魔女の妙薬
『太古の時代、唯一神に選ばれた人間の王は魔物によって失われた国を再生した』
創世神話に並び世界中に知られる『神王国建国記・訳』の一文である。
唯一無二にして至高の神、創世神は類まれなる創造の力でもって世界の万物を生み出した。その神の名のもとに、大昔、国を作りあげた偉大なる王がいた。幼子の寝物語に必ず語られるほど有名な話だ。
かつて、実り豊かな大地と森を魔の者たちに奪われた人間は、不毛の大地に散り散りになって命を繋いでいた。しかし人間というのは実に弱い生き物で、弱くて小さな群れはひとつ、またひとつと住処を失い命をも落としていった。
それを哀れんだ神は、せめて人間をかつてのひとつの群れに帰してやろうと、その頭に足る個体に加護を与え、ただ一度だけ神託を下ろした。それは人間の集団の中では比較的大きな群れの、しかし下っ端も下っ端の若い青年だった。青年は賢かったが少々体が弱かった。働き手を求めていた当時、満足に労働をこなせない青年のような者の立場は随分と低かったという。
神託を受けた青年はその持ち前の頭の良さで、自分の居た群れを中心に人間を集めていこうと考えた。しかし唐突に神の名を騙り出した青年を信じるものは誰もおらず、群れを追い出されてしまう。
それから食べ物も持たずに大地を彷徨い続け、ある日命を落としかけた青年を、とある少女が救った。後の初代王妃にあたる人物である。
小さな村の村長の娘だった少女は、自分の僅かばかりの食べ物を青年に分け与えた。目の前で死ぬゆく人間をまだ幼かった少女は見捨てられなかった。そして村では病が流行っており、働き手がほとんど倒れてしまっていたために、自分の食べ物が無くなったとしても、決して屈強とは言えない青年にでさえ出来ることなら縋りたかったのだ。
少女の小さなの打算と大きな厚意を受けた青年は考えた。それから自らのもつ神の加護に思い至り、少女の為に飲まず食わずで三日三晩神へ祈り続けた。
すると村のものたちは次々に回復し、例に漏れず不毛の大地に違いなかったそこには僅かばかりであるが、緑が生まれた。村人たちは青年に深く感謝し、青年の語る神託の話を信じた。
青年と共に慈悲深い神のために在ろうと考えた村人たちは青年とともに神から賜った緑を広げるために尽力し、神の緑の大地に少しずつ他の人間たちを迎え入れた。それはいつか青年を追い出した群れの者も例外ではなかった。
欲を出してその土地を奪い去ろうと考えた者もいたが、青年から奪い去られた大地は等しくかつての荒れた土地へと戻ったという。
そしていつしか世界を纏め上げた王を民は敬愛し、皆跪いた。国民は隣人を愛し、世界には神の望む平和と調和が生まれた。かつて不毛の大地だった国土は神に愛された土地として今もなお、神の力が宿っている。
建国記に語られる賢王の末裔が治めるエンベルリット神王国。その国土は決して広大であるとは言えなかったが、作物の育ちにくい土地の多い大陸の中では他に類を見ないほど豊かだった。
建国記と豊かな大地を除けば、神王国はただの小国である。奪い去ってしまおうとする者も当然、少なくなかった。
しかしその領土を治めるにはいくつかの越えなければいけない壁が存在した。問題を抱え込むだけになりかねないその土地を積極的に欲しがる国は存在しなかった。ほんの数年前までは。
帝国と呼ばれる国がある。神に選ばれし王の国から大地を奪い去ろうとした者たちから始まったとされる、戦狂いの大国だ。大地の恵みを独占する卑しい群れとして神王国を定める帝国は、ついにエンベルリットに隣接する小国群のいくらかを併合した。
かつて小国連合の一員で、武力によってそれを乗っ取った頃と変わらない戦狂いは、長年指をくわえて眺めていることしか出来なかった実り豊かな土地を目指して、ついに攻撃を開始することに決めてしまったらしい。
軍を向かい合わせた戦争にまでは至っていないものの、帝国がそれを目的としていることは明らかで、神王国側としても、帝国をいつまでも放置しておくことはできなかった。
ただでさえ神王国には、軍を遊ばせておく余裕などないのだ。――その原因がこれまで神王国を戦から遠ざけていた一因になっている、というのは実に皮肉な話だが――神王国はそれまでの平和に終止符を打ち、対人間との戦争を始めることを決意したのだった。
さて、神王国はついに帝国との戦争に踏み切ったわけだが。今回、この物語の中心は、残念ながらそこではない。
大事なのは神王国が抱える大きな問題そのものであり、神王国が手を焼きながら、神王国を他国の魔の手から守り続けていた、原因である。
