愛と絆の共食い:飢餓のコロシアム
リナ、金髪、ハゲの三人が虚空へと葬り去られてから、さらに六日が経過していた。 地下室には、重苦しい沈黙と、濃密な死の気配、そして排泄物と腐敗臭が混ざり合った地獄の悪臭だけが澱んでいる。
勝と百合は、コンクリートの床に染み付いたリナの血痕を見つめながら、芋虫のように身をよじらせていた。 極限の恐怖。そして三日間に及ぶ完全な絶食と断水。 彼らの唇は干からびてひび割れ、肌は土気色に変色し、瞳だけが異様にギラギラと光っている。人間としての尊厳など、とっくの昔に摩耗し消え失せていた。
ガチャリ。
重い鉄扉が開く音が、彼らにとっては「死神の来訪」であり、同時に唯一の「刺激」でもあった。
「やぁ。おはよう、ゴミクズたち。生きてる?」
僕が声を上げると、二人はビクンと体を跳ねさせ、乾いた喉からヒューヒューという音を漏らした。
「み……みず……」
「たべ……もの……」
言葉すらまともに紡げない。ただ、生存本能だけが彼らを突き動かしている。
「おやおや、随分と痩せちゃって。ダイエット成功だね、百合」
僕は嘲笑いながら近づく。隣には、龍哉さんが大きなビニール袋を提げて立っていた。そこからは、信じられないほど芳醇な香りが漂ってくる。 焼きたてのステーキ肉と、ほかほかの白米の匂いだ。
「あ……あぁ……っ!」
その匂いを嗅いだ瞬間、死にかけていた二人の動きが劇的に変わった。
「く、食い物……!? くれるのか!? 洋一ぃ! 頼む! 水をくれ! 死にそうなんだ!!」
勝が鎖を引きずりながら、床を這って僕の足元にすがりつく。その手は骨と皮ばかりだが、爪が僕の靴に食い込むほどの力強さだ。
「わ、私も……! お願い洋一……! 赤ちゃんが……栄養がないと死んじゃうの……! お腹が空いて……もう限界なの……!」
百合も涙を流し、渇ききった唇を震わせて懇願する。
僕は龍哉さんと顔を見合わせ、ニヤリと笑った。 龍哉さんが、袋の中から『最高級ステーキ弁当』と、表面に水滴がついたキンキンに冷えた『2リットルのミネラルウォーター』を取り出した。
「あぁ……!! にく……みず……!!」
二人の口から、ダラダラと粘り気のある涎が垂れ落ちる。理性など消え失せ、ただの飢えた獣のような目つきだ。
「欲しいか?」
「ほ、欲しい!! くれぇぇぇ!! 靴でも舐める!! 何でもするからぁぁ!!」
「あげるよ。……でもね」
僕は弁当と水を、二人の手の届かない場所――互いの鎖がギリギリ届くか届かないかの中間地点に置いた。
「残念ながら、予算の都合で一人分しかないんだ」
「え……?」
二人の動きがピタリと止まる。
「どっちにあげようかなぁ。勝は百合を守るナイトなんだろ? じゃあ愛する百合とお腹の赤ちゃんに譲るか?」
「い、いや待て! 俺だ! 俺にくれ! 俺は男だぞ!? カロリーが必要なんだよ!! こいつは寝てるだけだろ!? 俺が生きなきゃ意味ねぇだろ!!」
勝が即座に叫ぶ。一秒の迷いもなく。
「はぁ!? ひどい! 勝、私を愛してるって言ったじゃない! 私の体はボロボロなのよ!? 二人分必要なのよ!? 私が食べるべきでしょ!?」
百合が金切り声を上げて反論する。 醜い。本当に醜い。空腹の前では、愛など塵芥に等しい。
「あはは! 揉めてるねぇ。じゃあ、公平に決めようか」
龍哉さんが懐から、錆びついた一本のサバイバルナイフを取り出し、二人の間にカランと投げ捨てた。 乾いた金属音が、死のゴングのように響く。
「ゲームだ。ルールは簡単。『相手の体の一部』を切り取って俺たちの前に持ってきた方に、この弁当と水をやる」
「は……?」
「切り取る場所はどこでもいい。指でも、耳でも、鼻でも、肉でもな。……要は、相手を食い物にしてでも生き残る覚悟がある方を選んでやるってことだ」
