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第5話:背中合わせのブルペン

 その夜、グラウンドは静まり返っていた。


 校舎の明かりはとっくに落ちて、フェンスの隙間から入る月光だけが土を照らしていた。


 風祭球児は、マウンドの中央に立っていた。

 誰もいないグラウンド。

 観客もいない、拍手も歓声もない夜。


 だけど、それでよかった。


 彼にとって、いちばん怖いのは“誰かに見られて失敗すること”じゃなかった。

 “自分が心から野球を好きだった”と認めることだった。


 ──もう、やめたはずだった。

 あの日、先輩たちに妬まれ、居場所を失って。

 父親に「逃げたのか」と吐き捨てられて。

 それでも言い返せなかった自分が、情けなくて、悔しくて。


 でも──


「……まだ、終われてないじゃないか」


 ふと、自分の声が夜の空に滲んだ。


 手には古びた白球。

 マネージャー・千紗が「まだ使えるよ」と言って保管していた、少し傷のついたボールだ。


 彼はゆっくりと腕を振る。

 無人のホームベースへ、球が吸い込まれるように飛んでいった。


 ──ストライクかどうかなんて、分からない。

 でも、自分の中では、たしかに“投げた”と実感できた。


 もう一球、もう一球。

 風を切る音が、心の奥まで響いてくる。


「……やっぱり、好きだ」


 ボールを握る右手が微かに震える。

 でもそれは、恐怖じゃない。

 鼓動が、胸の奥から“投げたい”と叫んでいるからだ。


「たとえ……背番号がなくても。

 たとえ……もう、甲子園を目指せなくても。

 このマウンドに立つ理由は、俺の中にある」


 言葉にした瞬間、胸の奥でなにかがほどけていった。


 どこからか、夜風が吹き抜けた。

 まるで誰かが「それでいい」と言ってくれた気がした。


 球児は最後にもう一度、ボールを投げた。


 月の光をかすかに反射して、ボールは真っすぐに飛んでいった。

 そしてネットにぶつかる、乾いた音がグラウンドに響いた。


 ──その瞬間、風祭球児は決めたのだ。


 もう一度、マウンドに立つと。

 背番号はまだいらない。でも、想いはある。

 それだけで、十分だ。

 夜の校舎。

 昼間はあれほど喧騒に満ちていたグラウンドも、今はしんと静まり返っていた。


 千紗は、誰にも言わずに校門の裏手からそっと中へ入った。

 マネージャーの特権だ。鍵は持っていないけど、金網の裏にちょっとした隙間がある。昔からの秘密の通路。


 そこから覗いたグラウンドの中央。

 ひとりの影が、まっすぐにマウンドへ向かっていた。


 ──風祭球児。


 やっぱり、来たんだ。


 夕方、部室に忘れ物を取りに行ったとき、タオルの上に置かれた彼のグローブが妙に整っていて──

 胸のどこかが、ちくんとした。


 「たぶん、来ると思った」


 千紗は金網の裏にしゃがみこんで、膝を抱えた。

 身体を小さくしながら、そっと見守る。


 球児は何も言わず、ただマウンドに立ち、ボールを投げていた。

 力みも、虚勢もない。

 まるで心の底に閉じ込めていたなにかを、ひとつずつ解き放つように。


 その投球を、千紗は黙って見ていた。


 ──初めて会った日。

 「フォークとストレートが武器」と淡々と言った彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。


 でも今、あの背中は違う。

 ちゃんと、グラウンドを見ている。自分の足で立ってる。


「やっぱり、好きなんだね……野球」


 声に出すと、ちょっと涙が出そうになった。


 千紗は、自分が風祭球児に惹かれていることを、もう気づいていた。

 でもそれは“恋”というより、“想い”だった。

 誰かがもう一度好きなことを好きと言えるようになる瞬間が、ただ、たまらなく嬉しかった。


 彼が最後の一球を投げたとき、風がふっと吹いた。

 その音に紛れて、千紗はすっと立ち上がった。


 その背中に「がんばれ」と言う代わりに──

 翌朝のボールのそばに、小さな紙切れを残しておくと決めた。


『おかえりなさい』


 たったそれだけの言葉でいい。

 それだけで伝わる気がした。


