


 その上には、一枚の白い布。


 背番号“1”の刺繍が、少しだけ曲がって縫いかけのままだった。


 千紗はゆっくりと、針を手に取った。





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