58.木村家での話し合い
その頃の木村家では、家庭内はかなり殺伐としていた。
残念ながら、みはるの兄は妹ばかりを甘やかす家族を見限った。同じ家族であるはずなのに、兄である自分ばかりに我慢をさせ、幸せを邪魔する家族などいない方がましだと言い放ち、婚約者の家には、実家とは縁を切り婿に入ると宣言したところ、何とか破談にならず結婚を許してもらえることになったため、みはるの兄は両親にそう宣言をした。
美奈子はその宣言に『木村家はどうするの!?』と縋ったが、『元々継ぐものもない、普通のサラリーマンの家だろう!? そもそもこうなったのは誰のせいだ!? みはるを甘やかしたあんたたち親の責任だろう!?』と、怒鳴り返した。
母と兄が言い争う場に同席を求められたみはるは、ただぼんやりとその光景を見ていた。二人が言い争う光景は、みはるが見た悪夢そのもので、正夢となってしまった。結婚式には親として参列してもらうが、それ以上はもう関わらないと告げて、実家から出て行ってしまった。
美奈子はその日以来、泣いて暮らしている。みはるは怪我が治ってから、部屋に閉じこもっている。木村家は、小椋家の遺産相続が発端で完全に家庭崩壊を起こしていた。
そんな家庭の様子を見て、美奈子の夫でもあり、みはるの父でもある木村氏はため息をついた。どうしてこんなことになってしまったのかと……。
自分の妻が娘に甘かったことはわかっていた。けれどそれで家庭が回っているのならばと仕事の忙しさを理由に妻に家のことは任せて放置していた。
子育ても終わり、ようやく妻である美奈子も自由に過ごしているものだと思っていた矢先の騒動。
何がどうしてこうなったのか、混乱した頭で木村氏は考えた。
自分の家庭は、機能不全家族になっていたのだと。
「どうして……どうしてこんなことに……」
ただ毎日嘆くだけの妻は、現在家事も放棄している。家の中は散らかっていて、木村氏が仕事から帰宅したあとに、何とか洗濯をし、食事を作り、妻の世話をしている。
娘のみはるは部屋から出てこないが、時折夜中に叫び声が聞こえる。最初は何事かと思ったが、どうやらみはるは夢にうなされているらしい。いとこである小椋結珠の家から拝借したエメラルドの指輪も奇妙なことに娘から外れない。無理やり外そうとして右手の薬指はひっかき傷だらけだ。
家庭へ目を向けなかったことへのしわ寄せが一気に押し寄せてきて、木村氏は疲弊していた。
(……息子は家を出、娘は借金。妻は呆然……。俺はどうしたらいいのだろうか)
寝不足から足元がおぼつかなくなり、ある日木村氏は駅の階段を踏み外し落ちた。結構な高さの場所からの転落だったため、右足は全治二ヶ月の骨折となってしまった。事故の日は駅から救急車で病院へと運ばれ、数日入院するはめになった。
そんな中、病室まで慌てたようにやってきたのは、妻と娘。そしてやや遅れて息子もやってきた。縁を切るなどと言っていたが、何だかんだと息子も家族に甘かった。
さすがに家族の一大事だったため、全員が集まってしまったのだが、ここ最近の騒動のせいで顔を合わせただけで気まずい状態となる。
「と……父さん、大丈夫なのか?」
「ああ。足の骨折くらいだな。まぁ、あとは青あざと擦り傷くらいなもんで、頭も打ってないし大丈夫だ」
「……そうか。でも何でまた」
息子にそう問われ、苦笑する。
「ちょっと寝不足だっただけだよ」
そうだ。家でも会社でも動いていたので、少々寝不足だっただけである。ただ、妻も娘も自分の話を聞く状況ではなかったので、ただもくもくと作業をしていただけだ。
そんな中、美奈子がぽつりとつぶやく。
「私のせいだわ……。あなたが出て行って、どうしていいのかわからなくなって……家の中のことも何もしなくて……全部パパにしわ寄せが」
美奈子は涙目になりながら、息子を見つめながらそう言う。
「母さん! 自分のせいだって思うんなら、やれよ! 何で母さんまで悲劇のヒロイン気取りなんだよ! 俺たちは結珠ちゃんたちの家からしてみたら加害者だぞ? 被害者じゃないんだぞ!」
「まぁまぁ。お前の言いたいこともわかるが、ここは病院だ。怒鳴るな。俺の傷にも障る」
怒っているのか大声で怒鳴りそうになる息子を、木村氏は宥めた。
「美奈子、みはる。何が悪かったのかわかるか?」
穏やかに木村氏が尋ねると、美奈子は怯えたような表情を見せ、みはるはこちらも悪夢にうなされ寝不足なのか、かさついた髪と隈の酷い表情でぼんやりと木村氏を見た。
「……結珠のせいにしたこと?」
みはるの口から掠れた声で一言だけぽつりと呟かれた。
「何だ、わかっているじゃないか。どうして結珠ちゃんのせいにしたんだ?」
「だって……あの子、何でも出来るんだもの。ばぁさんにも可愛がられてたし! あたしは誰も何もしてくれなかった!」
子供の頃はしょっちゅう熱を出していたみはる。祖母である璃奈の家を訪ねる前日に熱を出して、行けないことはよくあった。
