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第3話:背番号を背負わないエース

 夜のグラウンドは、しんと静まり返っていた。

 校舎の窓はすべて暗く、照明塔もとうに落とされている。

 けれど月明かりだけは、やさしく土を照らしていた。


 その中に、一人だけ人影があった。


 風祭球児は、無言でスコップを握っていた。

 足元のマウンドは、ひび割れと傾きが目立つ。

 盛り上がりは左右でバランスを失い、投手板の手前には雨水が溜まった跡があった。


 彼は黙々と、土を掘り、削り、均していた。


 ──こんな時間に、誰に頼まれたわけでもない。


 でも、気づいたらグラウンドに立っていた。


「……ここ、マウンドって言えるのかよ」


 ひとりごとのようにぼやきながら、球児はスコップを置いてしゃがみ込んだ。

 手で直接、土を掴む。乾いていて、ザラザラと指先をかすめる。

 その感触に、昔の記憶がよみがえる。


 あの日も、夜だった。


 強豪校で、仲間と口を利かなくなった頃。

 誰よりも早く練習に来て、誰よりも遅くグラウンドを離れていた。

 でも、誰も褒めてくれなかった。

 むしろ「出しゃばるな」と冷ややかな視線が突き刺さった。


「……バカだな、俺」


 ぽつりとつぶやき、球児はマウンドに腰を下ろす。

 冷たい夜風が、汗ばんだ首筋をなでていく。


 空を見上げると、星がにじんでいた。

 球速も、フォークも、称賛も、今は何の意味もない。

 ここにはただ、歪んだマウンドと、自分だけ。


 けれど、なぜか心が少しだけ、軽かった。


 手にしたトンボで、投手板まわりを整える。

 少しずつ、ゆっくりと、確かめるように。


 ──これが、グラウンドと向き合うってことか。


 そのとき、遠くから夜風が通り過ぎた。

 まるで「それでいい」と囁くように、優しく吹いた。


 球児は小さく笑った。


「……ま、いいか。どうせ誰も見ちゃいねえ」


 けれど月は、ちゃんと見ていた。

 新しい“風”が、止まったマウンドを動かし始めたことを。


 午後七時。校門が閉まる少し前。

 体育倉庫の鍵を返しに事務室へ向かおうとしていた千紗は、ふとグラウンドの方を振り返った。


 暮れなずむ空の下、灯りも落ちた校庭に、ひとつだけ人影があった。


 ──風祭球児。


 彼は、ひとりマウンドに立っていた。


 誰もいないはずのその場所で、整備道具を手に土をならし、雑草を抜き、マウンドの傾きを直していた。


 千紗は思わず、倉庫の陰に身を寄せた。

 声をかけようかと迷った。でも──なぜか、その背中を壊したくなかった。


 彼は無言だった。

 汗を拭きもせず、ただ黙々と作業していた。

 トンボを滑らせるその動きは、まるで儀式のように丁寧で、静かで、切実だった。


(ああ……この人、ほんとはすごく、野球が好きなんだ)


