第31話:『譲れない一球』
陽炎がゆれる球場、決勝戦・中盤。三回表、桜が丘打線は沈黙を強いられていた。
「ストライク、バッターアウト!」
主審の声が、空に突き刺さる。
川島栄伍――かつて風祭球児と同じチームで汗を流した男。その投球は、あの日のまま、いや、それ以上に冷酷だった。
球は切り裂くように低めを突き、ストライクゾーンの端を舐めて消えていく。
「また三者凡退……」
ベンチに戻る藤木がヘルメットを脱ぎ、ため息を漏らす。
「手も足も出ねぇって、こういうことかよ」
小野寺がバットを地面にコン、と落とした。
「まじで化け物か、あの川島……」
重い空気が漂う桜が丘ベンチ。しかし、それを断ち切るように、ひときわ大きな声が飛ぶ。
「落ち着けよ、全員! あいつの球なんて、風祭と毎日打ち合ってんだろ!」
三島が、吠えた。
「気持ちで負けたら、それこそアイツの思う壺だ!」
その頃、マウンドに立つ風祭は、汗をぬぐいながらキャッチャーミットを見つめていた。
(冷静に……まだ一点も取られてない。ゼロで、ゼロで抑える)
四回表。相手の主砲が構える。球児は少しだけ息を吸い込み、石原の構えた外角低めへ、フォークを落とす。
――ストライク。
「ナイスボール!」
石原が胸を張って声を上げた。
(見えてる。大丈夫、俺は逃げない)
しかし五回裏、試合は動いた。
先頭打者のバントヒット。続くバッターの右中間への打球がフェンスを直撃する。スタンドから歓声があがる。
「中継っ……! 急げ!」
三島が声を張るが、相手のランナーは悠々とホームを踏む。
――先制、0対1。
球児はマウンドで帽子を取り、額の汗を拭った。苦しげな顔をしているのは、自分だけではない。
「風祭、下を向くな!」
三島の声。
その言葉の直後、ピンチは続く。さらにヒット、ノーアウト一・二塁。だが、ここで小野寺が見せた。
「俺に来い……!」
打者の鋭い打球が、三遊間を破ろうとした瞬間――
「っしゃあっ!!」
ダイブ。
小野寺のグラブが、白球を捕らえる。土煙を上げながら、そのままセカンドへ送球。松井が捕って一塁へ。
「ダブルプレー!!」
■
――五回裏、試合の均衡が崩れそうになった瞬間。
三島大地は、自らのスパイクの紐をぎゅっと結び直していた。
打球が三遊間を襲った瞬間、
三島はセンターからその光景を一瞬で“飲み込んだ”。
「まずい……間に合うか?」
打球は速く、低く、左へと鋭く抜けていく。
だが、その白球を――三塁・小野寺が飛んだ。
まるで“弾かれるように”だった。
グラウンドの砂を巻き上げるようにして、小野寺の身体が横に跳んだ。
「……届けっ!」
三島はグラブを広げたその瞬間を、センターから見ていた。
弾かれた球が一瞬、視界から消えたかと思うと――次の瞬間、
一塁方向へ送球する体勢の小野寺が、そこにいた。
その場面を見届けた三島の足元は、じんわりと震えていた。
「守ったな、小野寺……!」
声に出す代わりに、彼はスパイクのつま先で地面を強く蹴った。
自分が飛び込んだわけじゃない。
だが――主将として、“誰かが飛び込めるチーム”を作るのが自分の役目だった。
ベンチに戻る途中、三島は何も言わずに小野寺の肩を軽く叩いた。
小野寺も、何も言わずに、ちいさく頷いた。
その背中には、砂がびっしりと貼りついていた。
試合後。
三島はロッカールームで、自分のスパイクの紐を結び直しながら、ふとつぶやいた。
「一歩目は、誰かが踏み出してくれた。なら、次は……俺の番だよな」
背中に乗るだけじゃなくて、
誰かの背中を、今度は俺が支える側にならなきゃいけない。
試合というのは、一人ではできない。
でも「誰か一人が勇気を見せると、他の誰かが次を託せる」ものでもある。
あの小野寺のダイブ――
それは、守備の1プレーを超えて、“チームの心を守った”瞬間だった。
スパイクの紐がいつもより強く締まっている気がした。
まだ試合は終わっていない。
あの一歩目の“先”を見せるのが、主将の役目だ。
そう、三島は強く思った。
■
小野寺のスーパープレイで球場がどよめいた。
小野寺のユニフォームは土まみれ、息は荒く、それでも顔には笑みがあった。
ベンチに戻った小野寺は、タオルで顔をぬぐうと、静かに言った。
「風祭……俺ら、負けてないからな。まだ、何も終わっちゃいねぇよ」
そして五回裏、チャンスが訪れる。
代打・浜中の粘りの四球、続く田代の送りバント、そして松井の内野安打。二死一・三塁。
「ここで一本、頼むぞ……!」
応援席の千紗は、手にしたノートを握りしめて祈っていた。
バッター、三島。第一打席は三振、第二打席も凡退。だが、この場面で打席に立つ彼は、まるで別人のようだった。
(頼む、三島……!)
