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第4話:雨の練習試合と、空振りの理由

 桜が丘高校・野球部の部室。

 扉の向こうから聞こえるのは、妙に深刻な空気だった。


「なあ、冷静に考えて……俺ら、七人しかいないんだけど」


「うん、前からそうだったけど?」


 三島大地が苦々しく言えば、千紗はどこ吹く風と麦茶を飲んでいる。


「試合って、九人でやるもんじゃなかったっけ……?」


「正確には、スタメン九人に控えもいるから十人くらいは必要だね。安心して、数えてあるから」


「……数えて“ある”ってなに」


 千紗がにっこりと指を立てる。


「というわけで、明日から助っ人勧誘ミッション、スタート!」


 その翌日。風祭球児を含む野球部員たちは、千紗の“スカウト台本”を片手に、校内に散った。


「おまえ、運動神経良さそうだな! 今すぐバット握ってみないか!」


 声をかけられたのは、帰宅部の男子。

 突然のことにおにぎりを落としながら「え、なに、スカウト? え、プロ?」と動揺していた。


「演劇部の君、照明係でマメな作業してるって聞いたけど、キャッチャーミットも構えられるよね?」


「照明とキャッチャーミットは別物では……?」


 理不尽スカウトも炸裂。


 一方、風祭球児は静かに部室裏のベンチに座っていた。

 自分から勧誘する気など、なかった。


 だが──彼の前に、ひとりの男子が現れた。


「……あの、風祭先輩。よければ、手伝ってもいいですか?」


「……お前、どこの部?」


「科学部です。野球のこと、全然知らないですけど……球児先輩が練習見てるとこ、ちょっとかっこよくて」


 不器用そうな笑顔だった。

 でも、その目は真剣だった。


「……投げるより、応援の方が上手いかもな。よろしく頼む」


 球児はそっと手を差し出した。


 放課後、グラウンドに集まったのは──


・いつもは文化部で部誌を作っていた編集男子(記録係と代打)

・元サッカー部の俊足男子(足だけは速い)

・美術部のスローガン描き職人(応援横断幕係)

・そして謎の科学部男子(意外と動体視力がいい)


