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完結『夏空フォークボール』  作者: カトラス


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第33話 :『背番号の1が泣く前に』

 風が止みかけたグラウンドの上に、球児の背番号が静かに揺れている。


 桜が丘、0-1。

 このまま終わるわけにはいかない。そんな空気を一番強く感じていたのは、ベンチの中で拳を握る千紗だった。


「風祭くん……今、どんな顔してるんだろう」


 そう呟いた声は誰にも聞こえなかったけれど、手帳のページはぱたんと閉じられ、代わりにタオルとスポーツドリンクを手に取っていた。


 


「球児!」


 ベンチに戻ってきた球児に、千紗がそっと差し出す。

 汗を拭きながら受け取った彼は、ちらりと彼女を見て、わずかに目元をゆるめた。


「ありがとな」


「……まだ、終わってないから」


 その一言に、球児は力強くうなずいた。


 


 一方、ベンチでは修司がスコアボードを睨みながら、短く指示を飛ばす。


「次の回、絶対一点返すぞ。お前らの“ゼロじゃない気持ち”見せてみろ」


 声が、心に響く。

 選手たちはそれぞれバットを握り、グローブを確認し、そして立ち上がった。


 


 七回裏。

 東都学院のマウンドに立つ川島の表情は、険しくなっていた。


(……なんでだ。こっちは勝ってるのに、あいつの背中ばっか見える)


 マウンドから見た風祭球児の背番号1。

 それが川島には“今でも手に届かない背中”に見えていた。


 


 桜が丘の攻撃。先頭打者・小野寺がフルカウントから四球を選ぶと、ベンチがどっと沸いた。


「よし、ここからだ!」


「繋げ、繋げ!」


 二番・藤木は送りバントを確実に決める。ランナー二塁。

 三番・三島が、静かにバッターボックスへと歩く。


「頼んだぞ、キャプテン」


 石原がベンチから声をかける。

 三島は頷き、深く息を吐くと、初球を思い切り振り抜いた。


 カキーン!


 白球はライナーでライト前へ。


「回せ回せっ!」


 監督・修司の叫びに応え、二塁ランナー小野寺が三塁を蹴る。

 だが――


「……アウトォ!」


 ホームベース上で、東都学院の捕手が完璧なブロックを見せていた。


 ベンチに戻った小野寺が、膝に手をついて悔しさを噛み締める。


「……くっそ、俺の走塁が甘かった」


 三島は静かに彼の肩を叩いた。


「いや、お前の走りがあったからチャンスは生まれた」


 その言葉に、小野寺は顔を上げる。


 


 続く打者は石原。

 カウント1-2、追い込まれた中で、彼はバットを短く持ち直した。


(風祭、もう少しだけ、待ってろよ)


 インローのスライダーをうまく弾き返すと、ボールは三遊間を抜けた。


「三島、還ってこいっ!」


 三島が迷いなく走る。

 川島の叫びが聞こえる。


「止めろ、止めろぉおおお!!」


 だが、その声も届かない。

 三島がスライディングでホームを陥れる。


「セーフッ!!」


 球場が沸いた。桜が丘、1-1の同点。


 スタンドの千紗は思わず手帳を握りしめ、立ち上がった。


「……風祭くん、追いついたよ」


 そしてベンチでは、球児がマウンドへ向かう準備を整えていた。


「行ってくる」


 石原が笑ってグラブを構える。


「この次は、“お前を乗せたまま勝ち越す”からな」


 

 風が再び吹き始める。


 それは、背番号1の背中を押す風だった。


――八回表、1対1の同点。


 午後の陽射しが傾き始めた決勝球場。観客席も、ベンチも、そしてマウンド上の風祭球児も、その空気に飲まれそうになりながら、ただ前を見ていた。


 


「ここが踏ん張りどころだな」


 石原がマスクの中で小さく呟くと、風祭が無言でうなずく。

 スタンドでは千紗が手帳を強く握りしめている。


「お願い、もう少しだけ、背中を預けて……」


 


 打席には、東都学院の四番・藤岡。

 川島とともにこのチームを引っ張ってきた長打力のある主砲だ。


 石原は、配球ノートで何度も考えた“この場面の一球”を思い浮かべる。


「スライダーは見せ球、勝負はインローのストレート」


 サインを出す。


 風祭の指先が、わずかに震える。


(――いける。いまの俺なら、あのときと違う)


 セットポジションから、鋭く投げ込んだ。


 ズバンッ!!