 千紗は夜の校門を出る前に、一度だけ振り返った。


 月明かりの中、マウンドに立つ彼の影が、少しだけ誇らしげに見えた。



 朝の空気がまだ冷たい。

 グラウンドには、早くも千紗の姿があった。


 制服の上にジャージを羽織って、いつものようにマネージャー仕事を始めている。

 ベンチの掃除。水の補充。そして──小さな紙コップに、はちみつ入り麦茶。


 そこへ、風祭球児がやってきた。


 「おはよう」


 「おはよう。今日、ちょっと早いね」


 「ああ……なんとなく」


 球児は、いつもの無表情で答える。だが、その目の奥にはどこか“昨夜の余韻”が残っていた。


 千紗はそれを見逃さない。


 「昨日、よく眠れた?」


 「……まぁ、ぼちぼち」


 球児が少しだけ目をそらす。その仕草に、千紗はふっと笑った。


 「そっか。なんだか、いい顔してる。昨日の夜、いい夢でも見た?」


 球児は答えず、小さく肩をすくめた。


 「……さあな。夢だったのかも」


 それでも、ほんのりと口元が緩んでいた。


 千紗はそれを見て、紙コップを手渡す。


 「はい、今日の麦茶。今朝は、ちょっとレモンも入れてみたの」


 「はちみつの甘さとレモンって……合うのか?」


 「合うよ。さっぱりして、気持ちも切り替わるって。

 ──たとえば、昨日の夜に“なにか”大事なことがあった人とかに、ぴったり」


 その言葉に、球児の手が一瞬だけ止まった。


 「……お前、もしかして」


 千紗はにこっと笑ったまま、目をそらす。


 「ん? なにか言った?」


 「……いや。なんでもない」


 球児は、麦茶を一口飲んだ。

 レモンの香りがすっと鼻を抜けて、胸の奥まで染みてくるようだった。


 「……悪くない」


 「それならよかった」


 ふたりの間に、それ以上の会話はなかった。


 でも、言葉以上に通じ合った朝だった。


 球児は静かに、マウンドへ歩き出す。

 その背中を、千紗はそっと見送った。


 (……がんばれ)


 心の中だけで、そうつぶやいて。

 その声はきっと、球児の胸にも届いていた。



 午後のチャイムが鳴り終わると同時に、風祭球児は迷いなく校舎を出た。

 鞄を片手に持ち、人気のない裏手の道を抜けて、グラウンドへと向かう。


 正式にはまだ野球部に「入った」わけではない。

 だが、あの草野球との練習試合を経て、球児は自然と“部の中にいる存在”になっていた。


 「もっと腰を落とせ。肘の位置、下がってる」


 「フォーム崩して投げると、怪我するぞ。癖になる」


 ブルペンでの球児の指導は、いつも簡潔だった。

 だが不思議と説得力があって、部員たちは真剣に耳を傾けた。


 「さすが……元・名門校のエースってやつか」


 「こっちがヘラヘラしてると、逆に叱られてる気になるよな」


 そんな声が囁かれるようになったのも、ここ数日のこと。

 球児はその噂に一切興味を示さないが、淡々としたその佇まいは、自然と部に芯を作っていた。



 「はい、コーチさん。麦茶です。はちみつ入りでございます!」


 差し出された紙コップに球児が目をやると、そこにはマネージャー・夏見千紗の笑顔があった。


 「……ああ。ありがとう」


 そう言って一口。口の中に広がる、優しい甘さ。


 「……うまい」


 「おっ、それは嬉しい。今日はちょっと濃いめにしてみたの。疲労回復に良いって」


 「……じゃあ、正解かもな」


 いつものように、ぶっきらぼうな返し。

 けれど、千紗はすでに分かっている。それが、彼なりの“ありがとう”だということを。


 彼の顔にごくわずかな笑みが浮かぶのを見ると、それだけで千紗の胸がふわっとあたたかくなった。



 夕暮れがグラウンドをオレンジに染め始めたころ、部員たちはそれぞれの道へ帰っていった。

 球児も荷物をまとめて立ち上がる――そのとき、ふと視界の端に見えたものがあった。


 校舎裏のフェンスの陰、バットを振るひとつの影。


 「……三島」


 主将の三島大地だった。誰もいない時間を見計らい、ひとりで素振りをしている。


 ギュッ、とグリップを握る音。

 スイングのたびに吐き出される呼吸。

 その背中は、不格好で、ぎこちなくて、それでも真っ直ぐだった。


 (……必死、なんだな)


