雨のラプソディ:魂の帰還、あるいは父と娘の邂逅
世界は、色のない灰色の絵画のようだった。 カズ不動産の重厚な鉄扉を背にして、私はふらふらと夜の街へと歩き出した。 空からは、私の心を映したような冷たい氷雨が、容赦なく降り注いでいる。傘もささずに濡れそぼって歩く私を、すれ違う通行人は奇異な目で見て避けていくけれど、そんな視線など私の意識の表層すら掠めなかった。 アスファルトを叩く雨音が、ザーザーとノイズのように鼓膜を打ち続ける。それは、先ほどカズさんから告げられた残酷すぎる真実を、何度も何度も、壊れたレコードのように脳内で反響させる再生装置のようだった。
『間島美名は……亡くなった』 『火事だった』 『もう、会えねぇんだ』
嘘だと言ってほしかった。ドッキリだよと笑い飛ばしてほしかった。 だって、私はまだ何も伝えていない。 「産んでくれてありがとう」も、「愛してくれてありがとう」も、「今まで生きててごめんなさい」も。 ただの一言も伝えられないまま、私の実の母は、数ヶ月前に炎の中で苦しみながら、たった一人で天に召されてしまったというのか。
「うぅ……っ……あぁ……」
嗚咽が漏れる。天からの雨水と、瞳からの涙が混ざり合い、頬を冷たく濡らしていく。 私の人生とは、一体何だったのだろう。 生まれてすぐに手放され、養子として育ち、思春期になってようやく自分のルーツを探そうと必死に足掻き……そして辿り着いた答えが、冷たい「墓標」だったなんて。神様は、どこまで私に残酷なシナリオを用意すれば気が済むのだろう。
(私には……帰る場所なんて、最初からなかったんだ……)
絶望という名の鉛のような重りが、足首に絡みついているようだった。一歩進むたびに、魂が削り取られていく感覚。心臓が動いていることさえ疎ましかった。 ふと、洋一くんの優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。彼もまた、母を火事で亡くしたと言っていた。 今の彼なら、この張り裂けそうな痛みを分かってくれるだろうか。でも、今の私は彼に会う資格さえない気がした。こんな、希望も未来もなくした、抜け殻のような私なんて、彼の光を曇らせてしまうだけだ。
「お母さん……会いたいよぉ……」
視界が涙で完全に滲む。街の煌びやかなネオンサインが、溶けた極彩色の絵具のように混ざり合って歪んで見えた。 ふらふらと、足が勝手に前へと進む。 目の前には大きな交差点。 信号機の色なんて、目に入らなかった。赤く明滅するその警告色が、今の私にはただの滲んだ光の染みにしか見えなかった。 (あっちに行けば……お母さんのところに行けるのかな……)
死への恐怖よりも、この終わりのない孤独から解放されたいという甘美な誘惑が勝った。 私は、吸い込まれるように、死の領域である車道へと足を踏み出していた。
その時。
プァァァァァァァッッ!!!
鼓膜をつんざくような、神経を逆撫でするクラクションの轟音。 ハッとして横を見ると、巨大な鉄の塊が――大型トラックが、激しい水飛沫を上げながら私に向かって突っ込んでくるのが見えた。 急ブレーキの不協和音。スリップするタイヤの悲鳴。 眩しすぎるヘッドライトが視界を白く染め上げ、世界がスローモーションになる。
ああ、死ぬんだ。 痛いのかな。熱いのかな。 でも、これでやっと……お母さんに会える――。
私は抗うこともせず、逃げることもせず、静かに目を閉じた。
「――馬鹿野郎ッッ!!!!」
ドンッ!!
衝撃。 トラックに轢かれた痛みではない。誰かに強く、乱暴に、腕を引かれた衝撃だった。 世界が回転する。私の体は木の葉のように宙を舞い、硬い歩道の上へと転がり込んだ。
ゴオォォォォ……ッ!