エンベルリット神王国は――事実はどうあれ対外的には――神に守られた国である。
国内だけでなく他国にまでそう言われるのには当然、実り豊かな土地を持つと言うだけでは弱い。そうは思わないだろうか。
なぜ声高に神の名を叫ぶことが出来るのかといえば……いや。この物語を読んでいる諸君には先に、この世界の当たり前の話をしてからの方が良いだろう。
この世界――今は仮にアーセベルクとしよう――は諸君の住む世界とは異なる魔の次元が存在する。簡単に想像するなら、世界が二重になっていると考えてくれればいい。
そのため――難しい説明は省くが――魔法という超化学的な現象が起こり、魔物と呼ばれる不可思議な生命体が生息している。
それは人間という非魔法生物――人間は生身で魔法を扱えない――には到底制御不可能なもので、自然災害や獣害と同じように、各地で被害が発生するのだ。
ではここでエンベルリット王国の話に戻ろう。
おおよそ予測がついている者もいるだろうが、エンベルリット王国ではそんな意図しない魔力災害が発生しないのだ。
諸君の世界の話で例えるのなら、なぜか自然災害が一度も起こったことのない、豊かな大地をもつ国の起源が神に選ばれた王の誕生であるとしよう。
未だ魔の次元についても科学についても発展途上のアーセベルクの者たちが、それを神の御加護だととらえることは、不思議ではない。
さて、ではなぜ神に選ばれし王が必要で、なぜそんなエンベルリット王国が今日まで生き残っていたのか。
これもまた、魔の次元の存在によるものである。
エンベルリット王国の北部には、深い深い魔の森がある。その森を閉じ込めるように王国は存在し、森の向こう側は誰も知らない。
きっと海が広がっているはずではあるのだが。
それは危険な森である。その森から他の地を守るために、神は王を選び、王国が誕生したとされているほどに。
人知を超えた秘宝が眠り、人間を襲う恐ろしい魔物が湧き出る、不可思議なその森にはなにかが住んでいる。
夢を追い求めた数多の冒険者がその謎に挑みながら、未だ全容は知られていない。
エンベルリット王国はその森からあふれ出る魔物たちを抑え、その森が神の土地に浸食していくのを防がなくてはならないのである。
この王国には数十年に一度、魔物の天敵である勇者が生まるため、辛うじて神に与えられし使命を果たすことが出来ているという状況だった。
さて、そんな魔の森だが。一攫千金の夢を見る命知らずな冒険者たちには、宝の山に見えるらしい。
人間に分不相応な夢を見せる、魔物の森に纏わる様々な伝説は、虫を呼び込む蜜のようにいつしか何処からか湧き出した。
当然忘れ去られたものもあれば、なぜか根拠もないのに広く知られているものも存在する。
そのうちの一つ。魔女の妙薬と、魔女の洋館。
森のどこかに、どんな病も治してしまう妙薬を作る、魔女がいる。その魔女が住む、霧に包まれた洋館は本心から薬を求めるものにしか見つけられず、仮にみつけたとしても、魔女の機嫌を損ねれば……。
それは何処にでもある超常的なおとぎ話のひとつであり、ほんの一握りの権力者が信じている秘密だった。
――そして。
その魔女の洋館は、庭師もいないのに美しく整えられた庭園と共に、今日もそこに鎮座している。
噂のように人を選別する能力は無いものの、濃い霧と生い茂った木は、確かにその場所を覆い隠していた。
古ぼけているようでいて品のいい洋館には、まるで装飾のひとつのように毒々しい見目の黒薔薇が絡みついている。
その庭先に、また一人、人間が迷い込んだ。
魔物を躱し、目的地も分からぬままに霧に覆われた森の中をひとり歩き続けるのは、仮に鍛えた大人の男でも容易ではない。
もしもその人間が、この洋館だけを目指して歩み続けて来たのなら、その運と執念はきっと確かなものだろう。
魔物の森を訪れるには、やはりいささか軽装なその女は、唐突に晴れた霧と目の前に現れた洋館に、動きを止め、呟いた。
「ほんとうに、あった……」
それを洋館の窓越しに眺めていた魔物の森の魔女――アメリアは、光のない目を細め、笑う。
それから手にしていた本と紅茶のカップを机の上に放置して、黒のローブと魔女らしいとんがり帽子をかぶった。
「人間のお客様よ。エル、ローズ。丁重にお迎えして」
アメリアの言葉に、洋館と黒薔薇が応えた。迷子の子羊――軽装の女の目の前で、ひとりでに洋館の扉が開いていく。
女が足を進めるたび、導くようにひとつ、またひとつと蝋燭の火が灯る。
魔女の館に迎え入れられた人間の末路は、噂通りの地獄か、あるいは……。