第1話:転校生・風祭球児、桜が丘へ
四月の朝、桜が丘高校の正門には春風が吹いていた。満開の桜が、門出を祝うように花びらを舞わせている。
その中を、一人の少年が静かに歩みを進めていた。
風祭球児──十五歳にして身長は一八〇センチ、がっしりとした肩幅に長い脚。制服の上からでも分かる鍛えられた体。無言の転校生。
かつて甲子園常連校・県北高校のエースとして知られた天才投手だった。
今ではその面影を少しだけ隠すように、桜の舞う通学路を歩いていた。
制服に身を包んだその姿は凛として見えるが、内心は決して穏やかではない。
足音に混じるように、校門付近の生徒たちの囁きが聞こえてくる。
「……あれ、新入生? え、うそ、三年に転校してきたって……」
「見た? あの人、完全にモデル体型だよね」
「違うよ、あれ、風祭球児だよ。元・名門の県北高校のエースって噂……」
名前だけは、なぜか知れ渡っていた。
知らないふりをしながら、球児はただ前を向いて歩いた。
その目は遠くを見据えているようで、どこか空っぽだった。
──また一からか。
あの名門校での出来事。父との確執。潰された夢と、押しつけられた期待。
「もういい」と思ったはずなのに、こうして再び野球部のある高校を選んでしまった自分。
無意識に握った右手が、少しだけ震えていた。
昇降口に着き、無言で靴を履き替える。ふと視線を上げれば、春の光に照らされた廊下が続いている。
教室までの道のりが、まるでグラウンドへ続くベンチ裏のトンネルのように感じられた。
教室の前に立ち、扉に手をかける。
その瞬間、ほんのわずかに躊躇があった。
扉の向こうには、新しい日常と、また新しい人間関係が待っている。
けれど彼は、自分で決めたのだ。
ここで、何かを取り戻すと。
ドアを開けた瞬間、ざわめきが走った。
誰かが息を呑み、誰かが目を丸くする。
担任の紹介が終わるよりも先に、その名は教室内に静かな波紋を広げていた。
──「また、今日から新しい場所か」
野球を捨てたわけじゃない。だが、あの日から心のどこかに穴が空いたままだった。
クラスの自己紹介は、淡々と終わった。
「風祭球児です。よろしくお願いします」
その声に、男子の一人が小声でつぶやく。
「やっぱ、あの風祭か……甲子園常連のエースが、なんでウチなんかに……」
それは球児自身が、一番よく分かっていた。強豪校の誇りだった自分が、なぜ野球部のない学校──いや、野球部が“名簿上だけ存在する”ような桜が丘にいるのか。理由は簡単だ。
――逃げたのだ。あのチームの空気から。父親から。自分自身から。
*
「で、君が……転校生の風祭くんだね!」
昼休み、野球部の部室に呼ばれた球児を出迎えたのは、一人の少女だった。
セミロングの黒髪に、どこかボーイッシュな印象を纏った美人。制服の下にスポーツ用のインナーを重ねて着ており、動きやすそうなスニーカーを履いている。
「私、野球部マネージャーの夏見千紗って言います! よろしく!」
「……マネージャーが、ひとりだけ?」
「うん、だって……部員が六人しかいないから」
球児は絶句した。最低でも九人いなければ試合もできない。今の状態じゃ、チームとしてすら成立していない。
「……野球、好きなんですか?」
「はい。大好きです!」
即答だった。
その瞳には、まっすぐな光が宿っていた。元・名門校で重苦しい空気に押し潰されていた球児には、その明るさが、少しだけ眩しかった。
「でも、君が来てくれたなら、七人! あと二人、探せば、夏の予選に間に合うかもって!」
球児はふと笑ってしまった。あまりにも無茶苦茶だ。けれど、何だろう。ここでなら、少しずつ前に進めるかもしれない。
そんな予感がした。
「俺……投手、だけど。フォークとストレートが武器。あんまり、いいやつじゃないけど」
千紗の目が丸くなった。
「えっ、フォーク? しかもストレートも……え、え? もしかして……風祭球児って、“あの”風祭球児!?」
ようやく気づいたか、という顔をして球児は軽くうなずいた。
「……なんで、うちの学校なんかに?」
その問いに、球児は少しだけ黙った。
そしてぽつりとつぶやく。
「まあ、いろいろあってさ。今は、ちょっとだけ野球と距離置いてる。でも──」
その瞬間、遠くから吹いた風が、グラウンドの土の匂いを運んできた。
球児は、ゆっくりと右手を開いた。久しぶりに、風を受ける“投げる手”が少しだけ震えていた。
「……本気で、もう一度マウンドに立てる場所があるなら。ちょっとだけ……見てみてもいいかなって、思ってる」
千紗は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ようこそ──桜が丘高校野球部へ!」
