シュガー・コート・サンクチュアリ
地獄のような地下室での惨劇から、数日が過ぎたある晴れた休日。 僕は、血と鉄錆の臭いが染み付いた「復讐者」としての仮面を脱ぎ捨て、ただの恋する少年「新堂洋一」として、駅前の時計台の下に立っていた。
今日の空は、僕の心の闇を嘲笑うかのように突き抜けるような快晴だ。 でも、今日だけは……この太陽の光を素直に受け入れたい。今日は、刈谷さん――里緒菜ちゃんとの、久しぶりのデートなのだから。
「ん~っ! 新堂さーんっ!!」
人混みの中から、鈴を転がすような愛らしい声が響く。 振り返った瞬間、僕の世界が一気に色付いた。
「ごめんなさいっ! 待たせちゃいましたか!?」
小走りで駆け寄ってきた里緒菜ちゃんは、まさに「天使」そのものだった。 淡いパステルピンクのオフショルダーブラウスに、ふわりと広がる白いフレアスカート。亜麻色の髪は緩やかに巻かれ、日差しを受けてキラキラと輝いている。いつもの活動的なスタジャン姿も好きだけど、今日の彼女はどこか大人びていて、それでいて守りたくなるような可憐さを纏っていた。
「ううん、全然待ってないよ。僕も今来たところだし……それに」
僕は自然と緩んでしまう頬を引き締めながら、彼女を見つめた。
「今日の刈谷さん、すっごく可愛いよ。似合ってる」
「へっ……!? あ、ありがとう……ございます……」
里緒菜ちゃんはポッと頬を赤らめ、恥ずかしそうに自分のスカートの裾をぎゅっと握る。
「ん……。新堂さんに可愛いって言ってもらいたくて、お洋服、新調しちゃいました! えへへ……」
「そっか。凄く嬉しいよ。じゃあ、行こうか?」
僕は彼女に手を差し出す。
「はいっ! エスコート、お願いしますねっ!」
彼女の小さくて温かい手が、僕の手のひらに重なる。 その温もりが、僕の血管に流れる冷たい衝動を溶かしてくれる気がした。
◇
僕たちが向かったのは、隣町にある人気のカフェ『ラ・フルール』だ。 テラス席があり、季節のフルーツをふんだんに使ったパンケーキが有名で、連日行列ができる店だが、今日は運良くすぐに座ることができた。
「わぁぁぁ……っ! すごい! 見てください新堂さん! メニューが全部キラキラしてますっ!」
席に着くなり、里緒菜ちゃんはメニュー表を広げて目を輝かせる。
「ん~っ、どれにしよぉ……。この『完熟イチゴの宝石箱』も捨てがたいし、こっちの『濃厚ショコラの誘惑』も気になりますぅ……」
真剣な表情で悩む彼女の姿が愛おしくて、僕は思わず吹き出した。
「ふふっ。じゃあさ、両方頼んで半分こしようか?」
「えっ!? い、いいんですか!? そんな贅沢……!」
「もちろん。今日は里緒菜ちゃんを甘やかす日って決めてるからね」
「ん……っ! 新堂さん、太っ腹です! 大好き!」
その無邪気な「大好き」という言葉が、僕の胸を甘く締め付ける。 注文してしばらくすると、テーブルの上には芸術品のようなスイーツが運ばれてきた。 真っ赤なイチゴが山のように盛られたパンケーキと、艶やかなチョコレートソースがたっぷりとかかったワッフルタワー。甘い香りがふわりと漂い、幸せな空間を作り出す。
「ん~っ! 美味しそう~っ! いただきまーす!」
里緒菜ちゃんはフォークとナイフを器用に使い、イチゴと生クリームをたっぷり乗せたパンケーキを口へと運ぶ。
「はむっ……んん~っ!! おいひぃ~っ!!」
彼女は頬に手を当て、とろけるような満面の笑みを浮かべた。 その笑顔こそが、僕にとって最高のスイーツだ。
「ん! 新堂さんも食べてください! このチョコ、すっごく濃厚ですよ!」
里緒菜ちゃんはワッフルを切り分けると、フォークに刺して僕の口元へと差し出してきた。
「ほら、あーん!」
「えっ、あ、あーん……」
少し照れながらも口を開けると、ビターで濃厚なチョコレートの甘さと、サクサクのワッフルの食感が口いっぱいに広がる。
「どうですか?」
「うん、美味しい。……でも、里緒菜ちゃんが食べさせてくれたから、もっと美味しく感じるかも」
「もうっ! 新堂さんってば、さらっとそういうこと言うんですからっ! ……照れちゃうじゃないですかぁ」
里緒菜ちゃんは耳まで真っ赤にして、ストローでアイスティーをかき混ぜて誤魔化している。その仕草一つ一つが、僕の心を浄化していく。
地下室での血生臭い光景が、まるで遠い別の世界の出来事のように思えた。 ここでは、僕はただの幸せな高校生でいられる。彼女がいる限り、僕は人間でいられる。
