9.本能の断片
若干ふらつきながらも自分のロープをナイフで切ったミアは、直ぐにすみれの手と足のロープも切ってくれた。彼女の腕の傷を見て、痛みを堪えるような顔を一瞬だけ見せたが、直ぐに立て直す。
「ありがとう。……でもこれ……外しても大丈夫なのかな? 今誰か来たら……」
「近付く気配がしたら、直ぐ抜け出せるように結び直しますよ。安心してください」
さも簡単なことだとでも言うように、カイルがパチンと片目を閉じてみせる。
(よく見たら、この人もイケメンだ)
うっかりさんなのとこうしてウィンクしてくる軽薄さで台無しな気もするが──歳はすみれより二・三歳上だろうか。少し長めの黒髪に青い瞳の美形だった。ラフな格好をしてはいるが、筋肉がついた胸板が服の上からでも見て取れた。ジッと見すぎたのかカイルと目が合ってしまい、フ……とにこやかに微笑まれた。
「そう言えばきちんと自己紹介していませんでしたね。オレはカイルといいます。こんなことになってますが、一応ルト様の護衛をしています」
「あ、私はレミィです。で、護衛をしてくれてる……ミミです」
咄嗟にいい偽名が浮かばなかった。ミアはフードを目深に被ったまま「故あって顔を晒せませんが、お許しください」と頭を下げた。
「構わない。いつもは僕らの前に姿を現さなかった君だ。何か深い理由があるんだろう」
そう言ってゆっくりと頷くルトを見てざわりと胸が騒いだ。
(深い理由……か。私から、本当のことを話すべき、よね……でも……)
今はそれどころではない。ここから無事に脱出出来てから考えようと、脳内会議を打ち切った。
牢屋は蝋燭の炎だけで薄暗いが、膝を付き合わせる距離で時計回りにルト、すみれ、ミア、カイルの順で座っている為、お互いの顔は何とか見える。
「……ねぇルト、作戦って言ったけど──またあの香を使われたら結局昏睡しちゃうんじゃないの?」
「使われるとわかっていれば対処できるよ、大丈夫だ。連れて行かれる"少年"とやらが、僕であればいいのだけれど」
院長が言った"昨日の少年"。この牢に少年と呼べそうな子はルトと、もう一人眠ったままの男の子だけだ。
もし彼のことだったら、この牢を出されそうになる時に何とかしなければいけないとルトは言う。
「……ルト様、それが貴方だったとして……助けに行くまで、ご奉仕させられないよう気をつけてくださいよ」
カイルは不服顔だ。主が危険に晒されるのを容認する護衛などいないからだろう。
(ご奉仕……)
「カイル! おま……女性の前でなんて事を……!」
「けどどう考えてもそうでしょうよ!
声も上げられない弱い存在を蹂躙したがるクズは貴族に掃いて捨てるほどいる。こんな孤児院であんな綺麗な風呂があるんだ。あそこで磨かれて猛獣の檻に放り込まれるんだろ。…………虫酸が走る」
(ああ……)
やっぱりそうだったんだ、とすみれは俯いた。杞憂であればいいと、そう思っていたのに。
「絶対、絶対あの院長をここから追い出す……っ 子供達の笑顔を見られるまで、出来ることは全部する……!」
(私が泣いたって仕方ないのに)
これから何が起こるかわからないのだから、泣いて体力を消耗するなんてバカだ。でも止まらなくて、ミアが背中をソッと撫でてくれるのも相まって暫く止まらなかった。
涙が止まると今度は酷い羞恥に襲われて、すみれは俯きっぱなしだった。
「ごめん、泣いたりして……」
「いや。カイルの配慮に掛けた言動を謝罪するよ。
君は優しいから……この孤児院は、僕らだけでなんとかしようと思っていたんだ。昨日、先んじて訪問したのもその為だった。まぁ……結果はこんなことになった上に、君達まで危険に晒すことになってしまったんだけど……」
悔しそうに唇を噛むルトの、その唇に目が引き寄せられる。
「止めて……ルト達まで危険な目に遇わせたのは後任を頼んだ私のせいだよ。それに、私……優しくなんかない。ただの自己満足でここにいるの。その証拠に、後二ヶ月で無責任に去るんだもん……」
さっき止まった筈の涙が、弛んだ涙腺の境界を悠々飛び越えてきそうになって、すみれは今度は自身が唇を噛んだ。プツ、と皮膚が破れた気がする。
「レミィ、血が」
隣からルトの手が伸びてきたと思ったら、すみれの両頬を押さえられて──ペロリと、唇を舐められていた。しかも一回じゃなく、まるでそうすれば傷が治ると信じるように、何度も舌で撫でられた。
カチン、と凍ったようにすみれの身体が固まる。
(こっ、これは、あれだ! コタロウにペロペロされてると思えば……!)
柴犬っぽい見た目の、厚揚げ色の可愛い愛犬を頭に思い浮かべるが、銀色の耳と紫の瞳が近くに在りすぎて直ぐに霧散してしまう。
(待ってコタロウ~!)
「ルトっもうだい……んむっ!?」
何とか止めようと口を開けば、傷口を舐めていた舌が咥内へと入ってしまった。流石にルトも驚いたように瞠目したが、構わず続ける。
(!!!!????)
「ちょ、でん、ルト様、ストップ、ストップ! これ幸いとマーキングしない!」
慌てたカイルが引き寄せて、やっとルトが離れた。耳がピンと立って、視線はまるで強制力でも働いているかのように逸らせない。紫の瞳は瞳孔が大きく開いていて、頬が紅潮して息が少し乱れていた。
対するすみれも同じようなもので、真っ赤な顔をして口許を両手で覆って、混乱する頭を必死に落ち着かせようとしていた。
暫く沈黙がつづいて、やっとルトが口火を切る。
「ごめん。……血を見て、ちょっと我を喪失った。……怖がらせて本当に、ごめん……」
(ルトの耳が、凄いペタンこになってる……)
コタロウが悪戯しちゃった後の耳と似ているのを目にして、すみれもやっと固まっていた身体が元通りになっていくのを感じていた。
「ううん、心配してくれてありがとう」
(血を見てあんな風になるんだ、獣人て奥が深いなぁ……)
ふとミアに視線をやると、俯いていて顔は全く見えないが、よくよく観察すると身体が細かく揺れていたので、きっと笑いを噛み殺しているなとすみれは思った。
(もー、他人事だと思って!)
「こほん。じゃあルト、あの香への対処法のことと、後もう一つ教えてもらいたいことがあるんだけど──」




