第6話:風祭ノートと、目覚めたバット
春の午後、桜が丘高校のグラウンド。
声だけは元気に響くが、その実、部員たちの動きはどこかぎこちなく、まとまりがない。ポジションもあやふやで、打球の処理一つにもおたおたしている。
風祭球児はベンチの端に腰を下ろし、腕を組んでその様子を見つめていた。
──俺がいたチームとは、まるで違う。
それは最初から分かっていたことだ。だが、実際にこうして目にすると、やはり胸の奥に何かが引っかかった。
そのまま静かに鞄を開けると、そこから一冊の黒いノートを取り出す。表紙は薄く擦れて、角は折れ、どこか古びていた。
風祭は無言でペンを取り、カチリとノックした。
──三島:キャプテンだけど、スイングが自己流すぎる。フォームが毎回バラバラ。
──俊介:足は速いが、スタートの反応が悪い。塁間の距離感もまだ甘い。
──翔太:内野ゴロに対して詰まりがち。腰の使い方が硬い。
書きながら、心の中でため息をつく。
「……どうせ俺は、試合には出ない。けど──」
それでも、この時間を無駄にしたくなかった。
ボールを投げる代わりに、見て、考えて、言葉にしてみる。それが今の自分にできる、せめてもの“野球”だった。
その手元のノートは、次第に彼の心を映す鏡になっていく。
■
ある日の放課後。
そのノートは、偶然見つかったものだった。
放課後の部室。春の柔らかな光が窓から差し込むなか、千紗は一人で掃除をしていた。
雑巾を片手に、ベンチの下を覗き込んだとき、黒いリングノートがほこりまみれになって転がっていた。
「ん? 誰のノートだろ……?」
拾い上げて開いた瞬間、彼女の手が止まる。
──三島:スイング時、右足の軸が流れる。→右足着地を1秒我慢するドリル案。
──俊介:俊足だが打球判断が甘い。→スタートダッシュと声かけ強化を。
──翔太:送球時の肘の角度が一定せずブレやすい。→鏡トレとフォーム矯正。
「……これ、全部……うちの部員の癖……?」
丁寧な文字でびっしりと書き込まれたページ。
ただの観察ではない。個々の特徴にあわせた練習メニューまで添えられていた。
「……風祭くん、これ……」
千紗はそっと胸にノートを抱いた。
彼は何も言わなかった。けれど、ずっと見てくれていた──その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
*
翌日の昼休み。
千紗は三島と数人の部員を呼び出し、部室のベンチに並べて座らせた。
「ちょっと……これ、見てほしいんだけど」
ノートを開いて手渡すと、最初にページを覗いた三島が目を見開いた。
「うわっ……これ、俺のクセ、めっちゃ書いてある!」
「……え、俊介のページもあるじゃん。マジでここまで見られてたのかよ……」
「フォーム改善案まで書いてある……コーチかよ、あいつ」
部員たちの顔が、驚きから静かな感動へと変わっていく。
「これ……風祭が?」
千紗は小さく頷いた。
「うん。本人は何も言ってないけど、きっとずっと見てくれてたんだと思う。黙ってるけど、本当はこのチームのこと、ちゃんと考えてるんだよ」
誰からともなく、笑みが漏れた。
「……なんか、やる気出てきたな」
「俺、次の練習からノート通りやってみるよ」
「風祭さん、かっけぇな……」
部員たちの目に、確かな火が宿った瞬間だった。
*
放課後。
グラウンド脇のベンチに、球児が座っていた。グローブを膝に乗せ、ぼんやり空を見ている。
「ねえ、風祭くん」
麦茶入りの紙コップを持って千紗が隣に腰を下ろす。
「今日は、ミント入り。疲労回復に効くらしいよ」
「……部活で出すレベルじゃないだろ、それ」
「マネージャーなめんな~」
球児は一口すすって、少しだけ目を細めた。
「……うまい」
「ありがと」
ふたりの間に、風が吹き抜ける。
「ノート、見ちゃった。ごめんね。でも……すごくよかった」
「別に、隠してたわけじゃない」
「でも、見てたよね。みんなのこと、ちゃんと」
球児は麦茶の表面をじっと見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……背番号は、まだ背負う気になれない。けど……」
