真実の墓標と残り香
洋一くんとの甘く幸せなデートから数日が経った、ある曇天の放課後。 私は、胸元で揺れる太陽と月のネックレスをギュッと握りしめ、とある雑居ビルの前に立っていた。
『(株)TOTI不動産』
古びた看板が掲げられたその場所は、少し入りにくい雰囲気を醸し出している。けれど、私の足は震えながらも一歩前へと踏み出した。 母さん――「間島美名」を探すため、私は今まで役所や図書館、近隣の聞き込みを続けてきた。その中で、古くからこの街に住む商店街のお婆さんが教えてくれたのだ。
『間島さん? ああ、あそこの娘さんねぇ……。詳しいことは知らないけど、昔あの辺りの若者とつるんでた不動産屋のカズちゃんなら、何か知ってるかもしれないよ』
その言葉だけを頼りに、私はここまで来た。 心臓が早鐘を打つ。もし、ここでも分からなかったら。あるいは、聞きたくないような事実を知ってしまったら。 不安が胸をよぎるけれど、洋一くんがくれたネックレスが「大丈夫」と言ってくれている気がした。
「す、すみません……」
重い鉄の扉を押し開ける。 室内は紫煙が漂い、書類が山積みにされたデスクの奥に、一人の強面な男性が座っていた。派手なシャツにサングラス。一見すると堅気には見えない風貌に、私は思わず後ずさりそうになる。
「あぁ? 誰だ? 物件探しならよそを当たんな。うちは紹介制だ」
男の人は、面倒臭そうに煙草の煙を吐き出しながらこちらを一瞥した。
「あ、あのっ! 物件じゃなくて……人を探しているんです! 商店街の方に、ここなら分かるかもしれないって聞いて……」
「人探しだぁ? 俺は探偵じゃねぇんだよ。帰りな、お嬢ちゃん」
冷たくあしらわれ、心が折れそうになる。でも、ここで引くわけにはいかない。
「お願いします! 私の……私の本当のお母さんなんです! 『間島美名』っていうんですけど……!」
その名前を出した瞬間。 男の人の動きがピタリと止まった。
「……あ?」
彼はゆっくりとサングラスを外し、鋭い眼光で私を凝視した。頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように、そして何かを確認するように。
「お前……名前は?」
「えっ……。か、刈谷……里緒菜です……」
「刈谷……里緒菜……」
彼はその名前を口の中で反芻すると、ガリッと音を立てて煙草を噛み潰した。そして、深いため息をつきながら立ち上がり、吸い殻を灰皿に押し付けた。
「……マジかよ。龍哉の野郎、まだ話してねぇのか……」
「え? 龍哉……さん?」
聞き覚えのある名前に、私は首を傾げる。龍哉さんって、洋一くんのお友達の? どうしてここで名前が出るの?
男の人――カズさんは、乱暴に頭を掻きむしると、入り口の鍵を閉め、私にソファに座るように促した。
「座れ。……茶くらい出してやる」
「あ、ありがとうございます……」
出された温かいお茶を一口飲むと、カズさんは私の対面にドカッと腰を下ろした。先ほどまでの威圧感は消え、どこか気まずそうな、けれど哀れむような瞳で私を見つめている。
「単刀直入に聞くぞ。お前、間島美名を探してどうするつもりだ?」
「……会いたいです。会って、話がしたいんです。どうして私と離れ離れになったのか。私のこと、どう思っているのか……。ただ、一目だけでも……」
私の正直な気持ちを伝えると、カズさんは苦渋に満ちた顔で天井を仰いだ。
「……残酷なもんだな」
「え……?」
カズさんは視線を戻し、真剣な表情で私に向き直った。
「いいか、嬢ちゃん。……里緒菜ちゃん。俺は、間島美名をよく知ってる。昔からのツレだ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。……だがな、お前がこれから聞こうとしてる話は、ハッピーエンドじゃねぇかもしれねぇ。それでも、聞く覚悟はあるか?」
その言葉の重みに、喉がヒュッと鳴る。 ハッピーエンドじゃない。それは、母さんが私を愛していなかったとか、もう会いたくないと言っているとか、そういうことなのだろうか。それとも……。 怖い。耳を塞ぎたい。 でも、真実から目を背けたまま生きていくのは、もっと嫌だ。
私は胸元のネックレスを握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
「……はい。覚悟は、あります。本当のことを教えてください」
私の瞳を見て、カズさんは「そうか」と短く呟いた。そして、静かに語り始めた。
「まず、これだけは言っとく。美名さんはな、お前を捨てたわけじゃねぇ。愛してなかったわけでもねぇ。……それどころか、誰よりもお前の幸せを願ってた」
「え……?」
予想外の言葉に、涙が滲む。捨てられたんじゃない。愛されていた。それだけで、私の長年の胸のつかえが取れるようだった。
「美名さんはな、昔、とんでもなく愛した男がいたんだ。不器用だけど真っ直ぐで、誰よりも強くて優しい男だった」
カズさんの目が、懐かしむように細められる。
「二人は若くして子供を授かった。でも、その男はある日突然、行方不明になっちまったんだ。事故か事件か、それとも神隠しか……誰にも分からなかった」
「行方不明……」