 ミットが快音を立て、審判の手が上がった。


「ストライークッ!」


 観客席に小さなどよめき。藤岡は、わずかに顔をしかめてバットを握り直す。


「クソ、なんだ今の球……」


 


 二球目。

 今度は外角低めにフォーク。


 カクンと落ちる変化球に藤岡のバットが空を切った。


「ストライークッ、ツー!!」


 球場全体が飲み込まれるような静寂に包まれる。


(追い込んだ……)


 


 三球目。石原は一瞬だけ迷った。フォークで空振りを取りに行くか、それとも外角一杯の直球か。


 ……いや、違う。

 この回をゼロで切り抜けるには、“信頼”しかない。


 石原は、まっすぐに風祭を見た。

 そして、胸の前で人差し指と中指を立てて示した。


「ストレート、外角いっぱい」


 風祭は、そのサインに小さく頷いた。


 


 風が止まる。


 そして――


 バシュッ!


 「ストライークスリーッ!!!」


 


 球児のストレートが、完璧に外角を突いた。

 藤岡は見送ったまま、動けなかった。


 


 マウンドで、風祭はようやく小さく息を吐いた。

 ベンチから歓声が上がる。スコアはそのまま、最終回へと突入する。


 八回裏、桜が丘の攻撃。


 先頭バッターの六番・浜中がセンター前にヒットを放つと、ベンチは再び沸いた。


「よし、走れ浜中!」「一点、取ろう!」


 そしてバントでランナーを二塁へ進めた後、打席に立つのは――


 風祭球児。


 エースでラストバッター。背番号1を背負う者が、試合を決める場面。


 


 東都学院の川島が、マウンドで握りしめたボールを見つめながら言う。


「俺が……負けるわけない。あいつだけには、絶対に」


 だがその投球には、かすかな焦りが混じっていた。


 


 一球目、外角低めボール。


 二球目、内角への直球もボール。

 球児は、しっかり見送る。


 


 川島がわずかに歯ぎしりをした。


「なんで……そんな目で、見るんだよ」


 


 三球目、真ん中高め――


 球児のバットが、鋭く振り抜かれた。


 カキーーン!!


 打球は右中間を深々と破る。


「いけぇぇぇぇぇっ!!」


 ベンチの誰かが叫ぶ。


 浜中が三塁を回り、ホームへ突っ込む。


 


 捕手のミットに届くよりも早く、スパイクがホームベースを踏んだ。


「セーフッ!!」


 スコアボードが動く。2対1。


 試合は、桜が丘の逆転。


 


 スタンドで、千紗の手帳が開かれていた。


 そこに、新しい一文が加えられる。


「背番号1が、全員の声を背負って、前に進んだ瞬間」


 


