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第2話:七人目の男と、止まったままのグラウンド

 午後の陽射しが、土のグラウンドを柔らかく照らしていた。

 だがその土は、決して「整備されたもの」ではなかった。


 ファウルラインはかすれて見えず、ベースの一つは土に埋もれかけている。

 ホームベースの裏手には雑草が伸び、バックネットにはボールの跡ではなく、錆びた雨染みが残っていた。


 その光景を、球児はフェンス越しにじっと眺めていた。


「……ここ、使われてるのか?」


「んー、いちおう“野球部”って名目で登録はあるから。

 でもちゃんと整備してるの、私と三島くんぐらいかなあ」


 背後から、そう言って現れたのは千紗だった。

 制服のままなのに、手にはトンボとブラシ。

 その姿は、どこか野球少年のようにも見える。


「グラウンドってさ、意外と、生き物みたいなとこあるんだよ」


 千紗はトンボを抱えながら、砂ぼこりの舞うマウンドに目をやった。


「ちゃんとならしてあげないと、すぐ怒る。ぬかるんだり、石跳ねたり。

 でも、放っとくともっと拗ねる。草ぼうぼうになって、“誰も見てくれなかった”って顔するの」


 冗談めかして言ったその言葉に、球児はほんの少しだけ、笑った。


「……へえ。グラウンドにも、すねる心があるんだな」


「あるよ。私、なんか分かるんだ。……だってさ、ここって、ちょっと寂しそうでしょ?」


 千紗の声には、不思議なあたたかさと、ちょっとした哀しみが混ざっていた。

 彼女にとって、ここはただの放置された校庭じゃなかった。

 誰も見てくれなかった場所を、少しでも輝かせたいという思いが、そこにあった。

 

