堕ちた聖母と、朱色の肉塊
「まずは……私から行くね」
里緒菜は、震える手で自身のスカートをギュッと握りしめると、ゆっくりと百合の前へと歩み出た。 その可憐な瞳には、今まで見せたことのない冷徹な光――母を奪われた娘としての、昏い復讐の炎が揺らめいている。
「ひっ……! だ、誰……? こないで……!」
百合は目の前の少女を知らない。自分の犯した罪が招いた「死神」だとは気づかず、ただ本能的な恐怖に駆られて後ずさる。
「初めまして、って言うべきかな?」
里緒菜は百合の目の前でしゃがみ込み、ゴミを見るような目で見下ろした。
「私は刈谷里緒菜。……あなたたちが面白半分で焼き殺した、『間島美名』の娘」
「え……? む、娘……?」
百合の顔色が凍りつく。あの日、炎の中で死んでいった女性。その忘れ形見が今、目の前に立っている。
「よ、よくも……お母さんを……!」
里緒菜は百合の右手――かつてライターを握り、アパートに火を放ったその手を掴み上げた。
「この手? この指で火をつけたの? お母さんが熱がってるのを見て、この指でスマホを操作して動画を撮ってたの?」
「ち、ちが……それは勝が……!」
「言い訳しないで!!」
バキィッ!!
「ぎゃあああああっ!!」
里緒菜が百合の人差し指を、躊躇なく逆方向にへし折った。
「痛い? ねぇ、痛い? お母さんはもっと痛かったんだよ!! 全身が焼ける痛みなんて、指一本の比じゃないんだから!!」
「痛いぃぃ! 指がぁぁ! 折れたぁぁぁ!!」
「次は中指ね~。……全部折ってあげる。二度と何も握れないように」
バキッ! グシャッ!
「あぎゃっ……! やめ……許し……!」
里緒菜は涙を流しながら、百合の指を一本、また一本と破壊していく。それは彼女なりの決別の儀式であり、亡き母への供養だった。赤の他人に母を奪われた理不尽さが、彼女の小さな手を鬼に変えていく。
「はぁ……はぁ……」
右手の指が全てあらぬ方向へ曲がり、百合が白目を剥きかけたその時。
「里緒菜、そこまでだ。……よくやった」
僕が里緒菜の肩に手を置いた。彼女はビクリと震え、破壊された百合の手を見て、ハッと我に返ったように息を吐いた。
「……うん。ありがとう、洋一くん」
里緒菜は下がり、僕と交代する。 僕は百合を見下ろした。彼女はまだ、左手で必死に大きくなったお腹を庇っている。指を折られ、激痛に苛まれながらも、腹だけは守ろうとするその姿。それが、僕の神経を逆撫でする。
「ねぇ、百合。さっきから大事そうに抱えてるけどさ」
僕は百合の腹を靴先で軽く小突いた。
「それが免罪符になると思ってるの?」
「ひっ……! あ、赤ちゃん……! 赤ちゃんだけは……! 洋一くん、あなただって人の子でしょう!? この子に罪はないわ!!」
百合が必死に叫ぶ。母性という名の盾。
「罪はない、か。……それは間違っているよ? 犯罪者から作られた事自体が罪だろ?」
僕の目から光が消えた。
「そうさ。その『入れ物』が腐ってるんだよ。母さんを殺した女の腹の中で育つ命なんて……僕にとっては汚物でしかないんだよ!!」
ドゴォッ!!
僕は百合の膨らんだ腹を、迷いなく蹴り飛ばした。
「がはっ……!? あ……か、ちゃ……!?」
百合がくの字に折れ曲がり、喉の奥から空気が漏れる音を立てる。 胎児への衝撃。羊水への振動。
「痛いか? 苦しいか? お前が殺した僕の母さんは、命乞いをする時間さえなかったんだぞ!!」
ドスッ! ガッ! バキッ!!