 気づけば、球児の手も自然と力が入っていた。

 自分よりもずっと不器用で、でも誰よりもまっすぐな主将の姿が、胸に残った。



 校門前で、千紗がまた待っていた。


 「風祭くん、今日もありがとう。みんな、すごく嬉しそうだったよ」


 「……そうか」


 「フォームが良くなったって、自信ついたって」


 球児は頷くだけだった。けれど、その歩幅は昨日より少しだけ軽い。


 千紗はその背中を見ながら、小さく微笑んだ。



 その夜、布団の中で球児は目を閉じていた。

 しかし眠りはやってこない。


 頭の中に、三島の素振りの音が響いていた。


 (……俺は、まだ投げてない)


 口に出したその言葉は、自分自身への問いかけだった。


 逃げるためにここへ来たはずだった。

 でも今、誰かの努力が胸を打ち、誰かの言葉が耳に残る。


 何かが、変わり始めている。


 背中合わせのブルペンで、誰にも見えない距離が、少しずつ近づいていた。


登場人物紹介


風祭かざまつり 球児きゅうじ

本作の主人公。桜が丘高校・2年生。

元・県北高校野球部のエースで、最速155キロのストレートと落差鋭いフォークを持つ。

しかし先輩の妬みによって理不尽な退部処分を受け、野球部のない弱小校・桜が丘高校へ転校。

現在は「正式な部員ではない」まま、助っ人兼コーチ役として練習に参加。

ぶっきらぼうで無愛想だが、黙々と努力を重ねる姿勢と冷静な観察眼は周囲に信頼されている。

「もう一度、野球が好きになれる場所」を探しながら、少しずつ心を開き始めている。


風祭かざまつり つよし

球児の父。元プロ野球選手。

ポテンシャルはあったが、ケガに泣き、プロの世界で目立った実績を残せず引退。

その悔しさを息子に重ね、幼少期からスパルタ的な指導を繰り返してきた。

口調は常に厳しく、「プロになることがすべて」と信じて疑わなかったが、球児との間に深い溝を作ってしまった。

現在は息子と距離を置いており、表立った登場は少ないが、球児の投球フォームや精神面に確実な影響を残している。

“愛情ゆえの暴走”と“挫折を子に託す未熟さ”が同居した、物語の影を担う人物。


夏見なつみ 千紗ちさ

桜が丘高校野球部マネージャー。2年生。

快活で明るく、行動力と前向きさが持ち味のムードメーカー。

兄の影響で野球を好きになり、「どんなに弱くても、心が折れなければ前に進める」を信条にしている。

風祭球児に淡い恋心を抱きつつ、マネージャーとして彼を支え、少しずつ心の距離を縮めている。

はちみつ入り麦茶が特技であり、球児との“ささやかな絆”の象徴。


三島みしま 大地だいち

桜が丘高校野球部主将。3年生。

体格に恵まれたが野球経験は浅く、プレーは粗削り。

それでも真っ直ぐな性格と強い情熱で、部員たちを引っ張る兄貴分。

人一倍努力家で、誰もいない夜に黙々と素振りをする姿が球児の心を動かした。

「風祭にマウンドへ戻ってほしい」と誰よりも願い、その背中を押し続けている。


夏見なつみ 隼人はやと

千紗の兄。桜が丘高校野球部の元エースで、最後に“初戦突破”を成し遂げた伝説の先輩。

現在は社会人だが、千紗にとってはずっと憧れの存在。

常に明るく、どんな状況でも仲間を信じる姿勢は、今も野球部に語り継がれている。

直接の登場はまだないが、“兄の背中”は千紗にとっての精神的な支柱。


■助っ人メンバーたち(練習試合限定)

・俊介:サッカー部所属。俊足を買われて外野手に。

・翔太:バスケ部の俊敏男。反射神経で内野をこなす。

・森本:卓球部の冷静な男。捕球技術に優れキャッチャー役も。

彼らの一時的な加入により、桜が丘高校は“試合ができるチーム”になった。



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