龍哉さんの提案に、勝と百合は息を呑み、互いの顔を見合わせた。 一瞬の躊躇。だが、その目にはすぐに狂気の色が宿り始めた。
「ねぇ、お前ら愛し合ってたんだろ? だったら話し合って決めなよ。どちらかが犠牲になれば、愛する人が助かるんだよ? 美しい話じゃないか」
僕が煽るように拍手をする。
「愛……? そ、そうだよ……百合……お前、俺のこと好きだろ……?」
勝が引きつった笑みを浮かべ、震える手でナイフへとジリジリと近づく。
「俺のために……我慢できるよな? 指一本くらい……。俺が元気になったら、必ずお前を助けてやるからさ……な?」
「はぁ!? ふざけないでよ!! 助ける気なんてないくせに!!」
百合が絶叫し、勝の手を叩き落としてナイフを奪おうとする。
「あんたのせいで私はこんな目に遭ってるのよ!? あんたの子供を孕んだせいで!! 最後くらい男らしく私のために犠牲になりなさいよ!! その汚い耳、よこしなさいよ!!」
「なんだとアマァァッ!! 誰のおかげで今までイキってこれたと思ってんだ!! 俺の女だからチヤホヤされてたんだろうが!! この寄生虫が!! 死ね!! 肉よこせ!!」
「寄生虫はあんたでしょ!! 死ね! 私のご飯を奪うな!!」
「うおおおおおっ!!」
取っ組み合いが始まった。 鎖が絡まり合う音、衣服が裂ける音、そして肉がぶつかり合う鈍い音が響く。 かつて愛を囁き合い、僕を嘲笑いながら体を重ねていた二人が、今や互いを肉塊としか見ずに殺し合っている。
「いたぁぁぁい!! 噛んだ!? こいつ噛みやがった!!」
勝が悲鳴を上げる。百合が勝の腕に噛みつき、犬のように首を振って肉を食いちぎろうとしているのだ。
「放せっ! この狂犬病がっ!!」
ドゴッ!!
勝が百合の顔面を拳で殴りつける。百合が鼻血を吹いて仰け反るが、その手にはしっかりとナイフが握られていた。
「死ねぇぇぇ!! 私の水を奪うなぁぁぁ!!」
ザシュッ!!
百合がナイフを振り回す。刃先が勝の頬を切り裂き、赤い筋が走る。
「あぎゃあああっ! 顔が! 俺の顔がぁぁ!! 殺す! 絶対に殺す!!」
「あはははは! いいぞ! もっとやれ!! それがお前らの『愛』の正体だ!!」
僕は腹を抱えて笑った。愉快だ。痛快だ。これほど面白いショーが他にあるだろうか。 龍哉さんも、冷めたピザでも見るような目で二人を見下ろしている。
「くそっ……! 調子に乗るなよメス豚ァ!!」
体格差で勝る勝が、百合の手首をひねり上げ、ナイフを奪い取ると、そのまま百合を押し倒して馬乗りになった。
「い、いやぁぁぁ! 勝、やめて! ごめんなさい! 謝るからぁぁ!! 赤ちゃんがいるのよ!? 自分の子供よ!?」
形勢が逆転した途端、百合は掌を返して命乞いを始める。
「うるせぇ!! 知ったことか!! 弁当は俺のもんだ!!」
勝は百合の首を片手で締め上げながら、ナイフを百合の顔に突きつけた。
「お前の左耳、貰うぞ」
「いやぁぁぁぁ! いやだいやだいやだぁぁぁ!! 痛いのは嫌ぁぁぁ!!」
「動くなっ!! 耳くらいくれてやれよ!! 飯のためだ!!」
勝は躊躇なく、錆びたナイフを百合の耳の付け根に当て、ノコギリのようにギコギコと引き始めた。
「ぎゃあああああああああああああっ!!!!」
絶叫。 地下室が割れんばかりの百合の悲鳴。 軟骨が削れ、皮膚が裂ける生々しい音。ブチブチと神経が千切れる音が静寂に響く。鮮血が勝の顔に吹きかかるが、彼は狂ったように笑いながらナイフを動かし続ける。
「水……水……!! 肉……!! 俺の飯だぁぁぁ!!」
「痛いぃぃぃ! 取れるぅぅ! 耳がぁぁぁ!! 洋一ぃぃ! 助けてぇぇぇ!!」
百合が僕に助けを求める視線を送る。血走った目、飛び出した涙、垂れ流される失禁。
「頑張れー! あとちょっとだぞ勝ー!」
僕は残酷な声援を送るだけだ。
ゴリッ……ブチィッ!!
