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魔女の妙薬




 エリーゼは東の大貴族の娘、クリスティーネ・ベルンバッハに仕える侍女の一人である。

 ただし毎朝主人を起こし、色素の薄い白金の髪を梳くことが仕事で、お茶会の準備や舞踏会の支度に携わったことは未だない。

 それはエリーゼが下っ端だとか、不出来だとかいう理由ではなく――いくらか抜けたところがあるとは言われるが――主人がそれらを主催したり、参加したりすることがないためだ。


 エリーゼの敬愛する主人、クリスティーネ・ベルンバッハは、呪われている。


 呪い。それは命や精神などを対価に行う儀式の()()である。儀式が成功であろうと失敗であろうと、そこに呪いは必ず発生すると言われている。

 そしてクリスティーネは生まれつき呪われていた。母親の腹から出てきたとき既に、左目の下に、涙の形をした、赤い痣があったのだ。


 シュンデゲリルの呪い、或いはベルンバッハの罪と呼ばれるそれは有名で、幸運にも、あるいは不運にも、それが呪いであるという事実だけは判明した。

 原因となった儀式や術者はわからなかったそうだが、当時――エリーゼはまだ生まれていなかった――大いに噂になったという。

 大昔、神に反した貴族の血族に現れたと言い伝えられている、シュンデゲリルの呪い。それが今になっても現れ続ける、ベルンバッハの一族。

 誰かが言った。まだ、ベルンバッハは神に許されていないのだ、と。


 しかし罪を犯したのは大昔のこと。当時の王にも既に許されているし、そもそも罪を告発したのは当主の息子だったと聞く。罰は当然与えられたものの、王の名のもとに厳粛な処罰を求めた息子を王は気に入り、そのまま次代の当主とした。

 それにエリーゼは当代のベルンバッハ当主を信頼していたし、美しいクリスティーネを姉のように慕っていたので、無責任な噂に惑わされる気はなかった。

 きっと富と権力を手にするベルンバッハ家を妬んだ誰かが、適当なことを言っているに違いない。それが使用人の総意だ。


「エリー。エリーは何処?」

「こちらにございます、お嬢様」


 主人の呼ぶ声。壁際に控えていたエリーゼは、呼ばれるまま傍へ寄った。ベッドから片腕だけ出された弱弱しい手を、そっと握る。

 元より身体が弱く、呪いのせいもあって1日のほとんどをベッドで過ごすクリスティーネの体はひどく華奢だ。日の光を窓越しにしか浴びたことのない肌は、青みがかっているようにさえ見える。