 総勢10名+マネージャー1名。

 彼らはバラバラなようで、どこか“今を楽しんでいる”空気があった。


「……見た目は草野球。中身はごちゃ混ぜ。でも、それでもいいよな」


 球児がぽつりと呟くと、千紗が笑った。


「試合ってさ、相手がいるからできるんじゃなくて、仲間がいるから始まるんだよ。

 今日から私たちは“チーム桜が丘”!」


「……ダサい」


「でもいい名前でしょ?」


 三島が笑いながらボールを投げる。

 風祭が構えたグローブで、それを無駄なく受け止める。


 ──今だけのチーム。借り物みたいな仲間。

 でもこの瞬間は、確かに“同じ夢”を見ていた。


 そして数日後、草野球クラブとの練習試合が実現することになる。


 何もなかった桜が丘のグラウンドに、ようやく“試合”の匂いが漂い始めた。



 草野球チームとの練習試合を翌日に控えた夜、桜が丘高校・野球部の部室には、妙に熱い空気が漂っていた。


「よーし、今夜は決起会だ!」


 三島主将の声が響くと、部室の机にインスタントのカップラーメンとコンビニのオニギリが並ぶ。


「え、決起会って……こういう感じ?」


「試合前夜に飯を囲む! これ大事! たぶん!」


 文化部の編集男子がやんわりと首をかしげたが、すぐに麦茶が手渡された。

 部室の片隅には、千紗お手製の「明日は絶対楽しもう!横断幕」が干されている。


「なあ、風祭」


 三島がラーメンの湯を注ぎながら話しかけた。


「お前にも背番号、作ったんだ。ゼッケンだけど、一番。ほら」


 差し出されたのは、白い布にマジックで描かれた“1”の数字。

 下手くそな縫い目と、不自然に大きな文字。どこか不恰好で、でも一生懸命だった。


 だが球児は、黙ってそれを見つめた。


「……ごめん。俺、それは……いらない」


 場が静かになった。

 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


「俺、まだ“このチームの一番”になれる自信ないんだ」


 静かな言葉だった。

 でも、それは逃げでも拒絶でもなかった。

 風祭球児なりの“敬意”だった。


「そっか。じゃあ、いつか着たくなったときに言えよな」


 三島はにっこり笑って、ゼッケンを自分のリュックにしまった。



 ぽつ、ぽつ、と空から落ちてきた水滴は、気まぐれに土を打ち、マウンドを湿らせた。


 グラウンドは少しずつ、灰色が混じっていく。

 試合開始のサイレンが鳴る頃には、遠くの空がすでに重く垂れ込めていた。


「今日は、やれるとこまでやろう!」

 主将・三島大地の声がグラウンドに響く。


 声は明るいが、チームの雰囲気は決して明るくなかった。


 初めての練習試合。相手は町内の草野球クラブ『ブルーリバース』。

 平均年齢三十歳超えの“おじさん軍団”とはいえ、構えもスイングも格が違った。


 一回表。いきなり三連打。エラー絡みで三点先制。

 守備陣は右往左往。声も飛ばず、ベンチは沈黙したままだった。


「……うわ、速っ」

「てか、うまっ……え、あんなに芯で打てるもんなの?」

 ポジションに就いたまま、誰かがぽつりとつぶやく。


 マウンドには、経験の浅い一年生ピッチャーが立っていた。

 手首の返しもうまくいかず、投げるたびに顔をしかめる。


 球児はそのすべてを、ベンチの隅からじっと見ていた。


「ねぇ、風祭くん……大丈夫、黙って見てるだけで」


 隣で千紗が気を遣うように話しかけた。

 しかし、球児は目をそらさず、ただ「うん」と一言返した。


 雨足が少し強まった三回裏。

 スコアはすでに1-9。あらゆる意味で、コールドの足音が聞こえていた。


「次、三島くんだよね……」


 千紗がスコアブックを見ながら小さく呟いた。

 ベンチ前、三島はバットを握りしめていた。


「……ここで、一本出せたら」


 何に向かって言っているのか、自分でも分からないまま呟いた。


 四回裏、二死一塁。

 チーム唯一のランナーが出た場面で、三島が打席に立つ。


 雨は本降りになっていた。

 グラウンドに水たまりができ始める。バットは湿り、手のひらが滑る。


 球は低め。振り遅れた。

 音もなく空を切る金属バット。審判の声が響く。


「ストライーク、バッターアウト!」


 三振だった。


 その瞬間、空がひときわ大きく唸り、雨がさらに強まった。

 試合終了の合図が、しとしと降る音に重なった。


 傘もささずに歩く帰り道。

 水を含んだアスファルトの匂いが鼻に刺さる。

 三島はうつむいたまま、口を開いた。


「……情けないよな」


 球児は、隣で黙って歩いていた。


「空振りして終わるなんてさ、俺、何やってんだろ……」


 声が震えていた。

 いや、泣いている。

 ただ、雨のせいで誰にも分からなかった。


「みんなに声かけようとしても、誰もこっち見てなかった。

 “がんばれ”って言われても、声が遠かった」


 球児は少しだけ、足を止めた。

 でも言葉は見つからない。

 その肩に「ドンマイ」なんて言えるほど、自分は偉くないと思った。


 その夜。

 千紗は、一人でグラウンドに残る球児を見つけた。


「ねぇ」


 彼女の声に、球児は背を向けたまま手を止めなかった。

 マウンドの土をならしている。

 まるで、今日の試合をなかったことにするように。


「どうして……あのとき、マウンドに立たなかったの?」


 千紗の声は、怒っていた。

 悔しくて、悲しくて、どうしようもなくぶつけた声だった。


「君なら、止められたかもしれない。

 せめて、アドバイスでもして狙い球とか……三島くんに一本打たせるくらいはできたんじゃないの……?」


 球児はようやく手を止めた。

 そして静かに言った。


「……まだ、“投げていい理由”が分からないんだ」


 千紗は、黙った。

 怒鳴ることも、なじることもできなかった。

 その背中が、あまりにも静かで、真剣だったから。


 翌朝。

 昨日と同じグラウンド。

 ぬかるみはそのまま。ベースは歪み、マウンドの頂点が崩れていた。


 その土をならすひとりの影がある。


 風祭球児だった。


 誰にも命じられていない。

 誰も見ていない。

 でも、彼は黙々と、マウンドに触れていた。


 投げる理由はまだ分からない。

 けれど、こうして土を整えることで、ほんの少しだけ、答えに近づける気がした。


 それが、風祭球児の“再出発”のやり方だった。



 練習試合が終わったあと。

 夕暮れのグラウンドに、二人だけが残っていた。


 三島大地と、風祭球児。


 部員たちは着替えを済ませ、千紗は部室の鍵を返しに行った。

 オレンジ色に染まった空の下で、三島はバットを手に黙って素振りをしていた。


 球児はその背中を黙って見ていた。

 いつもより、重そうだった。


「……三振、悔しかった?」


 ふいに球児が問うと、三島はふっと息を吐いた。


「悔しかったよ。そりゃあな。

 でも、あのとき涙が出たのは、打てなかったからじゃない」


「じゃあ、何で?」


 三島は素振りを止めて、バットの先で土を軽く突いた。


「たぶん、“自分が本当に野球好きだったんだな”って、気づいたから」


 その言葉に、球児はまばたきをした。


「俺、そんなに上手いわけじゃない。小中だって万年補欠。

 でもさ、なんでかわかんないけど、

 グラウンドにいると、どこか自分でいられる気がするんだよな」


 照れたように笑った。


「俺がここでキャプテンやってるのって、“上手いから”じゃなくて、

 “誰より野球が好きだから”だって、自分でも思ってる」


 風が、ふたりの間を抜けていく。


「だから……球児。お前がマウンドに立たなかった時、正直悔しかった」


 球児が、ゆっくり顔を上げた。


「悔しいって……なんで?」


「だって、お前は本物の“才能”持ってるから。

 あのフォーク、誰が見たってすげぇよ。なのに、お前はそれを使わない」


 三島の言葉には怒りはなく、ただ真剣さがあった。


「理由がいるのかもしれない。でもな、俺は逆に“理由がなくても”バットを振りたいんだよ。

 好きだから、やってる。悔しいから、泣いた。

 お前には、それじゃ足りないのか?」


 球児は、言葉を失っていた。


 ──好きだから、やる。


 そんな単純な動機を、いつの間にか自分は置いてきたのかもしれない。


 三島はバットを立てて、それを背に立った。


「俺、背番号1があいつのままでいいとは思ってない。

 けど……お前が“投げていい理由”を見つけたとき、

 その背中に“1”があったら、やっぱり俺は嬉しいと思う」


「……三島」


「とりあえず、次はちゃんとユニフォーム洗ってこいよな。泥、くせぇし」


 そう言って、三島は笑った。


 その笑顔には、悔しさと、それ以上の希望があった。


 風祭球児は、しばらくグラウンドを見つめていた。

 マウンドの土の感触を、靴の裏で確かめながら、そっと拳を握った。


 “投げていい理由”。

 それは、意外と近くにあるのかもしれない。


 そんな気が、少しだけした。



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