1.獣人王子は番嫌い
誰かがいる気配がする。
正確には声がして、すみれは意識を浮上させた。
うっすらと目蓋を上げれば、何やら四方にカーテンが引かれた、肌触りの良いベッドに寝かされているようだった。
(薄暗いのはカーテンのせい? それとも夜なの?)
状況を把握したいと這い出た先の光景に、すみれは驚愕した。
寝ていたのは天蓋付きのベッドで、とても一人で寝るようなサイズではなかったし、テーブルも椅子も、置かれている本棚や花瓶、絵画に至るまで豪華絢爛。まるでお姫様の部屋だ、とすみれはごくりと唾を飲み込んだ。
ベッド脇に置かれていた柔らかな靴を履き、息を殺して声のした扉へと近付くと、怒鳴っている少年らしき声が明確になって耳に届いた。
「なぜ僕に黙って番召喚を行った!! 僕は番などいらないと、あれだけ言ってあっただろうグレイール!!」
「しかし殿下。我が国は運命の番を伴侶に選んだ者しか、王位につけないとわかっておいででしょう? 第二王子殿下の番はまだ見つかっておられぬご様子。先んじて番を得て、立太子に備えねばならぬのです」
「僕は王にならない! 何度も言っているだろう! フランシスを王にすればいい、と!!」
叫ぶ声はまるで慟哭のようで、すみれの胸がぎゅっと締め付けられた。
(……泣いているみたい……)
「殿下……フランシス殿下はまだ三歳ですぞ。王位を継げるまで十七年もあります。お歳を召された王には酷な話でありましょう」
「不敬だぞグレイール。それを言うなら僕だってまだ九つだ。それに……父上だって、愛しい番との間に産まれたフランシスに王位を継がせたいに決まっている」
「またその様な……王は前王妃との間に産まれた貴方様の事を、愛しておいでですぞ」
どうだか……とそこでアレクシス王子の声が止み、靴音が近付いて来てすみれは焦った。盗み聞きが露見したのだと分かっても近くに隠れる場所もない。
しかし予想に反して、扉が開かれることはなかった。
「気がついたのか」
「すすすスミマセン、盗み聞きするつもりは、無かったんです」
「いや、隣室で大声を上げていたこちらの過失だ。……僕はこの国の第一王子、アレクシス・ウォルト・バルトゥーラだ」
「あ、えっと、佐倉、すみれです」
「スミレ殿、聞いていたと思うが、僕は君と会うつもりはない。すみやかに元の世界に帰ってもらう事になる。こちらの勝手で呼び出しておいて申し訳ないが……説明はグレイールからあるだろう。それでは」
そう言いながら何故名前呼びなのだと思ったが、彼の名乗りを思い出しファーストネームが先にくる文化なのだと、自分の失敗を悟るが後の祭りだ。
靴音が遠ざかり、聞こえなくなった後。違う扉からノックされて飛び上がった。目の前の扉とは別に入り口があることに今更気付き、そちらが鳴らされたのだと、一拍置いて飲み込めた。
おそらく王子と一緒にいたグレイールという人だとは思うのだが、どうして目の前の扉を叩かなかったのかが分からなかった。
「番様、グレイールでございます。入っても宜しいですかな?」
「は、はいっ」
開かれた扉の先にいたのは、確かに最初に恭しくお辞儀をしてきた鹿角のおじ様だった。後ろには侍女らしきメイド服の女性が数人控えていて、その子達も皆、獣耳をしていた。
(猫、狐、鼠、かな……)
ついジッと見つめてしまっていたが、すみれの視線に気付いた侍女達は優しく微笑み、お茶とお茶菓子をテーブルに用意して直ぐ退室して行った。
「どうぞお掛けくだされ、番様」
グレイールに促されるまま、座るのを躊躇いそうな──木製の華奢なフレームに布張りの座面が花柄をした──ソファーに腰を下ろした。
木彫りのフレームには流れる水のような模様が彫られていて、綺麗だなぁと現実逃避していたら、遅れてソファーに腰を下ろしたグレイールがゴホン、と咳払いをした。
「先程は……大変失礼をいたしました、番様」
「……あの、まずその番様って、何ですか?」
「ああ、詳しい説明もせず申し訳ございませぬ。
この獣人の国では、女神によって定められし伴侶の事を、番と呼ぶのです」
「はあ」
グレイールの話は続いた。女神様によって祝福を受けた男女を運命の番と呼び、魂を分けた存在で、死が二人を別つまで愛し合うのだと。
とはいえ絶対に出会えるものではなく、平民などは普通に恋愛して結婚する者達の方が多いらしい。
元々この国の王様も番を探していたが見つからず、三十を目前に隣国の王女と政略結婚をして、アレクシス王子が産まれた。
しかしその数年後、魔術師達によって番を探し出す"番探知"なる魔術が読み解かれ、使える運びとなった。
それは水盆に番の姿と居場所を映すことの出来る魔術で、それに興味を持ってしまった王妃様が密かに使わせた所──その水盆に映った番の姿にまんまと惚れ込み、密かな逢瀬を重ね……結局二人で駆け落ちしてしまったらしい。王妃の地位と、自分の産んだアレクシスすら捨てて。
一度番を知ってしまえば、出会ってしまえば、引かれ合うのを止められない。何もかもを失ってしまっても、愛する一人と共にあることを選んでしまうという。
だから番に今回のように連れ添いがいても、『相手が番なら仕方ない』と咎められもしないらしい。
(それは、何だか怖いな……)
すみれは寒くもないのに、ぶるりと身体が震えるのを感じた。