鈍い音と共に、百合の左耳が完全に切断され、ボトッと床に落ちた。
「あ……あぁ……」
百合が白目を剥いて痙攣する。左側の頭部は血の海だ。 勝は、血まみれの耳を拾い上げると、宝物でも手に入れたかのような満面の笑みで、膝行しながら僕たちの方へ這ってきた。
「と、取ったぞ……! 洋一! 見ろ! 百合の耳だ!! 約束通り、これと交換だ!!」
勝が血の滴る耳を差し出す。その顔は、プライドも人間性も捨て去った、ただ食欲に支配された醜悪な餓鬼のそれだった。
「うわぁ……。本当にやったんだ。彼女の耳なのに。お腹の子供の母親なのに」
僕はわざとらしく顔をしかめる。
「関係ねぇ!! 俺が生きるためだ!! 早く! 早く水をくれ!! 死んじまう!!」
「はいはい。おめでとう、勝くん。君の優勝だ」
僕は約束通り、水と弁当を勝の前に蹴り飛ばした。
「うおおおおっ!!」
勝は獣のように弁当に飛びつき、蓋を引きちぎると、手づかみでステーキ肉と米を貪り始めた。咀嚼もそこそこに飲み込み、水をラッパ飲みする。
「んぐっ……んぐっ……うめぇ……! うめぇぇぇ!! 生き返るぅぅぅ!!」
その横で、耳を削がれた百合が、血の海の中で呻いている。
「あ……ぅ……水……私も……」
百合が這いずり、勝の足元に落ちた米粒を拾おうとする。 だが、勝はそれを無慈悲に蹴り飛ばした。
「あっち行け! これは俺が勝ち取ったもんだ!! テメェはそこで自分の血でも啜ってろ!!」
「ひどい……ひどいよぉ……」
百合が絶望の涙を流す。肉体的痛みよりも、信じていた男に切り刻まれ、見捨てられた事実が心を破壊していく。
その光景を見届けた龍哉さんが、パチパチと乾いた拍手をした。
「いやぁ、感動したぜ。これが『愛』の成れの果てか。見ろよ洋一。人間ってのは、追い詰められるとここまで醜くなれるんだな」
「はい。勉強になります。……あんなに綺麗事並べてたのに、結局は自分が一番可愛いんだね」
僕はしゃがみ込み、肉を詰め込んで頬を膨らませ、口の端から米粒と肉汁を垂れ流している勝の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、勝。おいしい?」
「んぐっ……あぁ! 最高だ! お前も食うか? やらねぇけどな! 俺のもんだ!」
勝は勝ち誇ったように笑う。 僕は冷ややかな目で、彼に告げた。
「そっか。よかったね。……それが『最後の晩餐』にならないといいね」
「へ……?」
勝の手が止まる。口から肉片がポロリと落ちる。
「さて、龍哉さん。勝が食事を楽しんでる間に、百合ちゃんを治してあげましょうか。耳がないと僕の話が聞こえないし」
「おうよ。かわいそうになぁ、男に裏切られて」
龍哉さんが百合に近づき、魔法を唱える。
「《ヒール(回復)》」
光が百合を包む。切り落とされたはずの左耳が、骨から肉から皮膚まで、何事もなかったかのように再生する。痛みも消える。 だが、勝に切り落とされたという記憶と恐怖、そして見捨てられた絶望だけは、決して消えない。
「あ……治った……? 耳が……ある……?」
百合が耳を触る。そして、弁当を貪る勝を、幽鬼のような憎悪に満ちた瞳で睨みつけた。
「勝……許さない……。絶対に許さない……!! よくも……よくも私の耳を!!」
「おっと、元気になったみたいだな。じゃあ、第二回戦といこうか?」
僕が笑うと、勝は慌てて弁当を背中に隠そうとし、百合は殺意を剥き出しにして立ち上がろうとする。
「次はデザートの時間だ。……二人で仲良く、その弁当を吐くまで殴り合いでもしてみるか? 勝った方に、今度はデザートのプリンをやるよ」
「プリン!? やる! 俺がやる!!」
「私よ! 今度こそ私が勝つ! 殺してやるわ勝ェェェ!!」
僕と龍哉さんの影が、地獄の底で蠢く二人の餓鬼を覆い尽くしていった。 そこにはもう、かつての恋人たちの面影など欠片も残ってはいなかった。