初球――川島の外角直球を見逃し。
二球目――高めの球をファウル。
三球目――カーブ。三島が振り抜いた打球は、鋭く一塁線へ……しかし、わずかにファウル。
「……ちっ」
三島は小さく舌打ちするも、顔は前を向いている。
四球目――内角直球。鋭いスイング。しかしボールは、三塁手のグラブに収まり、そのまま一塁送球。
「アウトー!」
――得点ならず。
川島はグラブで口元を隠しながら、低く笑った。
「やっぱり、逃げた奴は逃げ続けるしかねぇんだよ。あいつも、お前らもな」
三島は振り返らず、ベンチに戻ると、黙って風祭の隣に座った。
「……なあ、風祭」
「ん?」
「お前、絶対あいつに勝てよ」
「……ああ」
それは、静かな誓いだった。
■
――決勝戦・五回裏。ひとつの選択が生んだ、重い「1点」の記録。
試合後、石原翔太は、いつものようにロッカーの奥に仕舞ったノートを開いた。
表紙の革は汗でくたびれ、角は少し剥げている。だが、彼にとってこれは“もう一つのグラブ”だ。試合のすべてがここにある。
そのノートの中、5回裏のページにだけ、他より濃く書かれた文字がある。
「あの回は、“選択”の連続だった」
・打順は1番から。東都学院の先頭打者は、初回にも粘ってきた左の巧打者。
・この回、球児の球は浮き気味だった。わずかに、だが確実に高かった。
「1球目、外角低めのストレート」
「2球目、フォークは見送られた」
「3球目、甘くなったスライダーを……センター前に打たれた」
静かながら、ざわめきが起きた。ノーアウトでのランナー出塁。
ベンチからの視線。観客の反応。
けれど石原は、あえてサインを送るのをゆっくりにした。
――焦るな。お前が焦ったら、風祭も動揺する。
次の打者は、川島。相手のエースにして、バットでもチームの中心。
彼がバントの構えを見せた瞬間、石原は咄嗟に「引いてくる」と判断した。
「読めないタイプじゃない。だが“意地”がある」
そして──バントの構えからの強攻。
捕手・石原は、あえてフォークを外に落とすサインを送る。
「これは、お前の“我慢”を見る球だ」
空振り。1ストライク。
だが、次の球でセンターに大きな当たりが飛んだ。
中堅・三島が追いつき、ジャンプ──グラブにかすったが、球はフェンス直撃。
ランナー生還。先制点を奪われる。
球児が帽子を深くかぶり直すのが見えた。
石原はノートに、赤線でこう記した。
「五回裏、フォークで勝負したのは“正しかったか”?」
そして、次のページの端にこう書いた。
「結果は最小失点。“1点”で終わらせたのは、みんなの守備と、球児の制球だ」
「俺の選択は完璧じゃなかった。でも、完璧な守りに変えてくれたのはチームだった」
試合後。
球児が水を飲みながらベンチに腰を下ろしたとき、石原はそっと声をかけた。
「……悪かったな、あのフォーク。あれ、俺の賭けだった」
球児は、タオルを首にかけたまま、静かに笑った。
「いいんじゃねえの。抑えるために投げてるんだろ? 俺も、止めるために投げてた」
そして、短く拳を合わせた。
何も言わずとも、通じていると思った。
その夜。
石原はノートの隅に、鉛筆でこう記した。
「ナイスピッチじゃねえ。ナイスチームだ、俺たちは」
■
五回裏──。
強豪・東都学院に、ついに一点を奪われたその瞬間。
飯塚和哉は、ベンチの端でスコアブックを見つめたまま、鉛筆の動きを止めていた。
「……記入、できねぇ」
打順、打点、出塁方式。いつもなら無意識に書き込めていた項目が、今日ばかりは空欄のままだった。
その一点が、ただの“一点”じゃないことは、彼自身が一番よくわかっていた。
「失点がどうとかじゃなくて……あれは、“崩されかけた”点なんだよな」