ゆっくりと、彼は空を見上げた。
「誰かの役に立てるなら……もう少し、ここにいてもいいかなって」
千紗はそっと微笑み、頷いた。
「うん。風祭くんがいるだけで、みんな変わってる。もっといてよ。桜が丘にさ」
照れくさそうに目を伏せた球児の横顔に、淡い陽が差していた。
遠くから聞こえる打球音。
風の音。
そして、背中合わせのやりとりの中で、確かにチームの心がつながりはじめていた。
桜色の光が差す部室に、千紗がそっと入ってきた。風祭はベンチでグローブの紐を締め直している。
「風祭くん」
その声に、彼はちらりと顔を上げた。
「……ああ」
千紗はそっと、手にした黒いノートを差し出した。
「ごめんね。勝手に見ちゃった。返すね」
風祭は一瞬だけ視線を泳がせてから、ゆっくりとノートを受け取った。
「別に。どうでもいいよ」
「……でも、すごかったよ。みんなのこと、あんなにちゃんと見てて」
沈黙。
千紗は続ける。
「私も、あのノート見て、ちょっと泣きそうになったんだ。ちゃんと、チームのこと考えてるって分かって」
風祭は視線を落とし、ノートをぱらりとめくった。
そして、ひと言。
「……使ったなら、次のページからも使っていいよ」
「……え?」
「勝手に見られたんだから、どうせなら勝手に活かせばいい。そういうの、嫌いじゃないから」
千紗はふっと笑った。
「それ、許可ってことでいいんだよね?」
「さあな」
照れくさそうに鼻をかいた球児に、千紗はそっと言った。
「ありがとう」
ノートは風祭の手に戻ったが、その距離はもう以前とは違っていた。
■
夕方のグラウンド。日が傾き、肌寒い風が吹き始める頃。誰もいなくなったベンチに、一人の影が残っていた。
三島大地。桜が丘高校野球部、主将──だが、経験は浅く、技術もまだまだ未熟だ。
彼は手にしたノートをじっと見つめていた。
風祭球児が残した、部員一人ひとりへの細かな分析とアドバイスが詰まったノートだ。
ページの上、太字で書かれた自分の名前を見て、三島は苦笑する。
「三島──スイング時、右足の軸が流れる。ボール球にも手を出しやすい。試合中の視野が狭い」
「……マジで当たってる。くそ、悔しいけど、ありがてぇな……」
正直、最初は風祭が怖かった。圧倒的な実力と、何も語らない目。その背中に、どこか遠さを感じていた。
だけど、このノートを見て、考えが変わった。
あの人は見てた。黙って見てた。だけど、ちゃんと“チーム”のことを考えてくれていたんだ。
三島はそっとノートを閉じ、バットを手に立ち上がった。
「右足……流れる、か」
ポン、と自分の太ももを叩く。
「じゃあ止めてやるよ、今日こそは」
ガラン、と音を立ててネットにぶら下がる古いボールを拾い、バッティングマシン代わりのタイヤに向かって素振りを始めた。
何度も。何度も。
風の音に紛れて、乾いた空振りの音が夜に響いた。
「俺がちゃんと主将やんなきゃ、チームはバラバラだろ」
「風祭が来てくれてよかった……でも、それで終わりじゃねぇよな。俺が引っぱんなきゃ」
誰にも見られない時間。誰にも知られない場所。
それでも彼は振り続けた。泥臭く、情けなく、でも誇りを持って。
月がゆっくりと昇るなか、グラウンドにはひとつだけ、止まらない影があった。
■
放課後の風が、部室のカーテンをふわりと揺らしていた。
ひとり残った千紗は、風祭のノートをそっと机に広げていた。返したはずだったが、「必要になったら見ていいよ」と言われたのをいいことに、こっそり読んでいる。
真面目でびっしりと書き込まれた文字。練習メニュー、フォーム分析、部員の性格に至るまで、まるでプロのコーチの手帳のようだ。
──本当にすごいな、風祭くん。
そう思いながらページをめくっていたそのとき。ふと、違和感のあるページが目に入った。
「あれ……?」
その右下に、何やらヘンテコな絵が描かれていた。
丸い顔。三角の耳。胴体が妙に長い。そしてなぜか、体に“にゃ”と書いてある。
どう見ても、猫──だと思われる。だけど……ものすごく、下手だった。
「……ぷっ」
思わず吹き出してしまった。
あのクールで黙々とノートに書き込む風祭が、こんな子どもの落書きみたいな絵を?