 手の温もりが遠ざかっていくように思えて怖くなったエリーゼは、クリスティーネの手を逃がさないように、温めるように、握りなおした。


「エリー。今日は食欲がないわ」

「シェフに伝えておきましょう」

「そうね……。あぁ、本が読みたいわ。ヨハナ、いる? 伯母さまの書庫から持ってきて」

「かしこまりました」


 主人の要望を聞き、壁際に控えていた侍女の数名が音を立てずに部屋を出て行った。エリーゼはそれを確認して、紅茶を淹れるためにそっと、クリスティーネの手を離した。

 紅茶を飲むのも、淹れるのも好きなクリスティーネが、またベッドから起き上がり、自ら紅茶を淹れられるようになることを願って。

 体を起こしたクリスティーネの背中に、エリーゼは補助するようにクッションをはさむ。

 エリーゼの淹れた紅茶を一口飲んだクリスティーナは、ひと、思い出したように口を開いた。


「ねぇ、エリー。今日ね、伯母様の顔色が悪かったわ。何か知っていて?」

「アルペンハイム夫人はきっと、お疲れなのでございましょう。少し前に、新しい事業を始めたと聞きます」

「そう、そうなのね……」


 クリスティーネの伯母、レオノーラ・アルペンハイムは優秀な女性である。

 昨今の、女性の発言力の増した社会の風潮に乗って、自らの夫や弟――現ベルンバッハ当主――などと共にいくつかの事業を成功させている。

 姪のことも可愛がっており、クリスティーネが母を早く亡くしたことも相まってか、今ではクリスティーネの第二の母のような存在になっていた。

 幼いころのクリスティーネはずいぶんレオノーラを毛嫌いしていたと言うが、今ではそんな様子はない。


「……あぁ、そういえば。事業の一環で、南の方までいってらしたそうですよ」

「南……? それは本当?」


 面白い土産話が聞けるかもしれない。そう続けようとしたエリーゼの言葉を遮るように、クリスティーナは問うた。

 仲の良い伯母の話を聞きたがっているのだと思い、話しすぎた自覚のあったエリーゼは少し焦ったが、特に口止めをされているわけでもない。

 クリスティーナは外の話には良く興味を示すので、その延長だろうと、エリーゼは考える。


「ご当主様から伺いましたから。確かだと思います。南にご興味がおありですか?」

「そう、ね。エリーは詳しいの?」

「そうですねぇ。実家が南に面しておりますから、多少は」


 南というのは中央――王都からみて南にある領土のことである。明確に南という土地が区切られているわけではなかったが、領主の間には暗黙の了解というものが存在した。

 エリーゼの実家は東の大貴族ベルンバッハ家の庇護下にあるから東の土地。そしてその南から西側に面する土地を治める貴族は、南の大貴族の庇護下にあるから南の土地である。

 嫁ぎ先がなかなか見つからず、クリスティーナの侍女になるまでを実家で過ごしていたエリーゼは、家のことにいくらか詳しかった。

 クリスティーナが喜ぶので、エリーゼは聞かれるままに自らの知る限りのことを語った。


「……そう、そうなのね。エリーは物知りですごいわ」

「光栄にございます、お嬢様」

「ふぁぁ……」


 話過ぎて疲れたのか、クリスティーナはあくびをこぼす。

 紅茶のカップを音を立てずにおくと、少し起こしていた体をベッドに預けた。エリーゼはそれを補助するように、背中に入れていたクッションを抜き取る。


「少し眠たくなってしまったわ。……静かに眠りたいの。出ていてもらえる?」


 クリスティーナは一人で眠りたいと言って、侍女たちの退室を求めた。

 さほど珍しいことでもなかったので、それを了承したエリーゼは、クリスティーナの支度を整えると、ほとんどの侍女たちと共に退室した。

 それから疲れていたのか食欲が湧かぬままだったのか、一度起きたクリスティーナは用意された軽食だけを口にして、そのまま眠ったと教えられる。

 エリーゼたちほとんどの侍女は仕事のないまま、各々与えられた部屋で入眠した。

 その夜のこと。


「エリーゼ、起きて。エリーゼってば!」


 囁くように名前を呼ばれ、体をゆすられて、エリーゼは目を覚ました。部屋はまだ暗い。カーテンの隙間からも光は覗いておらず、今が真夜中であることを確信する。

 まだ重たい瞼をこすりながら自分をたたき起こした人物――同室の侍女ヨハナをみると、ヨハナは困ったように眉を下げ、エリーゼを見ていた。


「こんな時間に、どうしたの。明日も朝早いのに……」

「……あの、あのね。さっき、聞いてしまって、その。どうしたらいいか、わからなくなってしまって」

「聞いたって、何を?」


 ヨハナがあまりにも弱った目で見つめてくるものだから、エリーゼはつい、話を聞かなければいけない気持ちになってしまった。

 ベッドに腰かけて、立ったままのヨハナにも隣に座るように促すと、ぴたりとエリーゼに寄り添うように座ったヨハナは話し始めた。

 聞くとどうやら、水を飲みに下の階へ下りる途中で、聞いてしまった話らしい。


「そこにいたのは、侍女長様と、レオノーラ様……あっ、アルペンハイム夫人、の、御付きの侍女の方だったわ」


 ヨハナはもともと、レオノーラ・アルペンハイムに仕えていた侍女の娘で、母親の影響か、たびたびこういった言い間違いをした。

 そんなヨハナが御付きの侍女に見覚えがあっても不思議はないと、エリーゼは話の続きを促した。


「その、クリスティーネお嬢様の体調が、悪化したって……」

「……珍しいことではないでしょう。心配ではあるけれど、お医者様もいらっしゃっているでしょうし、私たちが騒いだって逆効果だわ」

「そうじゃ、ないの。違うのよ」

「今回は、そんなにひどいの……?」


 ヨハナの目を見つめていると、エリーゼの心に、不安がじわりじわりと湧き上がる。

 身体が弱く、呪いに侵されたクリスティーネの体調が悪くなるのは、決して珍しいことではない。担当の侍女もついているだろうし、主治医だっている。

 自分たちにできるのは、しっかり体を休めて与えられた仕事を全うするだけである。ずいぶんと前にそう、同僚と共に決めたはずだった。


「呪いが、進行している、って」

「……うそ」

「本当よ。だって、侍女長様が、そうおっしゃっていたもの!」


 ぐらりと視界が揺れて、こちらを見つめるヨハナの目に心が吸い込まれてゆく心地がした。

 呪いが進行している。それはこれまでの体調不良とは、話が違った。そもそもシュンデゲリルの呪いというのは、有名な割に何が起こるのかわかっていないものである。

 身体の一部を媒介にして呪いが発生し、その周辺の表皮に赤い痣ができる。エリーゼが個人的に調べてわかったのは、それだけだった。

 呪いにかかったものの末路は、まともな話を聞かない。一族そろって処刑されただとか、真実かどうかも怪しい重罪で国を追われただとか。不幸な巡り合わせのもと生まれてきたとしか思えない者ばかりだ。