 風が、再び吹き抜けた。


■ 


──あの一球を、もう一度投げられたとしても、

 俺は、きっと同じ選択をするだろう。

 けれど、その結果が「正しさ」を示してくれるわけじゃない。


 風祭球児の打球が、センターの頭上を越えた瞬間。

 バットに当たる音すら、耳には入っていなかった。

 ただ、スローモーションのように──白球が、俺の「正しさ」を打ち砕いていくのが、見えた。


「……ふざけんなよ」


 喉の奥で呟いた。

 誰にも聞こえないように、小さく、小さく。


 あいつは“逃げた”。

 東都学院という、名門の看板を投げ捨てたくせに。

 俺たちが、どれだけ汗を流して牙を研いでいたかも知らずに。


 でも──あいつは“戻ってきた”。

 背番号1を背負って、決勝の舞台に。

 そして今、この手から「勝ち」を奪っていった。


 胸が焼けつくように熱かった。

 汗じゃない、怒りじゃない、これは──悔しさ。


「なんで……お前なんだよ……」


 マウンドの土が、いつもより重い気がした。

 膝に力が入らず、グラブの紐が手のひらに食い込むのも気にならなかった。


 自分がずっと欲しかった称賛、結果、記録、勝利。

 そのすべてを、いま、あいつが手にしている。


 お前がここにいなければ──

 俺は、疑うことなく“エース”でいられたのに。


 思い出す。

 ロッカーに書いた走り書き、“お前なんか嫌いだ”。

 消しゴムでこすったその言葉の跡が、今日まで残ってる。


 あの頃の俺は、怖かったんだ。

 風祭球児が「ただの才能」じゃなく、「努力する才能」だったことが。

 置いていかれる予感がして、先回りして壊した。


 ──けれど、壊したはずの風祭球児は、

 もっと強くなって、ここにいた。


 ベンチに戻りながら、ふとグラブの中を見た。

 誰にも見せたことのない、リストバンドの裏側。


「あいつを抑えたら、俺の野球が“正しかった”って証明になる」


 その言葉が、いまは空虚だった。

 “正しさ”は、証明じゃなく、結果だ。

 今日の試合が、それを教えてくれた。


 風祭がホームベースを踏むのを見届けたとき、

 俺はマウンドから目をそらさなかった。


 悔しい。でも──負けたのは、俺だ。


 そして、あいつが背負ってきたものに、

 俺は勝てなかった。


「次は……逃げねぇよ。絶対に」


 グラブを握り直す指に、力を込めた。

 試合はまだ終わってない。


 だけど、俺の中の何かは、今日、終わった。


 そして新しい何かが──始まりかけている。

 

 俺は風祭に負けたかも知れない。

 だが、東都は負けた訳じゃない。


 

 八回裏、1アウト。

 風祭くんがバッターボックスに立ったとき、私は手帳を握りしめたままベンチの片隅にしゃがみ込んでいた。


 風が少し吹いた。

 スコアボードの数字は、1対1。

 あと一本で、逆転できる──それは数字の話。でも、私は数字よりも、あの背中を見ていた。


 バットを肩に乗せた風祭くんの構えは、普段と何も変わらないように見えた。

 でも、わかる。いつもと違うのは、その目だ。あの目を私は、どこかで見た気がする。


 ……そうだ。あれは、あの日、東都学院のユニフォームを脱いだとき。

 誰にも言わなかったけど、玄関の扉を開けて「ただいま」って言った風祭くんに、私は「おかえり」って言った。

 あのときの目と、今が、同じだった。


 なんでそんな顔をするの?って、思った。

 なのに、どうしてか、私の目からも涙がこぼれそうだった。


 球場は騒がしいのに、ベンチのこの場所だけ、世界から切り離されたみたいに静かだった。


 ……カキーン!


 打球音が、鼓膜を突き抜けた。


 私は反射的に立ち上がって、打球の行方を追った。

 センターの頭上を越えていく白球。ランナーが一気にホームへかえってきて、歓声が割れるように爆発した。


 でも、その瞬間も、私はスタンドも、スコアも見てなかった。

 ただ、風祭くんの背中を見ていた。


 ダイヤモンドを回る彼は、帽子のつばを指で押さえながら走っていた。

 でもその指が、少しだけ震えているように見えたのは、たぶん私の気のせいじゃない。


 ──報われたんだ、と思った。


 誰にも届かないかもしれない悔しさや、孤独や、くやし涙や、

 全部、全部、ちゃんと今日のこの一打に、つながってた。


 私はそっと、手帳を開いた。

 もう何ページも使ってきたこの手帳。だけど、今日ほど、ページの重みを感じたことはなかった。


「風祭球児、九回裏──逆転タイムリー。

 でも本当は、これは“想いの結晶”だったと思う」


 ページの余白に、私は迷いながらも、こう書いた。


「今日の風祭くん:涙が見えた気がした。

 ……でもたぶん、それは、私の目に映った“空の光”だったんだと思う」


 最後に、小さなハートを描いて、やっぱり消さなかった。

 消せない気持ちもあるんだって、ようやく認められた気がしたから。


 試合はまだ終わってない。

 でも、私の中では、この一打で何かが変わった気がした。


 あの背中は、もう誰のものでもない。

 ……だけど私は、ずっと、いちばん近くで見ていたい。


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