 夏見千紗には、兄がいた。

 名前は夏見隼人はやと

 彼はかつて、桜が丘高校のエースだった。


 といっても、甲子園常連のような名声があったわけではない。

 むしろ真逆。どれだけ練習しても、一勝すらできなかった。

 練習試合でボロ負けし、本戦では初戦敗退が当たり前。

 そのたびに、エースである隼人のせいにされた。


 投げては打たれ、打っても味方のエラーに泣いた。

 それでも彼は、バカがつくほど明るく笑っていた。


「俺さ、負けても、野球好きなんだよなー。

 ……ほら、千紗もキャッチボール付き合ってよ!」


 幼い千紗にグローブを投げて、夕焼けのグラウンドでずっとボールを投げていた。

 あの日々は、千紗にとって“兄”であり“ヒーロー”であり、何より“野球”そのものだった。


 ──だが、隼人の三年の夏、そのすべては終わった。


 夏の県予選一回戦、相手は全国経験もある私立の強豪校。

 序盤から大量失点を許し、隼人は五回途中で降板。

 その直後、仲間のエラーでさらに点が入った。


 ベンチ裏。隼人の肩はすでに悲鳴を上げていた。

 アイシングの氷が溶けても、痛みは引かない。

 それでも彼は、交代を申し出ず、最後のバッターとして打席に立った。


 バットを振った瞬間、右肩からバキ、と小さな音がした。

 それは千紗の耳にも届いていた。


 試合後、彼は笑っていた。


「いやー、力入りすぎた! あはは、情けないなー!」


 だがその翌日、医師に告げられたのは、

 「右肩の腱が切れている」「投球フォームの癖が限界を超えていた」という診断だった。


 もう、二度と、投げられない。


 その夜、兄は野球道具一式を黙って処分した。

 グローブも、スパイクも、ユニフォームも、全部。


 千紗は声をかけられなかった。

 兄の背中があまりにも、静かすぎたから。


 その日から、兄は野球の話を一切しなくなった。

 まるで、その言葉ごと封印するように。


 大学に進学しても、野球には一度も触れなかった。

 テレビで中継が流れていても、画面を見ようとしなかった。


 千紗が野球部のマネージャーになると言ったとき、兄はただ一言だけ言った。


「……そうか。お前は、強くていいな」


 それが、最後の会話だった。


 兄は今、県外の専門学校で学びながら一人暮らしをしている。

 連絡はときどき来るが、そこに“野球”の文字はない。


 けれど千紗は、あの日の兄の笑顔を、まだ忘れていない。

 負けても、怒られても、泥だらけでも、野球が好きだった兄のことを。


 だから──


 彼女は今も、誰も見ていないグラウンドに立つ。

 壊れかけのマウンドに手を伸ばす。

 そして信じている。

 兄の好きだったものを、今度は自分が守ってみせると。


 「だからね、球児くん」


 夕暮れのベンチで、千紗は言った。


 「うちのグラウンドは、ちょっと重たい想いを抱えてるんだよ。

  でも、それを軽くしてくれる風が……来てくれる気がしたの。君みたいな」


 風祭球児は、黙って夕空を見上げていた。

 何も答えなかったが、千紗にはわかった。


 彼もまた、何かを背負っている人間だということを。



「昔は、もう少し賑やかだったんだよ。

 三年生が七人いて、練習試合もたまに組めてて。……でも、負け続けて、だんだん辞めてっちゃって」


 球児は、何も言わなかった。

 ただ、指でフェンスのさびた部分をなぞるように触れた。


 ──この錆も、グラウンドの一部か。


「でも、私、ここ好きなんだよね。誰も見てないから、恥かいてもいいし、転んでも怒られないし」


「……勝たなくても、いいのか?」


 球児の問いに、千紗は小さく首をかしげた。


「勝ちたいよ? そりゃもちろん。甲子園とか、夢だし。

 でも、“勝つためだけ”って空気が苦しくて、私、それで兄も壊れちゃったから……」


 そこまで言って、千紗はふと笑った。


「でも球児くんが来たら、少しずつ変わるかもね。

 このグラウンドも、機嫌直してくれるかも」


「俺ひとりで変わるほど、軽い場所じゃないだろ」


「でも、あなたは“風”だから。グラウンドの空気を動かすには、ちょうどいいでしょ?」


 何気ないその言葉に、球児は少しだけ目を見張った。

 ──風。風祭。風が吹いて、止まっていた何かが揺れる。


 彼はゆっくりと、フェンス越しにグラウンドを見渡した。


「……なら、ちょっとだけ風起こしてみるか。そよ風ぐらいは」


 千紗がパッと笑顔を咲かせた。


「そよ風でも、土ぼこりぐらいは舞い上がるよ!」


 二人の前に広がるグラウンドは、まだまだ荒れていた。

 けれど、その向こうに、ほんの少しだけ、未来の夏の匂いが混じっていた。

 

 改めてグラウンドの中に足を踏み入れた球児。

「……ここ、ほんとに野球部?」


 思わず漏らした球児の声に、横にいたマネージャーの千紗が笑った。


「うん。名簿上はね。でも、見た目じゃわかんないでしょ? 意外と中身は熱いんだよ」


 そう言って千紗が手を振ると、三人の生徒がグラウンドの隅から集まってきた。

 キャッチボールをしていたようだが、そのフォームはまるで小学生。

 腰は引け、グラブの構えもふらついている。


「やっべ、ボールそっち飛んだ!」「いたっ、肩に当たった!」「謝る前に取れって!」


 どこからどう見ても、甲子園どころか県大会の一回戦すら遠そうな面々だった。


「おーい、三島くんー! 新しい仲間だよー!」


 千紗の声に応えたのは、一際がっしりとした体格の男子だった。

 首にはタオル、肩は丸く広く、顔には泥。

 見た目は頼りがいのある“ザ・主将”そのものだった。


「おっす。三島大地。キャプテンやってます。ポジションは……まあ、ファースト?」


 曖昧な語尾に、球児は少しだけ眉をひそめた。


「ポジション、あんまり決まってないんだ?」


「だって、メンバー少ないし。守れるとこ全部やんなきゃ間に合わなくてさ。

 でも俺、一応一番飛ばせるんだぜ。バッティングセンターでだけど!」


 屈託のない笑顔に、球児は小さくため息をついた。

 だが、どこか嫌いになれない空気だった。


「で、君はピッチャーなんだって? どんな感じなの?」


 三島に促され、球児は渋々マウンドへと足を運ぶ。


「一球だけな」


 手にしたボールは少し泥がついていたが、それすらも気にならなかった。

 右足を上げ、軽く体をひねり、球児はフォークボールを投じた。


 シュッ。


 音もなく吸い込まれるように沈んだ球に、キャッチャー役の生徒はまったく反応できなかった。


「な……なに今の!?」「見えなかった……」「ってか沈んだ!?」「落ちた!?」


 グラウンドが一瞬騒然とした。


 だが球児は何も言わず、土を払いながらベンチに戻る。


「すごいじゃん! ねえ、球児くんもレギュラーになろうよ! 夏、目指そうよ!」


 三島が嬉しそうに言ったその瞬間、球児ははっきりと答えた。


「……俺、試合に出るつもりはないから」


 空気が、一瞬だけ止まる。


「俺は……そういうの、もう十分やったし。ここじゃただの見学だ」


 三島は驚いた顔をしたが、すぐに苦笑いを浮かべた。


「そっか。いや、でもさ……君がいてくれるだけで、少し夢が近くなる気がするよ」


 その言葉に、球児は思わず視線を向けた。


 冗談でも、皮肉でもなかった。

 本気で、そう思ってくれている眼差しだった。


「……夢ね」


 ベンチの上に落ちた桜の花びらを指で弾きながら、球児は空を見上げた。


 止まったままだったグラウンド。

 でも、その中心に立つ“七人目”の存在が、ゆっくりと歯車を回し始めていた。

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