血塗られた聖域、堕ちた家族の肖像
地下室には、もう何もなかった。 肉片も、血溜まりも、悲鳴も、絶望も。すべては父さんの《異空間収納》という名の虚無へと吸い込まれ、そこにはただ、冷たく無機質なコンクリートの床と、重苦しい静寂だけが横たわっていた。
僕たちは、その何もない空間の真ん中で、呆然と立ち尽くしていた。 僕の手には、まだ人を殺した感触がこびりついている。 里緒菜の頬には、返り血が乾いて赤い痣のように張り付いている。 父さんの服からは、焦げた肉と鉄の臭いが漂っている。
終わった。 母さんを殺した悪魔たちは、この世から消滅した。 僕たちの復讐は、完璧な形で完遂されたのだ。
カラン……。
僕の手から、銀色のミスリルソードが滑り落ち、乾いた音を立てた。 それが合図だったかのように、僕の膝から力が抜け落ちた。
「あ……ぁ……」
ガクンと崩れ落ちそうになった僕の体を、二つの温かい腕が支えた。
「洋一くん!」 「洋一!」
里緒菜と父さんが、左右から僕を抱きしめてくれた。 その体温を感じた瞬間、張り詰めていた琴線がプツリと切れ、堰き止めていた感情が涙となって溢れ出した。
「うぁ……あぁぁぁ……ッ!!」
喉の奥から、言葉にならない咆哮が漏れる。 それは達成感であり、喪失感であり、そして二度と戻れない道を渡ってしまった人間としての、魂の慟哭だった。
「父さん……里緒菜……ッ! 僕……僕は……ッ!」
「言うな。何も言うな、洋一」
父さんが僕の頭を強く胸に押し付けた。ドクン、ドクンという力強い心臓の音が、僕の耳を打つ。
「お前はよくやった。誰よりも優しくて、誰よりも弱いお前が……美名のために修羅になった。立派だったぞ」
「でも……人殺しだ……! 僕は……勝も、百合も……あんなに残酷に……!」
震える僕の手を、里緒菜が両手で包み込んだ。彼女の瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちている。
「私だって同じだよ。……私だって、あいつらを殺したいって思った。指を折って、内臓を抉って……『ざまぁみろ』って思ったの」
里緒菜は僕の血まみれの手を、自分の頬に押し当てた。
「私たちは共犯者だよ、洋一くん。……地獄に行く時は一緒。絶対に一人にはさせない」
「里緒菜……」
「ごめんな……。こんな汚れ仕事をさせて、本当にごめんな……」
父さんもまた、男泣きしていた。 巨躯を震わせ、僕たち二人を長い腕でまとめて抱きしめる。その背中は、異世界で戦い抜いた鋼の強さを持っていたが、今はただの脆い父親の背中だった。
「俺がもっと早く帰ってくれば……美名も死なずに済んだ。お前たちが手を汚すこともなかった。……全部、俺の責任だ。俺が一番の大罪人なんだ」
「違うよ、パパ……」
里緒菜が父さんの胸に顔を埋める。
「パパが帰ってきてくれなかったら、私と洋一くんは孤独なままだった。復讐もできず、ただ泣き寝入りして……心が死んでたと思う」
「ああ……そうだよ、父さん」
僕も父さんの背中に腕を回した。
「父さんが力を貸してくれたから、僕たちは母さんの無念を晴らせた。……僕たちを『家族』にしてくれたのは、父さんだ」
地下室の冷たい床の上で、僕たち3人は固く抱き合い、声を上げて泣いた。 殺人鬼。怪物。外道。 世間が僕たちをどう呼ぼうと構わない。 この温もりだけは真実だ。血と罪で繋がったこの絆だけは、誰にも引き裂けない。
どれくらいの時間が経っただろうか。 涙が枯れるまで泣き尽くした後、父さんがゆっくりと体を離し、僕と里緒菜の顔を覗き込んだ。
「……さて。泣くだけ泣いたら、腹が減ってきたな」
父さんがわざとおどけたように言うと、里緒菜がふふっと鼻をすすりながら笑った。
