下肥問屋
えー。最近のトイレはすごいものですな。先日、ホテルに泊まりましたら便座のふたが自動的に開くトイレに出会いまして、びっくりしたものです。これがまた、私が離れると自動的に閉まる優れ物で。私、思わずそこで開けたり閉めたりして、まあ、大人げないんですが、楽しんでしまいました。思えば、一昔前など何処の家庭もぼっとん便所で、バキュームカーで吸っていたものです。もう見かけませんな。バキュームカー。とは言え、もう少し時間をさかのぼり、江戸時代などではもちろんバキュームカーなどありませんで、下肥問屋という職種がございました。この下肥問屋と言うものは長屋の家主や商家から下肥、いわゆる人糞を買って、農家に売って生計を立てるといった職業でありました。
下肥問屋 :長屋の旦那!すんませえ!長屋の旦那!すんませえ!
長屋の旦那:(鼻をつまんで)なんだい、なんだい。騒々しいね。そんな大声出さないでも聞こえてるよ。悪いが、今日はもうさらう物なんてないよ。
下肥問屋 :いえ、そうでないんでさぁ。今日は旦那に相談があって来たんでさぁ。
長屋の旦那:(鼻をつまんで)相談?・・・金の工面なら出来ないよ。
下肥問屋 :いえ、今日は金の相談では無いんでさぁ。今日はあっしの息子の事の相談で。
長屋の旦那:(鼻をつまんで)へえ、お前さん息子がいたのかい?今幾つだい?
下肥問屋 :へぇ、今ちょうど八つでさぁ。それで、その息子の事でなんですがね。先日、近所のガキどもにいじめられたみたいなんでさぁ。
長屋の旦那:(鼻をつまんで)ほお、それは親としては気になるね。
下肥問屋 :そうなんでさぁ。理由が、その、あっしがこんな仕事しているからやれ臭いだのやれ汚いだのと。
長屋の旦那:(鼻をつまんで)へぇ、それは不憫だね。
下肥問屋 :そうなんでさぁ。(ゆっくりと上目遣いで長屋の旦那を睨む)
長屋の旦那:(ばつの悪そうにゆっくりと手を鼻から離す。クンクンと鼻を鳴らし、顔をしかめる)それで私に息子にどうやって助言したらいいかって相談に来たのかい?
下肥問屋 :いえ、もう息子には『おとうはこの仕事に誇りを持っている。お前も誇りを持ちなさい』と言い聞かせてあるんでさぁ。けれど、やはり心配になるのが親心。何か息子がいじめられない方法があればと思い、相談に来たんでさぁ。
長屋の旦那:これまた難儀な相談だね。臭いもんは臭いし、汚いもんは汚い。子供は素直だ。そこを捻じ曲げるとなると・・・(たばこを一服)そうだな。こんなのはどうだい。仕事をしていりゃ嫌でも汚れる。だから仕事をしていない時は今以上に着飾ってきれいにしておくってのは?貧乏が貧乏被っても普通だが、金持ちが貧乏を被るってのは粋じゃないか。だから、貧乏人が金持ち被ったって粋に見えやしないかい?
下肥問屋 :なるほど、そんな手もありやしたか。しかし、今は手持ちがありやせん。馬子はあれども衣装がなくては、どうしようもありやせんぜ。旦那には悪いが、ちょっくら金貸してくれやせんか?
長屋の旦那:(深いため息)全く。どうしても金の工面に行く訳だ。貸せないものは貸せないよ。それじゃあ、こういうのはどうだい。今の下肥を売る値段を釣り上げたら・・・
下肥問屋 :そ、そんなことしたら他の下肥問屋が儲かるだけでさぁ!
長屋の旦那:話は最後までお聞きよ。全く忙しないねぇ。そりゃ、お前さん一人がやるだけなら具合悪いだろうさ。けれど、下肥問屋全員ですりゃ問題ないじゃないか。
下肥問屋 :下肥問屋全員ですかい?そりゃまた規模のでかい。あっしには到底思いつきませんや。やはり相談して良かったでさぁ。
とまあ、こんな会話が当時あったのかはさておき、今の時代、エコエコと声高に叫んでおりますが、金を払って回収しているものが金儲けになるなんて発想の転換と言いましょうか。どうにも信じがたい事ですな。エコロジーとエコノミー。この両天秤のバランスをとるのは非常に難しいですが、やはり継続的なエコロジーを確立するにはエコノミーも大切な訳です。けれど、何事においてもどちらかに傾き過ぎると不具合が起こるようで・・・
百姓 :すんませぇ。旦那いらっしゃいますか?
