09.弁護士の言い分
土井との電話を終えた結珠は、気分転換がてら、近所のスーパーへ買い物へ行くことにした。
お腹は空いているが、今から買い物へ行って作れば、少し早い時間になるがちょうど夕飯の時間になるだろう。
もう今日は日記のことは考えたくない。
一度キッチンに寄って、冷蔵庫の中身を確認する。ちょうど目についた食べかけのチョコレートを発見して、口に放り込む。
夕飯のメニューを考えて、結珠は家を出た。
結局その日は宣言通り何もせず、ただ夕飯を食べて風呂に入って早々に寝てしまった。
翌日も店は開けず、頭を空っぽにした状態で、昨日読むのをやめた日記を再び手に取った。
土井に会う前にある程度のことは把握しておいた方が良いだろう。
中途半端な知識のせいで、何度も面会するのはさすがに申し訳ない。
それにいくら混乱しているとはいえ、いずれちゃんと読まなければならない時が来るはずだ。
それであれは、早いに越したことはない。
大き目のマグカップにお気に入りの茶葉で紅茶を淹れてから、ソファに座って日記を読み始めた。
日記をざっと読んだ結珠は、約束通り再び都内の弁護士事務所へやってきた。
前回と同じ会議室へ通される。
「何度もご足労頂き、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ相談に乗って頂いてありがとうございます」
お互いに頭を下げあって、席に座る。
「さて、どうでしたか? 二日前から日記はどの程度お読みになられたのでしょうか」
「そんなにいっぱいは読んでいないんですけど、多分ある程度の知識は得たと思います」
「そうですか。では、単刀直入に私の方からご提案です。璃奈さん同様に、私と契約を結ぶのはいかがでしょうか」
やっぱりそういうことらしい。
結珠は身構えた。
「祖母の日記を読む限り、土井先生と契約するのが一番手っ取り早いと勧められています」
「……ある程度の勝手はわかっておりますからね。結珠さんと璃奈さんではご希望も多少は違ってくるでしょうが、お力にはなれると思います」
「……正直、混乱していてよくわかりません。あの家の儲けは……多分この社会では理解しづらく、管理もしにくいかと思います。それを今の制度に当て込んで管理するってこと……私には難しいんじゃないかなって思うんです」
結珠には、まだあちらの通貨の価値とこちらの通貨の価値の等価がわからない。
けれど、例えばこちらで一万円で設定した商品価格は、あちらでは十倍以上になるのは明らかである。
その差額をどうやって埋めればよいのかわからない。
もちろん目の前にいる土井はその差額を埋めるための相談に乗って、適正な管理方法と納税について考えてくれるのだろう。
社会人になって数年、税金について、会社が一括処理してくれていた結珠は言われた通りに年末頃に書類を書いて、必要な書類を用意して、期限までに会社へ提出しているだけで、全く仕組みなどわかっていない。
そもそも仕事を辞めて、フリーランスになってものん気に「お店がオープンしてから、どこか税理士事務所でも探そうかなー。お父さんに伝手はあるかな?」なんて考えていた。
それがこんなにも早く必要に迫られて準備しなくてはならなくなった。
祖母が信頼していた人たちとはいえ、何の知識もない結珠はこのまま不利益を被ることなく、過ごせるのかわからない。
警戒心を持ってしまうのは仕方がないことかもしれない。
だが、土井はそんなこともお見通しだったのだろう。
「結珠さん、その警戒心は大事にしてください。弁護士とて、人です。目の前に大金が積まれたら、狂う人間は必ずいます。でも私は璃奈さんから受けた恩をあなたに返したいと思っています」
「おばあちゃんから受けた恩……ですか?」
「ええ、お恥ずかしい話、私の父も弁護士だったんですが、とても人が良くて、報酬も貰わずに仕事を受けたり、騙されたり……弁護士としては少々難がある人でした」
土井はそのまま自分の話を続ける。
「私は父のようにはなりたくないと思ったにもかかわらず、結果的に父と同じように弁護士になろうとしていた。けれど、父のせいで大学の学費がままならなくなって……いよいよ諦めなければ……というときに、璃奈さんに出会いました」
土井曰く、祖母と父の契約が自分の将来を救ったのだという。
祖母との仕事でようやく金を得た父のおかげで、何とか大学を卒業し、弁護士になった。
そのあとすぐに父は事故に遭い、亡くなったのだという。
「……弁護士になっても、父の事務所を継いだせいで、同じように無報酬で仕事を依頼してくる人が絶えませんでした。私は事務所を畳んでイソ弁になるしかないと思っていたところに、璃奈さんが『私との仕事を最優先してくれれば、報酬金額を上げても良い』と言ってくださって。事務所は畳むことなく名前を変えて移転をして、私は事務所を立て直すことが出来たんです」
父親がそうしていたのだから、息子のお前も無報酬でやれ! と図々しい人間が父の事務所に押しかけて、何度か警察沙汰にもなったらしい。
せっかく一度立て直すことが出来たのに、また事務所は危うくなった。
そんなときに、祖母が再び土井に救いの手を差し伸べた。
よくよく聞くと、土井という名は父親の姓ではなく、母方の姓らしい。
父の没後に、土井は自分の母に願って姻族関係終了願を提出し、そこから母の姓を名乗るようにして、過去を断ち切ったらしい。
その際、祖母との契約は土井を非常に助けたという。
「璃奈さんとのお仕事は、私にとって破格の仕事でした。彼女がいたからこそ、今の私がある。けれど、その恩を返しきる前に、璃奈さんは亡くなられた。であれば、私は璃奈さんの財産を築いた家を相続した、孫のあなたに報いたいと思っています」
真剣な眼差しで、土井は結珠を見つめていた。そして頭を下げた。
「あなたに不利益なことはしません。何の効力もないかもしれませんが、誓約書を交わしてもいい。ですので、どうぞ私にあなたの……結珠さんの財産管理をお任せ頂けないでしょうか」
「……わかりました。お願いします」
反射的に答えていた。けれど、これほど真摯に訴えられては結珠も頷く以外なかったのだ。
まだ始まったばかりの結珠には、財産と呼べるものはない。
むしろ相続税などを払って、ゼロからのスタートといっても間違いではない。
おまけにいくら稼げるかもしれないという可能性があっても、祖母のように必ず成功するとも限らない。
ハイリスクハイリターンであるだろう。
それでも土井は真摯に結珠へ訴えかけた。それならば、結珠もそれに答えたいと思った。
結珠の答えを聞いた土井は破顔一笑の表情を見せた。