私の鼻先数センチを、トラックの巨大なタイヤが風を巻いて通り過ぎていく。 泥水が顔にかかる。心臓が早鐘を打ち、全身の震えが止まらない。 私は何が起きたのか分からず、呆然と尻餅をついたまま、走り去るトラックの赤いテールランプを見送っていた。死神が、舌打ちをして去っていったようだった。
「はぁっ……はぁっ……! テメェ……死ぬ気か!? ふざけんじゃねぇぞ!!」
頭上から、雷のような怒号が降ってきた。 恐る恐る顔を上げると、そこには一人の男性が立っていた。 肩で息をし、全身ずぶ濡れになりながら、鬼のような形相で私を見下ろしている。 洋一くんの……お友達の……。
「た、龍哉……さん……?」
「信号! 赤だっただろうが!! 目ぇついてんのかあぁん!? 死にたいのか!? あともう一歩でミンチだったんだぞ!!」
龍哉さんは私の両肩を掴み、激しく揺さぶった。その指が食い込むほど強い力で。 彼は怒っている。本気で、心底、私に対して怒っている。 でも、その瞳の奥には、怒りよりも深い「恐怖」と、私を失わずに済んだという「安堵」が揺らめいているように見えた。その目は、赤く充血し、涙を堪えているようにも見えた。
「ごめんなさ……い……。私……私……」
死にかけた恐怖よりも、助かってしまった絶望が、再び胸を締め付ける。生き残ってしまった。また、一人の世界に戻されてしまった。
「私なんて……死んだほうがよかったんです……! お母さんもいないのに……会えないのに……生きてたって意味ないもん……!」
「……!」
「うあぁぁぁぁっ! 一人ぼっちはいやだぁぁぁ! お母さぁぁぁん!! 連れてってよぉぉ!!」
私は路上にうずくまり、子供のように泣き叫んだ。 降りしきる雨が冷たい。世界中が敵に思える。孤独が骨の髄まで染み込んでくる。 誰か助けて。誰か私を愛して。誰か、私をこの冷たい雨から守って。
すると。 私の震える体に、温かいものが触れた。 龍哉さんが、泥だらけの私を力強く抱きしめていた。 雨に濡れた冷たい体を、大きな体温が包み込む。洋一くんとは違う、もっと大きく、分厚く、そしてどこか懐かしい……煙草と雨と、不器用な男の人の匂いのする背中。
「……死なせねぇよ」
耳元で、龍哉さんの低い声が響いた。 さっきまでの怒声とは違う。震えるような、悲痛で、それでいて慈愛に満ちた響き。
「意味がないなんて言うな。お前は……美名が命がけで遺した宝物なんだぞ……」
「え……? 美名……?」
私は涙に濡れた顔を上げ、至近距離にある龍哉さんの瞳を見た。 どうして、この人がお母さんの名前を知っているの? カズさんのお友達だから? それとも……?
龍哉さんは、何かを決意したように強く唇を噛み締めると、私の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳は、街灯の光を反射して、揺らぐ炎のように熱く、真剣に輝いていた。もう、隠し事はしないという覚悟の色だった。
「……里緒菜。聞いてくれ」
「は、はい……」
「お前が今、一番知りたいことを話す。……カズから聞いたんだろ? 美名さんのこと。……俺はな、美名の……お前の母親の、昔の恋人だ」
「えっ……? こい、びと……?」
時が止まる。雨音だけが遠くで響く。
「ああ。16年前、俺と美名は付き合ってた。金なんてなかったけど、毎日馬鹿みたいに笑って、将来を誓い合った仲だったんだ」
龍哉さんの大きな手が、私の頬に触れる。その指先はゴツゴツと硬く、たくさんの傷跡があるのに、雨に濡れた私の涙を拭う仕草は、壊れ物に触れるように繊細で優しかった。
「でも、俺はある日、突然いなくなっちまった。美名を一人残して……お前がお腹の中にいることも知らずにな」
ドクン。 心臓が大きく跳ねた。 お腹の中にいることも知らずに? 16年前? 恋人? それって……。
「う、嘘……。だって、お父さんは……行方不明に……」
「それが俺だ」
龍哉さんは、逃げることなく、はっきりと告げた。その声に、迷いはなかった。
「俺は16年間、ずっと遠い場所に行っていた。お前や美名に会いたくて、必死に足掻いて、地獄みたいな場所を這いずり回って……血反吐を吐いてでも帰りたくて……やっと、やっと帰ってきたんだ」
龍哉さんの目から、一筋の涙がこぼれ落ち、雨水と混じって頬を伝う。それは、彼が16年間抱え続けてきた悔恨と、愛の結晶だった。