 それが、なぜだかすごく胸に迫った。

 部員たちの前では一歩引いて、余計なことは言わず、あくまで“観察者”でいるように見えていた彼。

 でも今、誰も見ていないはずの場所で、こんなふうにグラウンドに触れている。


 その手つきは、投手そのものだった。


 やがて彼は、ボールを手に取り、ゆっくりと構えの姿勢に入った。

 フォームは、美しかった。淀みなく、迷いなく──でも、どこか切ない。


 千紗は、そっと胸元を押さえた。

 なんだろう。胸が、じんとした。


 その姿は、兄と重なった。


 怪我をする前の隼人も、こうやって夕暮れに黙って投げていた。

 チームが帰った後でも、ひとりグラウンドに残って。

 泥だらけで、ユニフォームが破けても、黙って投げていた。


 風祭球児も、きっと何かを背負っている。

 投げる理由を、誰にも見せず、ただ自分の中で確かめている。


 千紗は、声をかけなかった。

 代わりに、倉庫の陰からそっと小さく呟いた。


「……ありがとう。マウンド、喜んでる」


 それから、ゆっくりと踵を返して歩き出す。


 明日になっても、球児はきっと言わないだろう。

 自分が何をしたか、なぜあの時間を選んだのか。

 でも、それでいい。


 彼はまだ背番号を背負わない。


 土曜日の朝。春の日差しがグラウンドを照らしていた。

 とはいえ、草むらはまだ元気で、トンボをかけた跡も薄い。

 そんなグラウンドに、千紗が元気よくボードを掲げる。


「はいっ! 本日から本格的に、練習再開します!」


 部員たちは、半分眠そうな顔で並んでいた。

 三島はやる気にあふれていたが、他の数人はすでに汗だく。

 準備運動の段階で、全員の動きがバラバラだった。


「まずはランニング、三周! そのあとキャッチボール、ノック、そしてダッシュ! ね、風祭くん!」


「……ああ。無理すんなよ。フォーム崩れると怪我する」


 球児はベンチ横に立って、静かに見守っていた。

 自身はジャージ姿でスパイクも履いていない。

 千紗の作ったメニューを見ながら、時折アドバイスを送る。


「三島、グラブ上げすぎ。肘をもう少し下げて構えろ」

「前田、そのステップじゃバランス取れない。膝の向き意識しろ」


 その声は、的確で無駄がない。

 現役のコーチかと思うほどの指導だったが、本人はあくまで“プレイヤー”ではなかった。


「なんで球児くんはやらないの?」

 練習の合間、千紗が素朴な疑問を口にする。


「……今はまだ、見てるだけでいい」


 その答えに、千紗は深くは聞かなかった。

 ただ、少しだけ視線を逸らして、麦茶の入った水筒を取り出した。


「じゃあ、せめてこれ、飲んで。今朝、家で淹れてきたやつ」


 球児は戸惑いながらも、ふたを開けて一口飲んだ。

 ほんのり甘く、でもさっぱりとした冷たさが喉を通っていく。


「……うまい」


 その一言に、千紗がふわっと笑った。


「よかった。これ、兄が練習のときに好きだった味なの。……ちょっと懐かしいでしょ?」


 球児は何も言わず、静かに麦茶のカップを握った。


 夕方、練習が終わったあと、部員たちはぞろぞろと帰っていった。

 千紗も後片付けを終え、体育倉庫に荷物を運んでいく。


 そのとき、ふと振り返ると──グラウンドの端に、まだ一人だけ残っていた。


 球児だった。


 彼は、無言で遠投をしていた。

 フォームは滑らかで、美しい。

 けれど、誰に見せるでもなく、ただひたすら、ボールを放り続けていた。


 ──誰のためでもない。誰にも見られなくてもいい。


 その背中が、どこか痛々しくて、それでも誇らしくて。


 千紗は何も声をかけなかった。

 荷物を持ったまま、そっと背を向けて歩き出す。

 振り返らずとも、風の中に球児の“想い”があることだけは、確かに感じていた。


 まだ、背番号はない。

 でも、そこには間違いなく、“エース”がいた。


 夕暮れのグラウンドに、風が吹いていた。

 西の空が茜色に染まり、マウンドの影がゆっくり伸びていく。


 その真ん中に、ひとりの少年が立っていた。

 風祭球児。

 誰も見ていないはずの場所で、彼はボールを握っていた。


 ──ああ、やっぱり。ここが落ち着く。


 誰かと話すより、誰かに笑われるより、

 こうして黙って、ボールを持ってる方がずっといい。

 ただ土と、風と、遠くのフェンスだけを見ていれば、それでいい。


(……背番号、か)


 あの“1”が、ずっと重かった。

 才能があるって言われてた。エースだって呼ばれてた。

 でも、あの番号を背負った途端、誰もが俺を“完成品”だと思った。


 投げて当然、勝って当然。

 フォームを変える自由もなければ、疲れてる素振りも許されなかった。


(あのとき、ひとりになった気がした)


 ベンチで笑ってる仲間たちを横目に、黙ってグラブを磨いた。

 監督は褒めなかった。ただ黙って、次の試合の準備を促すだけだった。


(俺は、何のために投げてたんだっけ)


 最初は、野球が好きだった。

 ただキャッチボールが楽しくて、ボールが沈んでくのが面白くて。

 でもいつの間にか、「好き」が「義務」に変わった。


 勝つために。背負うために。

 あの背番号のために。


(……そんなもんのために、投げたくない)


 球児はゆっくりとボールを握り直す。

 右手の指が、フォークの形に自然と馴染む。

 無意識に、肩が構えを取る。


(でも)


 頭をよぎったのは、今日の練習で汗まみれになっていた三島の姿。

 笑いながらキャッチボールしていた、あの不器用な部員たち。

 そして、麦茶を差し出した千紗の、あの笑顔。


(……悪くなかったな)


 勝たなくても、怒られなくても、ただ「野球が楽しい」と言ってくれる人がいた。

 その感覚が、なんだか少し、懐かしかった。


(もう一回だけ……投げてもいいかもしれない)


 誰かのためでも、何かを背負うためでもなく。

 自分の“好きだった気持ち”を、少しずつ取り戻すために。


 球児は、静かに構えた。

 誰もいないマウンド。誰にも届かない投球フォーム。

 けれど、それは彼にとっての、確かな再出発だった。


 ──あの日、置き去りにした“好き”を、もう一度だけ信じてみよう。




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