 そんな呪いが進行してしまえば、クリスティーネは、きっと……。


「ごめんなさい、こんな時間に起こしてしまって。話してみたら落ち着いたわ」

「そ、そう……」

「考えてみれば、呪いのことだって、私たちにはどうにもできないのよね……。あぁ、魔女の妙薬でもあればいいのに!」


 そう言って、ヨハナは自分のベッドへ帰っていく。エリーゼは唐突に終わった話に拍子抜けしながら、ベッドにもぐりこんだ。

 天上を見上げていると、ヨハナの寝息が聞こえてくる。すっかり眠ってしまったようで、エリーゼは人騒がせな子だとため息をついた。

 眼が冴えてしまって眠れないまま、時間が経つ。考えるのは、クリスティーネの呪いのことだ。エリーゼにも、自分にはどうにもできないことなど、わかっていた。

 ふと、ヨハナの言葉が頭をよぎる。どんな怪我も病も呪いも治す、魔女の妙薬。

 あれはおとぎ話だ。一瞬考えてしまったことを忘れようとして、エリーゼはいつか、レオノーラが話していたことを思い出した。


『魔物の森に、魔女はいるわ。貴族のお前の願いなら、聞き届けてくれるかもしれないわね』


 それはレオノーレが、クリスティーネに言ったセリフだった。

 盗み聞きをしていたようでエリーゼは居心地が悪かったが、その日のレオノーラはやけに声が大きかったのだ。きっと他の侍女も聞いていたに違いない。

 もし、もしも。魔物の森の魔女が、クリスティーネの呪いを解いてくれるのなら。それに縋ってしまいたいと、エリーゼは思う。




 早朝。エリーゼは昨夜のことが夢だったのではないかと思うほど、いつも通りに目が覚めた。ヨハナの様子も普通で、疲れていた自分が見た悪い夢だったのだと、思おうとした。

 しかし、交代の侍女のところへ向かう途中、同刻担当の侍女らと共に、侍女長に呼び止められる。険しい顔をした侍女長は言った。


「お嬢様のお体の調子が芳しくありません。お前たちは部屋で待機していなさい。一歩も、部屋から出てはいけませんよ」


 異議も質問も許さずに、侍女長は背を向けて歩いていく。

 そんなことを命じられたことは一度もなく困惑したものの、念を押されたからには必要なことなのだろうと、エリーゼたちは部屋へ戻った。

 同室のヨハナはいない。愛嬌のあるヨハナは人に気に入られているし、閉じ込められるのではなく他の所で仕事を与えられているのかもしれないとエリーゼは考えた。

 しかし一人でいるには少し、不安である。


「……呪いって、そんなにひどいのかしら」


 声に出してしまうと、余計に不安が湧き上がる。

 忙しいはずなのに、侍女に仕事を与えず部屋に閉じ込めるなんて、大変なことが起こっているに違いない。いやな想像ばかりが捗った。

 ヨハナの、昨夜の目が頭をよぎる。

 クリスティーナの呪いを解くには……。


「……魔女の妙薬」


 次の瞬間、なにかに突き動かされるようにエリーゼは部屋から飛び出した。誰か知った顔とすれ違った気がしたが、エリーゼにそれを気にする余裕はなかった。

 ひたすら走って、屋敷の外に飛び出した。足がどれだけ傷んでも走り続けた。行き先もわからぬまま……。

 そしてエリーゼが気づいたときには、目の前に、深い森が広がっていた。境界線のように、木の生えているところから、土の色が違う。


「黒い……魔の大地。魔物の森だわ」


 場所は知っていた。国の北東部。クリスティーナの住む屋敷からそう遠くなく、広大で、入ろうと思うなら簡単だ。しかしエリーゼはこの場所を訪れたことなど、一度もないはずだった。

 ふらり、ふらりと何かに導かれるように、エリーゼは魔物の森に足を踏み入れる。


「こっち……? いいえ、こっちね」


 ぎゃおぎゃおと魔物鳴き声の響く不気味な森の中を歩き、ときには必死に走り、エリーゼは進んだ。

 ()()()質の悪い魔物に出会うことなく。靴やスカートはボロボロで顔も体も擦り傷だらけだが、致命的な怪我をすることもなく。

 伸ばした手の指先も見えないような霧の中を彷徨い続け、ふとエリーゼの心に、これまでとは異なる不安が過った。


「……帰り道が、わからないわ」


 不安に襲われて、森の中でひとり、立ち止りかけたとき。霧が晴れた。

 急に視界が広がり、驚いたエリーゼはうつむいていた顔をあげて周囲を見回した。そしてついに立ち止った。

 そこには探しもとめていたはずの、森の洋館があったのだ。


「ほんとうに、あった……」


 それは安堵か喜びか。体の底から出たような深いため息を吐いた。それが魔女の洋館だと決まった訳でもないのに。

 エリーゼはまた、歩き出す。洋館の重々しい両開きの扉が、開いたのだ。まるでエリーゼを、歓迎するかのように。





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