信じられなくて、でも愛おしくて、千紗は頬が緩んだ。
その日の帰り道。
たまたま同じ方向だった風祭と並んで歩くことになった。校門を出たところで、千紗がふと口にした。
「ねえ、風祭くん」
「ん?」
「ノートに描いてた、あの猫……あれ、何?」
風祭はピタリと足を止めた。
そして、気まずそうに目を逸らしながら、ぽつりとつぶやいた。
「……クセ。中学のときから……考え事してると、いつの間にか描いてるんだよ」
「ふふっ、あれ、猫だったんだね。かわいかったよ」
「どこがだよ……自分でもわかってる。下手だって」
「でもなんか、あれ見たときちょっと嬉しかった」
「は?」
千紗は、前を向いたまま笑った。
「だって、風祭くんにも普通の男子っぽいとこあるんだなって。ちょっと、ホッとした」
風祭は黙っていたが、ほんの少しだけ耳が赤くなっていた。
空には、春の夕陽がゆっくり沈んでいく。
ふたりの背中を、金色の光がやさしく照らしていた。
■
夜。千紗は自室のベッドに寝転がりながら、スマホを耳に当てていた。
ディスプレイには「兄・修司」の文字。
「……それでさ、今日もまた、あの子ノートにごちゃごちゃ書いててさ。まじめなんだよ、すっごく」
「ふーん。そいつが例の“元・名門エース”ってやつか?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、少し低めで、でも穏やかな声。
社会人になったばかりの兄・修司は、かつて桜が丘の野球部でキャプテンを務めていた。千紗がマネージャーを引き受けたのも、兄の影響が大きかった。
「うん。でもね、最初は“なんでこんなとこ来たんだろ”って思ってたけど……違った。ちゃんと見てる。みんなのこと、野球のこと。ノートにまで書いて」
「なるほど。表じゃ無口でも、影では努力してるタイプだな。いいじゃん、そういうやつ」
「……うん。なんかね、その人の背中、寂しそうなんだよ」
しばらく沈黙が続いたあと、修司が静かに言った。
「背番号がどうこうじゃなくてさ」
「うん?」
「グラウンドで大事なのは、“その背中に誰がついてくるか”なんだよ」
「……」
「お前も、そいつの背中、ちゃんと見てるんだろ?」
千紗は目を閉じた。あの日、ひとりでブルペンを整備していた球児の背中を思い出す。
誰に言われたわけでもなく、地面を均していたその姿。
「……うん。ちゃんと、見てる」
「だったら大丈夫。そいつ、きっとまたマウンドに戻ってくるよ」
「そっか……」
兄との会話は、心の奥に温かい灯をともしてくれる。
「ありがと、修ちゃん」
「照れんじゃねーよ、バーカ」
電話が切れたあと、千紗はそっと机に目を向けた。
その上には、一枚の白い布。
背番号“1”の刺繍が、少しだけ曲がって縫いかけのままだった。
千紗はゆっくりと、針を手に取った。