〇月曜日 プロローグ
初夏の昼下がり、我が校、紀生館高校のグラウンドでは、どうやら女子サッカー部の県総体の試合が行われていた。
僕のクラスも例にもれず、試合の観戦に来ていた。金曜五限の数学の時間がつぶれてうれしいぞ。
グラウンドを駆ける選手たちを尻目に、自販機の横にある給水機で冷たい水を飲む。
万年帰宅部の僕、蜂須賀晴久には、グラウンドを駆ける少女たちがとてもまぶしく見える。
試合のために授業を自習にしてくれる先生に、応援するために暑い中、外に出てきてくれる友達。
この瞬間はきっと青春の一ページになるのだろう。
五月末だとはいえ、この暑さ。死人が出てもおかしくはない。
きっとこの水は、運動部員にとっての生命線なのだろう。そう思わせる美味さがある。
暑さで人工芝の地面が歪んで見える。
選手たちはもちろんだが、この暑さなら応援する生徒もやられてしまう。実際、試合を見ていた生徒の中には建物の中に入り、涼みに行っていた。
応援が強制でないことはありがたい。
よし。教室に戻って自習をしよう。
我が校の選手が点を決めたのを見て、教室に帰ることを決める。
後はきっと勝ってくれることだろう。
「蜂須賀、放課後に職員室に来てくれ」
教室に帰ろうと建物に入った途端、少しだらしのない声が僕の耳に届いた。
「七條先生、何か用ですか?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあってな。放課後のほうが都合がいいからあとできてくれ」
「わかりました」
すらりとした身長に、長い髪を束ねてキャップ帽をかぶっているこの先生は、俺の担任の七條先生だ。
現代文の先生で、『大人らしくない大人』とし生徒には大人気だが、正直俺は苦手だ。
なんというか、先生との会話は会話をしているというより、一方的な情報交換という方が正しい。
先生を前にすると、うまく言葉が出てこない。
先生と別れた後、僕は教室に向かい、鞄から本を取り出す。
僕は真面目だが、決して優等生ではない。
自習時間にほかの場所に行ってさぼっているわけではないため、教室で本を読むくらいは許されるだろう。
時代はやはり文字だ。
文明の発展のおかげで今日も物語を楽しめる。
本は、本の中の出来事を、文字を使ってパズルのように表すものだと俺は思っている。
その場面にあった、そこだけにしかあてはまらない言葉遣い。
読んでいて『それしかない!』と思わせる説得感がある。
読んでいて気持ちがいい。
「今日は先週買った能都先生の小説を読もう」
ライトノベルや漫画は家で読む文書だ。異論は認める。
グラウンドで青春のひと時を過ごす生徒とは裏腹に、涼しい教室で新しく買った本のページをめくった。
放課後、職員室を訪ねると、いつもの職員室と違い、少し涼しく感じた。
そうか、運動部の先生は部活動の引率があるのか。
運動部が強い紀生館高校では総体シーズンは毎年先生の数が減ってしまうようだ。
「来てもらって悪いな蜂須賀」
「大丈夫ですよ。それより俺、なにも悪いことはしていないと思うんですけど」
「一言目でその文言を言うやつは碌な奴じゃないんだぜ。気を付けな」
予想していた言葉とは大きく外れてしまい、少しうろたえてしまう。
だがこれは忠告というより、からかいも入っているとわかったため、素直にうなずくだけに留める。
「それより蜂須賀、お前部活は入ってないよな?」
「まあそうですね」
僕がそう言うと、手元の動きを止めた先生と目が合う。
数秒時が止まったかのように見つめ合って―― そして、先生の口元が歪む。
――先生と生徒は、違う人間だ。
生徒にとって先生は遠い存在で、今この瞬間も見えない境界線が存在している。
互いに踏み込まない、踏み込ませない。
これが普通だ。そうあるべきだ。
なのに、この先生は一つの境界線を土足で破り、踏み込ませるような引力を感じるときがある。
今この瞬間、七條先生は学校にいる誰よりも身近な存在に感じる。いや、感じさせてしまう力があるのだ。
にやりと笑う七條先生は、いつものけだるげで大人っぽい雰囲気とは違い、やけに仕草が子供らしい。
ああ、悔しい。この人が人気な理由が分かってしまう気がする。
机の上にだされている紙は、もしかして僕に渡す用なのか。
僕は、他人の手で変わってしまう人生なんて望んでいない。
だけど、僕にはわかる。
きっとこの紙一つで僕の中の何かが変わってしまうだろう。
机に置いていた紙を僕の目の前に差し出して、先生は楽しそうにこう言った。
「人間心理部に、いや『部室部』に入部しないか!」
……ああ、やっぱり苦手だ。