「王妃様のことと、その探知魔術の解読により法律が変わったのです。このような悲劇を繰り返さないよう、王になる者は必ず番を伴侶にするようにと」
変わった法律の為に、王自身も番を探す魔術を使わざるを得なかった。初めは王妃に出て行かれて消沈していた王も、水盆に映った番の姿を見て恋に落ち、彼女を王妃に迎え第二王子のフランシスが産まれたのだと。
「この国には"女神信教"と呼ばれる物があり、中には番絶対主義を掲げている者もおるのです。その教徒達が運命の番の子であるフランシス殿下を王位につけようと画策しておりましてな……。
アレクシス殿下には一刻も早く番様を妃にし、立太子を確実にしていただかねばならなかったのですが……」
アレクシスは自分を捨てた王妃に、そして一年と経たず番の王妃を迎え入れた王にも失望した。
女神信教教徒から命を狙われ、第二王子を王にと声高に叫ばれて、全てがどうでもよくなったのだろう。
フランシスが産まれる前はせめて番を伴侶にして立太子をと番探知を使ったものの、水盆には何者も映らなかった。それを王子は"王になる資格無し"と受け取り、全てを諦めてしまったのだろうとグレイールは悲しげに語った。
「しかし先月、番を別の世界から召喚する術を読み解きましてな。それを受けて、殿下の番様が水盆に映らなかったのは、異世界の女性だったからではないかというのが我々魔術師の見解でして。殿下は今更だと反対なさったのですが、わたくしが強行し、今日の運びとなったわけです」
(強行しちゃったのかー……それじゃ王子も怒りたくなるよね)
「えーっと、その王子様には帰れと言われましたが、帰りたいと言えば、帰れるのですか?」
「………ええ、それは、もちろんでございます。召喚の時と同じ状況で、というのが条件にありますので、来年の今日まで、お帰りいただけないのですが……」
「一年帰れないって事ですか!?」
「申し訳ありませぬ……」
一年も帰らなかったら高校の卒業も大学への進学も出来ないし、家族は心配するし、それはもう困るのだが、まだ一年後に帰れるだけマシかも知れないと思い直した。
こういう場合、大体が一方通行で、二度と元の世界に帰れない話が多いからだ。主に漫画や小説の話だが。
「ええっと、その間の、衣食住は保証されると思っていいのでしょうか」
「それはもちろんでございますとも! 部屋はこちらをお使いくださいませ。この区画でしたらどこを歩いていただいてかまいませんし、護衛も出来る侍女をお付けしますので安全も確保いたします。衣装も最高級の物のご用意を……」
「ちょ、ちょっと待ってください。私は王子様の番にはなれそうにないですから、そこまでしていただくのはちょっと……最低限のご飯と服をいただければいいので。……出歩けるのは有り難いのですが」
さっきまでの喜びようはどこへやら、しおしおと項垂れていくグレイールは「そうでした、番様は元の世界に帰りたいのでしたな……」と呟いた。
「せめて、遠目でも良いのです。一度殿下を見ていただけませぬか。それで何も感じないのであれば、我々も諦めますゆえ……」
「私は獣人ではないのに、番がわかるのですか?」
「もちろんですとも! 過去に番召喚で出会った二人も、お互いが番だと直ぐにわかったと歴史書に記されております」
へぇーと思いながらも了承した。番だかなんだか知らないが、さくっと確認して違うとわかってもらえれば、帰還を邪魔されることもないだろうと考えてのことだった。
その逆だった場合のことは今考えても仕方ないし、そうであってもあの王子の様子だと結局帰ることになりそうだ、と思ったのも確かだった。
(番じゃないとわかった時、周りの態度がどうなるかはちょっと怖いけど……今だって王子にとっては不要な番だし。衣食住は保証すると言ってくれたのを、信じよう)
しかしそれ以降王子とは会うことも、すれ違うことすらもなかった。
どうやら番同士が瞳を合わせると本能に従ってしまうと言われているかららしい。あの扉越しの会話はそれを防ぐ為だったのかと納得した。
そういう理由で彼はすみれと顔を合わせるのを酷く厭い、間違ってもそんなことが起こらないようにと隣国への留学を整えて出て行ったのだと。
グレイールは涙ながらに謝罪して来たが別に良かった。何ならどっちつかずになった現状を歓迎すらしている。
王子がいないなら鉢合わせを気にせず歩き回れるし、護衛連れなら城下町におりることまで許された。
部屋に籠っている時以外は魔術の粋を尽くした偽物の黒猫獣耳と尻尾(どちらも動く)に、獣人の匂いのするらしい香水を振り撒いているから、誰も異世界の人間だとは思わないだろうというのがグレイールの談だ。
しかし国民の血税で好き放題買い物する気にはなれなかったので、皿洗いでも掃除でもさせて欲しいと頼んだら大反対されてしまった。
王子の番にそんなことさせられないとかなんとかくどくど言いつつ泣くグレイールを見て反省した。おじ様の涙腺が弛すぎる件について物申したい。
(まあ、諦めてはいないんだけど)
結果お金は遠い故郷から呼び寄せてしまった慰謝料、という名目で毎月もらえることになったが殆ど手を付けていない。
微妙に"なら貰っていいかな"と思ってしまいそうな名目なのが実に腹立たしいとすみれは思っていた。
このお金を使おうと思う日なんかきっと来ない、とも。
──しかしその"日"は、思ってもみない出会いと共に訪れるのだった。