「残された美名さんは、一人でお腹の子を育てようと必死だった。でもな、運命ってのは過酷だ。男がいなくなってすぐ、美名さんのお腹には、もう一つの命が宿ってるのが分かったんだ」
「もう一つの……命……?」
心臓がドクンと跳ねる。
「それが、お前だ。里緒菜ちゃん」
「私……」
「美名さんは若すぎた。実家との折り合いも悪かった。男もいない状態で、二人の子供を育てるなんて土台無理な話だったんだ。周りは堕ろせと言った。施設に預けろと言った。……でも、美名さんは頑として首を縦に振らなかった」
カズさんの声が震える。
「『あいつが残してくれた宝物だから。絶対に産む』ってな。……お前は、望まれて、愛されて生まれてきたんだよ」
涙が頬を伝い、止めどなく溢れる。 私は、愛されていた。母さんは、私を守ろうとしてくれたんだ。
「でも、現実は厳しかった。生活は困窮し、美名さんの体も限界だった。だから……断腸の思いで、お前を信頼できる養子縁組に出したんだ。『この子が幸せになれるなら、私が母親じゃなくてもいい』って泣きながらな」
それが、刈谷家だったのか。育てのお母さんたちが私に優しくしてくれたのも、実のお母さんの想いを受け継いでくれていたから……。
「母さん……。お母さん……っ!」
「会いたいよな? 美名さんに」
「はいっ! 会いたいです! 会って、ありがとうって言いたいです!」
私は身を乗り出した。今すぐ、母さんの元へ駆け出したかった。 けれど、カズさんは悲しげに首を横に振った。
「……ごめんな。里緒菜ちゃん。それは……もう叶わねぇんだ」
「え……?」
時が止まったような感覚。 カズさんの言葉の意味が、うまく理解できない。
「叶わないって……どういう……?」
カズさんは拳を強く握りしめ、絞り出すように言った。
「間島美名は……数ヶ月前、亡くなった」
「――――ッ」
頭の中が真っ白になった。 亡くなった? 死んだ? お母さんが? つい数ヶ月前まで、同じ空の下で生きていたのに?
「う、嘘……ですよね……? だって、私、これから……」
「嘘ならよかったんだがな。……火事だった。アパートが全焼するほどの、大きな火事だったんだ」
「か、火事……?」
その単語を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。 火事。数ヶ月前。 私の脳裏に、洋一くんの顔が浮かんだ。洋一くんも、お母さんを火事で亡くしたと言っていた。 まさか……。いや、そんな偶然……。
「み、美名さんは……最期まで立派だったよ。火の中で、きっと……子供たちのことを想っていたはずだ」
カズさんは、それ以上詳しくは語らなかった。いや、語れなかったのだろう。それが誰による犯行で、どれほど無惨な最期だったかを、娘である私に伝えるには残酷すぎると判断したのかもしれない。
「そんな……そんなぁ……っ!!」
私はその場に泣き崩れた。 やっと見つけたのに。愛されていたと知ったのに。 もう、この世にいないなんて。 温もりを感じることも、声を聴くことも、抱きしめてもらうことも、永遠にできないなんて。
「うあぁぁぁぁぁぁっ!! お母さぁぁぁん!!」
事務所に私の慟哭が響き渡る。 カズさんは何も言わず、ただ静かに立ち上がり、私の背中にそっと大きな手を置いてくれた。その手は、無骨で煙草臭かったけれど、とても温かかった。
「泣け。今は思いっきり泣けばいい。……美名さんも、お前がこんなに大きくなって、会いに来てくれたことをきっと喜んでる」
「会いたかった……っ! 一度でいいから……会いたかったよぉ……ッ!」
涙で視界が滲む中、私は必死に現実を受け入れようとしていた。 母さんはいない。でも、母さんが私を愛してくれた事実は残った。
しばらくして、少しだけ涙が枯れた頃。カズさんがポツリと言った。
「……美名さんが遺したのは、お前だけじゃねぇぞ」
「え……?」
「お前には、兄貴がいる」
「お兄ちゃん……?」
「ああ。美名さんが手元で育てた、お前のたった一人の兄貴だ。……今は言えねぇ事情があるが、そいつも今、必死に生きてる。お前と同じように、苦しみながらもな」
私にお兄ちゃんがいる。 母さんが愛したもう一人の子供。 どんな人なんだろう。会えるのかな。
「いつか……会えますか?」
「ああ。必ず会える。ていうか、もう会ってるかもしれねぇな……」
カズさんは最後の一言を口の中で濁した。
「とにかく、今日はもう帰って休め。送ってってやるよ」
「……はい。ありがとうございました。カズさん」
私は腫れた目で、カズさんに深く頭を下げた。 残酷な真実だったけれど、教えてもらえてよかった。私のルーツ。私の母さんの愛。 ビルの外に出ると、空からは冷たい雨が降り始めていた。 その雨は、私の涙を隠してくれるようで、どこか優しかった。
(お母さん……。私、頑張って生きるね。お兄ちゃんにも、いつか会えるといいな……)
胸元のネックレスを握りしめ、私は洋一くんの顔を思い浮かべる。 今、一番会いたいのは洋一くんだ。彼の声を聞けば、この深い悲しみも少しは癒える気がした。 まさか、その「会いたい人」こそが、私の探している「お兄ちゃん」だとは、この時の私はまだ知る由もなかった。