「ねぇ、新堂さん」
ふと、里緒菜ちゃんが真面目な顔で僕を見つめた。
「ん……。私、今すっごく幸せです」
「……え?」
「お母さんを探してて、辛いことも寂しいこともいっぱいあったけど……。こうして新堂さんと美味しいもの食べて、笑い合ってる時間が、宝物みたいにキラキラしてて……。私、生まれてきて良かったなって、本気で思うんです」
その言葉に、僕は息を呑んだ。 生まれてきて良かった。 僕たちが生まれてきた背景には、龍哉さんと美名さんの悲しい別れがあったはずなのに。それでも彼女は、こうして光の中を歩いている。
「……僕もだよ。里緒菜ちゃんといる時が、一番幸せだ」
心からの本音だった。君がいるから、僕は復讐という地獄を歩ける。君のこの笑顔を守るためなら、僕はどれだけでも手を汚せる。
「えへへ……。なんか湿っぽくなっちゃいましたね! さぁ、残りのイチゴも食べちゃいましょう!」
「そうだね。競争だ!」
僕たちは顔を見合わせ、再び甘いスイーツの山へと挑んでいった。
◇
カフェを出た後は、腹ごなしも兼ねてショッピングモールを散策することになった。 ウィンドーショッピングを楽しみながら、雑貨屋でふざけ合ったり、ペットショップの子犬を見てはしゃいだり。 そんな中、里緒菜ちゃんがあるアクセサリーショップの前で足を止めた。
「わぁ……。可愛い……」
彼女の視線の先にあったのは、ペアのシルバーネックレスだった。 太陽と月をモチーフにしたデザインで、二つを合わせると一つの円になる仕組みになっている。
「これ、素敵だね」
「ん……。でも、ちょっとお高いですね……。中学生のお小遣いじゃ厳しいかも……」
彼女は少し残念そうに眉を下げ、ショーケースから離れようとした。
「待って」
僕は彼女の手を引き留める。
「これ、ください」
「えっ!? し、新堂さん!?」
僕は店員さんに声をかけ、迷わずそのネックレスを購入した。 復讐のために貯めていた資金の一部だが、彼女の笑顔のためなら安いものだ。
「はい、里緒菜ちゃん。これ、僕からのプレゼント」
店を出て、僕は太陽のモチーフの方を彼女に手渡した。
「えっ、えっ!? い、いいんですか!? こんな高価なもの……!」
「いいんだよ。いつも僕を支えてくれているお礼。それに……」
僕は月のモチーフの方を自分の首にかける。
「これなら、離れていても繋がってる気がするでしょ?」
「新堂さん……」
里緒菜ちゃんの瞳が潤み、大粒の涙がこぼれ落ちそうになる。 彼女は震える手でネックレスを受け取ると、大事そうに胸に抱きしめた。
「ん……! 一生、大事にします! お風呂に入る時も、寝る時も、絶対に外しませんっ!」
「あはは、お風呂は外した方がいいかもよ? 錆びちゃうから」
「もーっ! ムードぶち壊しですーっ!」
里緒菜ちゃんは涙目で笑いながら、僕の背中をポカポカと叩く。 その痛みさえも愛おしい。
「つけてあげるよ。後ろ向いて?」
「……はいっ」
彼女が素直に背中を向ける。ふわりと香るシャンプーの匂い。露わになった白いうなじに、僕は震える指先でネックレスをつけた。 太陽のチャームが、彼女の鎖骨の間で輝く。
「ありがとう……洋一くん」
不意に呼ばれた名前に、心臓が跳ねる。
「……どういたしまして、里緒菜ちゃん」
僕たちは人目もはばからず、しばらくの間見つめ合った。 甘くて、優しくて、とろけるような時間。
帰り道、夕焼けが街をオレンジ色に染める中、僕たちは自然と手を繋いでいた。 彼女の手は柔らかく、僕の手はゴツゴツとしている。 この手が昨夜、人を殴り、肉を砕いた手だとは、彼女は知る由もない。
(絶対に守る。何があっても、この温もりだけは……)
「洋一くん、またデートしてくださいね?」
「うん。何度でも、何回でも」
僕たちは約束を交わす。 その約束が、明日からの地獄を生き抜くための、唯一の光だった。
「今日は楽しかったですねぇ~! 帰ったら、お母さんに自慢しちゃおっと!」
「ふふ、そうだね」
無邪気に笑う彼女の横顔を見ながら、僕は心の中で誓った。 君を泣かせる全ての元凶を排除し、この幸せな世界を完成させるまで、僕の復讐は終わらないのだと。
甘いチョコレートのような一時は、やがて来る夜の闇へのプロローグでもあった。 けれど今だけは、この甘美な幸福に酔いしれていたい。
「大好きです、洋一くん」
「僕もだよ、里緒菜」
影が長く伸びる歩道で、二つの影が一つに重なる。 それは、儚くも美しい、仮初めの安息日だった。