「もう、パパったら。……でも、私もお腹空いたかも」
「僕もです。……不思議ですね。あんな凄惨なことをした後なのに」
「生きてる証拠さ。……人間、どんな罪を背負っても腹は減る」
父さんは立ち上がり、僕たちに手を差し伸べた。 僕と里緒菜はその大きな手を掴み、立ち上がった。
「これから……どうしますか?」
僕が問いかけると、父さんは真剣な表情で虚空を見つめた。
「まずは、この場所を放棄する。証拠は何も残ってねぇが、念には念を入れてな」
「警察は……大丈夫でしょうか」
「心配すんな。異世界の『認識阻害』と『隠蔽魔法』を街中にばら撒いてある。勝と百合、それにあのチンピラどもが消えたことすら、誰も疑問に思わねぇように細工済みだ」
父さんはニヤリと不敵に笑った。
「神隠しってやつさ。……あいつらは最初からいなかったことになる」
「すごい……。完全犯罪だね」
里緒菜が感嘆の声を上げる。
「俺たちは明日から、また普通の日常に戻るんだ。……洋一と里緒菜は学校へ行き、俺は……そうだな、保護者としてお前らを支える」
父さんは僕たちの頭を撫でた。
「金ならある。異世界から持ち帰った金貨や宝石が山ほどな。一生遊んで暮らせるくらいはあるぞ」
「ええっ!? パパ、大富豪なの!?」
「おうよ。だから進学でも留学でも、好きなことをしろ。……美名の分まで、贅沢に、幸せに生きるんだ」
父さんの言葉に、未来への光が見えた気がした。 でも、僕には一つだけ、確認しておかなければならないことがあった。
「父さん。……僕と里緒菜のことですが」
僕は隣にいる里緒菜の手を握り締めた。 彼女は僕を見上げ、強く頷き返してくれた。
「僕たちは……兄妹です。でも……」
「愛し合ってる、だろ?」
父さんが先回りして言った。その目には、軽蔑の色など微塵もなかった。
「……はい。僕は、里緒菜を女性として愛しています。もう離れられません」
「私も。……洋一くん以外の人なんて、考えられない。地獄まで一緒に行くって決めたもん」
僕たちの告白に、父さんは腕を組み、深く息を吐いた。そして、優しく微笑んだ。
「いいんじゃねぇか? 世間の常識? 倫理? ……そんなもん、俺たちが犯した罪に比べりゃ可愛いもんだ」
「父さん……!」
「俺たちはもう、人の道を外れた『怪物』の家族だ。怪物が人間のルールに従う必要なんてねぇよ」
父さんは僕と里緒菜の肩を抱き寄せた。
「血が繋がっていようが、兄妹だろうが、魂が惹かれ合ってるならそれでいい。……誰に後ろ指さされようと、俺が全霊で守ってやる。堂々と愛し合え」
許された。 父からの、そして家族からの承認。 僕の胸のつかえが、完全に取れた気がした。
「ありがとうございます……! 父さん!」
「パパ大好き! 世界一のパパだよ!」
「はっはっは! よせよせ、照れるだろうが」
父さんが豪快に笑う。その笑い声が、地下室の陰鬱な空気を吹き飛ばしていく。
「よし! じゃあ帰るか! 俺たちの新しい家へ!」
「はい!」
僕たちは並んで歩き出した。 重い鉄扉を開け、階段を上る。 暗い地下から、光溢れる地上へ。
罪は消えない。 夜毎、悪夢にうなされるかもしれない。 血の臭いが鼻について離れない日もあるかもしれない。
けれど、僕たちは一人じゃない。 右手には愛する妹。左手には頼れる父。 3人で支え合えば、どんな地獄も楽園に変えられる。
地上への扉が開かれた。 眩しい太陽が、僕たち3人の「殺人鬼」を、まるで祝福するように照らし出した。
「ただいま、母さん」
僕は空に向かって呟いた。 風が優しく頬を撫でた。それは、母さんが「おかえり」と言ってくれたような気がした。
僕たち家族の、第二の人生がここから始まる。 血と絆で結ばれた、最強で最凶の、愛の物語が。