マウンドの球児は、ぎりぎりの集中でそれ以上を許さなかった。
だけど、あの回の守備──特に小野寺のあのダイブがなければ、きっともう一点、いやもっと取られていた。
「書けないのは、データが足りないからじゃない。感情が邪魔するからだ」
飯塚はそう思った。
「五回、裏。一死、三塁。ショートゴロ、間一髪セーフ。一点。次打者、三塁ゴロ、ダイビングキャッチ」
事実だけを書き並べれば、スコアとしては単純だ。
でも、実際の“試合”は、紙と数字じゃ足りないくらいの緊張と葛藤で満ちていた。
飯塚はそっと鉛筆を置いた。
ふと横を見ると、千紗が黙って、両手で手帳を抱え込むように握っていた。
彼女もまた、なにかを「記すこと」に迷っているようだった。
ベンチに戻ってきた球児は、タオルで汗を拭きながら、飯塚の横を通った。
「ナイスカバー、小野寺……助けられたな」
独り言のようなその言葉に、飯塚の手がようやく動き出す。
「五回裏 失点:1」
書きながら、飯塚は欄外に小さく鉛筆を走らせた。
“崩れなかった。崩させなかった”
そう書いて、最後に大きく丸で囲んだ。
後日、誰かに見られてもいいような、でも少しだけ恥ずかしいような。
そんな余白の言葉だった。
「スコア係ってのは、試合の“全部”を記録できない。でも、だからこそ“伝えたい一言”があるんだよな」
鉛筆を置いたあと、飯塚はスコアブックのページを軽く撫でた。
そして、小さくこうつぶやいた。
「空欄が残るって、負けたわけじゃない。むしろ、そこが“心が動いた瞬間”なんだよ」
試合はまだ終わっていない。
けれど、この五回の1ページだけは、彼にとって“決して忘れない一回”として、胸の奥に刻まれていた。
■
今日は、風が強い。
だけど、あの人の背中は、揺れていなかった。
決勝の相手は、東都学院。
風祭くんが、前にいた学校。
試合が始まってから、なんだかずっと緊張してる。選手じゃないのに、息が詰まるくらい。
3回、4回……お互いに点が入らなくて、でも、風祭くんがマウンドに立ってると、不思議と「きっと大丈夫」って思えてた。
それでも――5回裏。
点が、入った。
東都学院に、先制されてしまった。
観客席のざわめき。ベンチの静けさ。
私はスコアブックの記録欄に、「1」を書き込む手が、ちょっとだけ震えた。
……だけど、風祭くんは、前を向いていた。
マウンドの上で、背筋を伸ばして。
捕球のたびに、ひとつひとつ深呼吸して。
まるで、「ここからが勝負だ」って、自分に言い聞かせているみたいだった。
そして。
三島先輩が、飛んだ。
信じられないくらい遠くに跳んで、あの打球を止めて。
スライディングで体を汚して、でも笑って起き上がった。
その瞬間、グラウンドの空気が、変わった気がした。
「負けてない」って、みんなが思い出したみたいだった。
風祭くんが、ベンチに戻ってくるとき。
誰より先に手を差し伸べたのは石原くんで、
それに一番に声を重ねたのが三島先輩で、
みんなが、「ここからだ」って顔をしていた。
……私も、負けちゃだめだ。
怖がっちゃ、だめなんだ。
だから、今日の観察記録には、こう書いておく。
---
「風祭くん、点を取られたけど、背中は折れてなかった」
「小野寺君、飛んだあと、すっごく誇らしそうだった」
「石原くんのサインは、“信じてる”って言ってた」
「私は、ちゃんとこの1ページ、全部覚えておく」
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空はまだ、明るい。
試合は、続いてる。
風も、まだ吹いてる。
でもきっと、次は――こっちの番だ。
千紗