まだ桜は咲いていた。散るには、少し早い。その日、風祭球児はもう一度、野球と向き合う決意を胸に抱いた。
───
夜のリビングに、テレビの音だけが響いていた。
プロ野球中継の解説がテンポよく流れ、実況が歓声にかき消される。
その画面を、風祭剛はじっと睨みつけていた。まるで、そこにかつての自分が映っているかのように。
テーブルの上には空になった缶ビールが二本。
口には出さないが、剛にとって野球とは、いまだ手放せない夢の亡霊だった。
その隣で、球児は静かに問題集を開いていた。
テレビに目を向けることはない。もう慣れていた。
父がプロを挫折し、二軍止まりで引退した過去を──。
「おい、球児」
「……なに」
「今のピッチャー、どう見えた?」
「アウトローのストレート、ちょっと抜けてた。コントロール甘い。
あれならスライダーで仕留めたほうがいい」
そう言うと、剛はふっと笑った。
「そうだ。だからお前は天才なんだ。俺の血を引いてる。お前なら、俺の届かなかった場所に──」
そこまで聞いて、球児はそっとシャーペンを置いた。
このやり取りも、もう何度目だろう。
「俺の夢を、お前が叶えろ」
それが剛の口癖だった。少年時代には嬉しかったその言葉も、今では胸を締めつける鎖のようだった。
「……俺は、俺のために野球やってるわけじゃない」
低く、でもはっきりと球児は言った。
「プロに行きたいとも思ってないし、背番号1が欲しいとも、最近は……思えないんだ」
剛の顔が、はっきりと曇った。
かつて、夢のためにすべてを賭けて、それでも届かなかった男の、絶望が顔に滲んでいた。
「甘えるな。逃げるな。お前には才能があるんだ。
才能のあるやつは、勝って、登って、報いなきゃいけない。負けた俺たちの分まで──!」
「それが一番……重いって言ってんだよ」
球児の声が、静かに父を切り裂いた。
その夜、二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。
そして数日後、球児は黙って転校を決めた。
「父さんと話すのが怖かったわけじゃない。
でも、あの家で、あの背中を見ながら野球を続けるのは……もう無理だった」
彼が桜が丘高校の門をくぐった日、父は何も言わなかった。
ただ、新聞のスポーツ欄を読むふりをして、息子の靴音を聞いていた。
──今もたぶん、父はリビングで野球中継を見ている。
ただ一人で、叶わなかった夢を眺めながら。
息子が、もう一度マウンドに立とうとしていることを、
まだ知らないままで。
**はじめに読者の皆さまへ**
(※この作品は「ほっこり・じんわり大賞」にエントリー中です)
ようこそお越しくださいました。
このページに迷い込んだあなたは、きっと「青春」とか「ほっこり」とか「じんわり」とか「野球ってよくわかんないけど雰囲気は好き」みたいなキーワードに引き寄せられた、そんな運命の読者さまに違いありません。
この物語、『夏空フォークボール』は、155キロの速球を投げる“訳あり転校生”の風祭球児くんと、ちょっとお節介でめちゃくちゃ野球に熱いマネージャー・夏見千紗さんが、
ボロボロのグラウンドと夢破れた背中たちを、じんわり、ほっこりと立て直していく青春物語です。
ただのスポ根ではありません。
血も涙も汗も流しますが、それより何より、
“黙ってマウンドを直す”ような、
“夕暮れに麦茶を差し出す”ような、
“ボールが落ちる音に感情が重なる”ような、
そんな地味だけど確かに心に残る“やさしい一球”を込めた物語を目指しています。
そして、実はこの作品、現在──
\\【アルファポリス ほっこり・じんわり大賞】にエントリー中です!!//
「なんだその大賞!? じんわりするの!? ほっこりもしちゃうの!?」と思ったそこのあなた。
そう、まさにその通り。
この賞は、激戦のバトルも、世界を救う魔法も、乙女が闇の呪文を解く展開もありません(たぶん)。
その代わり、「今日もちょっといい話読んだなぁ」と思える、
“心のストレッチ”みたいな物語たちが、のびのびと競い合っている場所なんです。
あなたの一票が、風祭くんたちの“夏”を照らす光になります。
グラウンドをならすスコップ一振りになるかもしれません。
あるいは、ベンチ裏でへたってる部員に「がんばれー!」と届ける、たったひと声の応援になるかもしれません。
もしこの作品を読んで、
「なんか、ちょっと好きかも」
「ちょっと応援してあげたいかも」
「麦茶、飲んでみたくなった」
そんな気持ちがほんの少しでも芽生えましたら、
どうか“応援ポチ”をひとつ、よろしくお願いいたします!
球児と千紗と、その仲間たちの小さな夏が、読者の皆さまの心にも、やさしく届きますように。
そして、今日のあなたが少しだけ“じんわり”できるように──。
感謝をこめて。
──作者より