「ばぁさんは一応孫にも平等だったけど、結珠だけ可愛がってた! アタシは熱で苦しんでたのに! そのせいで他のいとことも仲良くなれなかったし、親戚の中でもいつも一線引かれてた!」
「……みはるはそれが悲しかった?」
「わかんない……。でもいつだったか、じいさんの法要の席で、アタシはわがままだから付き合いにくいって親戚連中に言われて……ちょうどそのときに付き合ってたカレシにもわがまますぎるって、同じこと言われてフラれて……。だから……親戚の輪の中で何の悩みもなく笑ってる結珠がすごく憎くなった!」
「逆恨みじゃないか……」
みはるの主張を聞いて、息子が呆れた反応をした。
「お前は、人に好かれるために、どういう努力をした? わがままって色んな人に言われるってことは自分のどこかに原因があるって思わなかったのか?」
「だって! アタシをこういう風に育てたのは、ママだもの! アタシはママのお姫様だから、わがまま言っていいって!」
「ママのお姫様か……。であれば、みはるがわがままを言えるのはママだけだな」
木村氏の一言に、全員がはっとしたような表情を見せた。
「みはるがママのお姫様というのは間違いないだろう。でも、ママ以外の人からお姫様と言われたことはあるかい? パパもみはるのことをパパのお姫様だと思っていたから、そこもいいだろう。でも、それ以外の誰かにみはるはお姫様と言われたのかい?」
木村氏の問いかけに、みはるは悲しそうな顔をしたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「だったら、その人たちはみはるのことをお姫様と思っていないから、わがままを言ってはいけない相手だ。過ぎたわがままは相手に嫌われてしまうよ」
「何でよ! 何で、今更そんなこと言うのよ! もっと早く言ってよ!」
「みはる、それは誰もが大人になるにつれて、自分で自覚していくものだ。わざわざ親が指摘するものではない」
甘やかしていたとはいえ、親としては理解しているものだと思っていた。みはるが甘えて良い対象は家族であるということを。
「だからこそ、パパたちはお前の借金だって代わりに返済した。それを他人に求めてはいけない」
これは、借金返済時にも木村氏はみはるへ言い聞かせていたことだったが、その当時のみはるは頭に血が上っていた状況だったので、内容は理解には程遠かったようだった。今また、再度そう言うと、みはるはようやくかみ砕けたらしい。泣きそうに顔を歪めている。
みはるもわがままな子なだけであって、決して頭の悪い子ではない。勉強は苦手のようだったが、子供の頃は悪いことは駄目だと説明すれば、きちんと理解出来る子供だったのだ。それがいつの間にかにその一線を越えるようになっていた。
「パパな、階段から落ちて思ったんだ。もしこのまま打ち所が悪くて死んじゃったら、ママやみはるを置いていくことになるって。そうしたらまた小椋の人たちにお前たちが迷惑かけるんじゃないかって思ったら、死んでも死にきれなかった」
「そんなこと……!」
「あるだろう? お前は、俺がいなくなったら、今度の依存先をお義兄さんにしていたはずだ」
そんなことないと否定しようとした美奈子を、木村氏はぴしゃりと跳ねのけた。妻の甘えたな部分を可愛いとは思っているが、いつだって他者に頼ることが前提である。美奈子のその性格が諸悪の根源なのかもしれない。可愛いと思って夫である自分も甘やかした。
「今更やり直すなんて無理かもしれない。でもな、これから関わらないことで真っ当に暮らしていこう。俺も仕事ばかりで家のことを任せっぱなしなのは悪かった。みはるもお前がちゃんと反省するまで、パパはいつまでも付き合うから、何が悪かったのか、もう少しきちんと考えなさい」
もしも今の状態で自分がいなくなってしまったら、ちゃんと暮らしていけるのかと。頼る相手もいない状態で自立出来るのかと、そう木村氏が問えば、全員が黙った。
「お前も、俺たちと縁を切るって言うんだったら非情に徹しなさい。情けを見せれば、付け込まれる」
「父さん……」
「俺たちは孤立無援くらいでちょうどいい。それに小椋側からの絶縁であって、木村側とは縁がある。どうにもならなかったら、自分の親戚を頼るさ」
木村氏は息子に対して帰れと促した。息子は後ろ髪を引かれる思いだったのだろうが、幾度となくためらいを見せたあとに渋々帰っていった。恐らく次に会うのは彼の結婚式だろう。
「さて。美奈子、みはる。もう少し話をしようか」
パイプ椅子へ座るように二人を促し、三人はこの日久しぶりにとことん話し合った。何が良くて何が悪かったのかを。
家族と向き合うにはとても労力がいることであり、怪我をしたばかりの身にはとてもきつかったのだが、今話し合わないと一生分かり合えない気もしていた。
二人は時々涙を流していたが、ようやく自分たちの罪とも向き合う気になったらしい。
三人の話し合いは、看護師が病室までやってくるまで続いた。