僕は何度も、何度も腹を蹴り続けた。 妊婦の腹を蹴るという、人として最も禁忌とされる行為。だが、罪悪感など微塵もない。あるのは、母さんを奪われたどす黒い憎悪だけだ。
「やめ……て……! お腹……破れる……! 死んじゃう……!!」
百合の股間から、じわりと血が滲み始める。
「おっと、死なせはしないよ。……父さん!」
「おうよ。《ヒール(回復)》」
龍哉さんが即座に魔法をかける。 百合の体の傷が癒える。裂けかけた子宮が修復される。だが、それは「健康に戻す」ためではない。「拷問を続ける」ためだ。 外部からの衝撃、そして無理やりな回復。その強烈な負荷の繰り返しに、中の胎児と母体の拒絶反応が限界を迎える。
「あ……あぁ……! お腹が……熱い……! なんか……降りてくる……!!」
百合が錯乱したように股間を押さえる。
「嫌だ……出ちゃう……! まだダメ……! 出ちゃダメェェェ!!」
「あはは! お産かな? 予定日より随分早いけど、元気な子だといいねぇ!」
僕が笑いながら腹を踏みつけると、百合の絶叫と共に、ダムが決壊したように大量の羊水と鮮血が溢れ出した。
ズルリ……ドチャッ。
生々しい音と共に、百合の股間から「それ」が排泄された。 血の海の中に横たわる、小さな、あまりにも小さな肉塊。 まだ皮膚も薄く、赤黒いその物体は、ピクリ、ピクリと弱々しく痙攣している。 生きている。流産した胎児だ。
「あ……あぁぁ……! あか……ちゃん……!」
百合が血まみれの手を伸ばし、その肉塊を抱き寄せようとする。
「生まれた……! 私の赤ちゃん……! 生きてる……!」
「へぇ。しぶといね。勝の子供にしちゃあ上出来だ」
僕は冷ややかな目で見下ろす。 その小さな命が動くたびに、僕の中のイライラが募る。 こいつらは新しい命を育もうとしていた。僕の母さんの命を奪っておきながら。自分たちだけ幸せになろうとしていた。その図々しさが、傲慢さが、許せない。
「……目障りだ」
僕は呟くと、足を上げた。
「え……? 洋一……くん……?」
百合が見上げる前で、僕はその小さな頭を目掛けて、靴底を振り下ろした。
グチャッ。
トマトを潰したような、水っぽい音が地下室に響いた。
「――――ッ!!??」
百合の喉が引きつり、声にならない悲鳴を上げる。 勝も、壁際でガタガタと震えながら失禁している。
「あ……あ……あぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
「汚ねぇな。中身が飛び散ったじゃないか」
僕は靴底を床で擦りながら、潰れた肉塊を見下ろした。頭部がひしゃげ、原型を留めていない。
「ひどい……! 悪魔……! 人殺しぃぃぃ!! 私の赤ちゃんを返してぇぇぇ!!」
百合が半狂乱になって僕に掴みかかろうとする。
「返して? ……いいよ。返してやる」
僕は龍哉さんを見た。
「父さん。こいつ(胎児)、治せますか?」
「……チッ、悪趣味な息子だぜ。……まあ、出てきて数秒だ。魂が離れてなけりゃいけるか。《ヒール》」
龍哉さんが肉塊に手をかざす。 すると、潰れた頭蓋骨が巻き戻るように修復され、飛び散った脳漿が戻り、再び「それ」はピクリと動き出した。
「あ……! 治った……! 生きてる……! よかった……!」
百合が希望に縋るように手を伸ばす。 その顔。その安堵した表情。 それが、僕を最高に苛立たせた。
「よかったね。……じゃあ、リトライだ」
僕は百合の手が届く直前で、再び足を振り上げた。
「え……? や、やめて……」
ベチャッ!!
再び踏み潰す。今度は腹部を。内臓が破裂し、小さな体がペシャンコになる。
「ぎゃあああああああっ!! やめてぇぇぇ!! 何回も殺さないでぇぇぇ!!」
「父さん、回復」
「《ヒール》」
再生する。動く。 百合が泣きながら這いずる。
「もう嫌ぁぁ! 許してぇぇ! 私が悪いの! 私が悪かったからぁぁ!!」
「そうだよ。お前が悪い。お前が母さんを殺したから、この子も死ぬんだ」
グシャッ!!
三度目。今度は全体重をかけて踏み抜く。骨が砕ける感触が足裏に伝わる。
「あがぁぁ……! 神様……助けて……!」
「神様なんていないよ。ここにいるのは悪魔だけだ」
「父さん、もう一回」
「《ヒール》」
何度目かの再生。 百合はもう、言葉を発することもできず、ただ口をパクパクさせて涙を流している。精神が崩壊しかけているのだ。 それでも、母親としての本能か、血まみれの肉塊を抱きかかえようと必死に手を伸ばす。
「守らなきゃ……私が……ママが……」
その「ママ」という言葉が、僕の理性を完全に焼き切った。
「ママ? ……お前が? お前みたいな人殺しが、ママになれると思ってんのか!?」
僕は激昂し、百合の手を蹴り飛ばした。
「ふざけるな!! 母さんを奪っておいて! 自分だけ母親面してんじゃねぇよ!! 虫唾が走るんだよ!!」
僕は足元の、再生したばかりの胎児を見下ろした。 もう、踏み潰すだけじゃ足りない。こいつの存在そのものが、僕の視界にあることが不快だ。
「そんなに大事なら……お前と一体にしてやるよ!!」
僕はサッカーボールを蹴るように、助走をつけてその肉塊を思い切り蹴り上げた。
「喰らえッッ!!」
ドゴォォォォォンッ!!
素晴らしいインパクト。足の甲に、重く柔らかい感触が残る。 小さな体は砲弾のように飛び、悲鳴を上げる間もなく、百合の顔面へと直撃した。
バヂィィィィンッ!!!!
「ぐべぇぇっ!!??」
鈍く、湿った衝撃音が地下室に響き渡る。 百合の顔面で、胎児の体が弾けた。 高速で衝突した衝撃で、未発達な骨と内臓が破裂し、赤いスプラッシュとなって百合の顔を覆い尽くす。
「あ……が……」
百合が仰向けに倒れる。 その顔は、我が子の血と肉、そして飛び散った小さな臓器でぐちゃぐちゃに汚れていた。 目も鼻も口も、すべてが「赤」に埋もれている。
「あ……あ……」
百合が震える手で、自分の顔についた「何か」を拭う。 それは、小さな小さな手首だった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」
百合の喉から、人間のものとは思えない絶叫が迸った。 自分の子供が、自分の顔面で弾け飛んだ。その事実が、彼女の正気を完全に消滅させた。
「あはは! 似合ってるよ、百合! 血塗れのマリア様みたいだ!!」
僕は腹を抱えて笑った。 里緒菜は、その光景を無表情で見つめ、一筋の涙を流していた。 そして龍哉さんは、静かに目を閉じ、冥福を祈るように十字を切ったが、その表情は冷徹なままだった。
地獄の宴は、最高潮に達していた。