「帰ってきたら、美名はもういなかった……。俺が守ってやれなかったせいで……。間に合わなかったんだ……」
「龍哉……さん……」
「でもな、美名は俺に、最高の奇跡を残してくれていた」
龍哉さんは私の肩を掴む手に力を込めた。痛いくらいに、私の存在を確かめるように。まるで、私が幻ではないことを確認するかのように。
「それがお前だ。里緒菜」
世界から音が消え、目の前の龍哉さんの存在だけが鮮明に浮かび上がる。 この人だ。 私がずっと探していた、欠けたパズルのピース。 カズさんが言っていた『強くて優しい男』。 洋一くんのそばにいて、いつも私たちを見守ってくれていた視線の温かさ。 すべてが繋がる。血の記憶が、魂が、彼を呼んでいる。
「俺が……十川龍哉が、お前の本当の父親だ」
「……っ!!」
「今まで名乗り出れなくてごめんな。16年もほったらかしにしてごめん。美名をお母さんって呼ばせてやれなくてごめん……!! 寂しい思いをさせて、本当にごめん……!」
龍哉さんは、顔をくしゃくしゃに歪ませて泣いていた。あの強面で、誰よりも強そうな龍哉さんが、雨の中で子供のように泣いている。
「俺は、ろくでもない男だ。お前を育てることもできず、美名を守ることもできず……今だって、血に汚れた手をしてる。お前を抱きしめる資格なんてねぇかもしれねぇ」
龍哉さんは自分の掌を見つめ、自嘲気味に笑った。その手には、私には見えないけれど、彼だけが知る深い罪と、戦いの歴史が刻まれているようだった。
「でもよ……これだけは誓う。神に誓って約束する。これからは、俺が絶対にお前を守る。誰にも傷つけさせねぇ。お前が泣くなら俺が涙を拭くし、お前が死にたいなら俺が生きる理由になってやる!! だから……だから死ぬなんて言うな!!」
魂からの叫びだった。 私の孤独を、絶望を、すべて受け止めてくれる父親の叫びだった。 その言葉が、凍りついていた私の心を溶かしていく。
「龍哉さん……ううん……お父さんっ……!」
私はたまらず、龍哉さんの胸に飛び込んだ。 分厚い胸板。煙草と雨の混じった匂い。そして、トクン、トクンと力強く打つ心臓の音。 ここが、私の居場所だったんだ。 ずっと探していた、失われた半身がここにあったんだ。
「うあぁぁぁぁぁっ! パパぁぁぁぁっ! パパぁぁぁ!! 会いたかったぁぁぁ!!」
幼い頃、一度も呼べなかった言葉。 公園で他の子が呼んでいるのを、羨ましく見ていたあの言葉。 それが自然と口をついて出た。
「……おう。里緒菜。……会いたかった。ずっと、会いたかったぞ」
龍哉さんは私の頭を、大きな手で包み込むように撫でてくれた。その手のひらは、雨の冷たさを忘れさせるほど熱かった。 雨は激しさを増し、街のネオンサインが水たまりに反射して、まるで私たちを祝福する宝石のように輝いている。
「お母さんは……お母さんは、パパのこと、ずっと待ってたんだよ……。日記に書いてあったって、カズさんが……」
「ああ、知ってる。俺もだ。一秒だって美名を忘れたことはなかった。……愛してる。お前も、美名も。これからは、俺が美名の分までお前を愛する」
「私、寂しかった……! ずっと、ずっと会いたかった……! 一人ぼっちじゃなかった……!」
「もう二度と離さねぇ。……さあ、帰ろう、里緒菜。風邪引いちまう」
「うん……うん……っ」
龍哉さんは自分の着ていた革のジャケットを脱ぐと、私の肩にふわりとかけてくれた。まだ彼の体温が残るそのジャケットは、ずしりと重く、そしてどんな高級なコートよりも暖かかった。守られているという実感が、冷え切った体を芯から温めていく。
龍哉さんに支えられながら歩き出す。 私の手は、龍哉さんの大きな手にしっかりと握られている。
私の世界は、もう灰色じゃなかった。 雨上がりの夜空には、厚い雲の切れ間から、白銀の月が顔を覗かせていた。 その月は、まるで天国のお母さんが微笑んでいるように優しく、私たち父娘の帰り道を照らしていた。
(お母さん、見てる? 私、会えたよ。パパに会えたよ……。パパは、とっても大きくて、温かいよ……)
私は胸のネックレス――太陽のチャームを握りしめ、隣を歩く父親の大きな手を、ギュッと握り返した。 その手は、ゴツゴツとしていて、たくさんの傷があって、少し怖かったけれど……世界で一番頼もしい、私のお父さんの手だった。