長屋の旦那:おう、なんだい?今日は何か取って置きでもあるのかい?
百姓 :いえ、今日は何も無いんで。
長屋の旦那:そうかい?それは残念だね。この前お前さんから買った芋、蒸かして食べたんだが、あれは絶品だったね。またあれば買うよ。
百姓 :それはありがとうございやす。けれど、もうあの芋、旦那に売る事は出来ないかもしれないんでさぁ。いや、芋だけじゃない。他の野菜やら何まで売る事が出来なくなるかもしれないんでさぁ。
長屋の旦那:ほう、何やら深刻そうだね。畑を猪やらに荒らされたかい?
百姓 :いえ、そうでないんでさぁ。旦那、今下肥の値が高くなっているの知ってやすか?
長屋の旦那:あ、ああ。何やら風の噂で聞いたこともあるな。
百姓 :そんなもんで下肥が高くて、作物作っても儲けがないんでさ。このままじゃどうしたものかと・・・
長屋の旦那:何かと大変そうだね。色々あるとは思うが頑張りなさい。私は何も助力できないが、応援しているよ。
百姓 :いや、旦那にも助力できる事があるんでさぁ。今日はその事でちょいと相談があって参りやしたんでさぁ。旦那、悪いんだが旦那のところの下肥、こっちに直接売ってはくれねぇだろうか?値は色をつけるから・・・大体この位の値で(そろばんをぱちぱち)
長屋の旦那:売ろう!今すぐ売ろう!早く売ろう!
百姓 :いや、旦那が話が分かる人でよかった。それでは金の用意が今できてやせんので、また改めて寄らせてもらいやす。
長屋の旦那:おう、待ってるよ。また来とくれ。(腰を浮かして、遠くを見送る)・・・へっへっへっ、何やらこれは金の臭いがするな。金は天下の回りもの。ようやく私のところにも回ってきたという訳か。へっへっへっ。
金に目がくらむとはまさにこの事でしょうな。まあ、欲にまみれてはろくな事はありません。長屋の旦那は味をしめ、農家と下肥問屋を競らして、どんどんと下肥の値が高くなっていきます。とうとう長屋の旦那でもどうしようもない日がやって来るのであります。
下肥問屋 :すんませぇ。旦那、いらっしゃいますか!旦那!
長屋の旦那:相変わらず騒々しいね。なんだい今度は。
下肥問屋 :それが旦那。下肥の値が上がり過ぎて、売るのも買うのもにっちもさっちもいかねぇんでさぁ。どうしやしょう。
長屋の旦那:どうしようと言われてもねぇ。その内治まるんじゃないのかい?
下肥問屋 :そんな無責任な。元はと言えば旦那の案なんです。聞き流さねぇでくだせぇ。
長屋の旦那:下の話だけに垂れ流しはできないってか。うまい事言うね。
下肥問屋 :旦那、ふざけないで下せぇ。こちとら生活がかかってるんでさぁ。
長屋の旦那:ああ、悪い悪い。そうだな、ここまで問題が膨れ上がると私にはどうしようもないな。
下肥問屋 :そんな。旦那はあっしに首をくくれと言うんですかい?(おいおいとなぎながら、切り替えて長屋の旦那をキッと睨む)
長屋の旦那:そ、そんな目で見るんじゃないよ。そうだ。お奉行様のところでも行くと良い。
下肥問屋 :お奉行様に相談?
長屋の旦那:ああ、安心してお奉行所に相談してみな。大丈夫。
下肥問屋 :何やら旦那、自信満々に見えやすな。お奉行様に相談したら何かあるんで?
長屋の旦那:ああ。下の話だけに、お上がケツを拭きなさるってな。
ペコリ。