その三(完)
最後の夜、彼は先輩と二人寂しくひっそりと惜別の宴を開いていた。
店は無論行きつけのお婆さん女将と孫のさっちゃんとで切り盛りしている例の店である。
先輩はさすがに笑顔も少なく、ひどくやつれていた。
彼もこの数ヶ月で少し痩せた。冷静になろうと自身に言い聞かせながらも食事が喉を通らない日がちょいちょいあった。
店に入りいつものカウンターに腰を落ち着けると思わず二人、ため息が出た。
去年の秋から年が明けて梅が儚く咲いている。ひどく長い時間が過ぎた気がした。
それぞれ次の仕事はかろうじて決まった様子である。彼は正社員の待遇を失い、賃金もぐっと下がった契約社員として今の会社にしがみつく事になった。
先輩はというと、やはり来ていた契約社員の話を振ったという。どうしたのかと思えば、なんと実家の農業を継ぐのだという。
以前からぼんやりと考えてはいたらしいが、ここに来てやはり彼と同様に何処からも良い返事を貰えず、踏ん切りがついたのだそうだ。実家に電話して話した時の両親の弱った声も弾みになったという。
親父ももう八十だもんな…。実家で両親の面倒を見ながら一緒に暮らす最後のチャンスじゃないかと思ったんだ。だけどこの先農業だけで生きていけるのかなぁ…。やはり向こうで何か仕事をしながらの兼業農家でやらないとキツいかもな。まぁ、やるだけやってみるしかないよ。お前も俺も、もう人生の後戻りは出来ないんだからな。
そう言って、気弱く笑った。
まぁとりあえずお疲れ様と、キンキンの冷たいビールで乾杯した。ほろ苦いのど越しが堪らない。
こんなときでも、いや、こんなときだからこそ、寂しい空きっ腹にビールがやたらと沁みた。
彼等は少し元気を取り戻した様子である。二人とも顔を見合わせて、はは、と小さく笑った。
やはり酒は憂いの玉箒である。やがてピッチがあがるに連れて、いつもの調子が出てきた。
じゃんじゃん飲もうよ。おばさん日本酒熱燗三合ちょうだい。あ、あとはおでん盛り合わせカラシ多目でね!等と威勢良く注文して、わははと笑う。
おばあさんもハイよと受けて、二人とも、まだまだ若いんだから大丈夫よ。お酒飲んで元気を出しなさい。等と明るく励ましてくれたものだから、二人、大いにはしゃいだ。
それは一見やけくそにも見える飲み方であった。明るさは滅びの姿であろうか。太宰が確かそんなことを書いていた。
確かに滅び行く者達の悲しくも陽気な宴の様相であった。
酒も大分進んで、無言の間ができてしまった。こういう時の無言は大敵である。心の隙間に不安が入り込んでしまうのだ。
やはりふっと明日からのことが頭をよぎってしまった。それ以前に二人には共通した喫緊の問題があった。どちらからともなく、その話題にならざるを得なかった。
妻や家族になんて話せば良いんだろう。
臆病な二人はいまだ家族にもリストラの話を切り出せないまま今日を迎えてしまったのだ。
問題は妻だよなぁ…。
先輩も頭を抱えていた。 子供はじいさんばあさんになついているしたまに帰省した時も喜んでいたから大丈夫だと思うけれども、妻はなぁ…。都会育ちの女に今さら田舎の暮らしが出来るかな。
なんて切り出したら良いのか分からないまま今日言おう、明日こそ言おうと躊躇っている内に日にちばかりが過ぎちまった。
彼も同じである。
妻が実家に戻ってからだって、やり取りは続いていたのだ。言おうと思えばいつでも言えたはずなのに、気が付けば何も言えぬまま今日を迎えてしまった。
先輩は夏休みの宿題を先伸ばしにするタイプだったでしょう。
彼が尋ねると、よくわかるな、と言って先輩はほろ苦く笑った。
僕もそうだから、わかるんですよ。
彼もつられて苦笑した。
三つ子の魂百まで、って事かな。だとしたら一寸切ないな。悪い癖はいつまでたっても変わらない。変わっていくのは体ばかりなんてな。
先輩はそう言って酒をクッと飲み干した。
本当に。生まれ持った中身はなかなか変わるもんじゃないみたいですね。ダメだなぁ…。
彼もため息混じりに酒をクッと飲み干した。
女将さんは煮物を菜箸でひっくり返しつつ、眉をひそめて二人の話を聞きながらフムフムと時々頷いていた。孫のさっちゃんは先輩と彼におかわりの酒を注ぎながら、早く奥さんに話した方が良いですよ、等と心配そうに忠告してくれた。
しかしなぁ…嫌だ、別れようなんて言われたらどうしよう…。彼も先輩もうじうじと悩むばかりであった。
大丈夫。今なら大丈夫。本当はすぐ帰って面と向かってお話するのが常識だけど、あなた達は帰るとまた気持ちが萎えちゃいそう。電話でも大丈夫。心配ないから、今すぐ電話して心を込めて伝えなさい。ちゃんと謝るのよ。
女将がいきなり割って入るように大きな声を出して二人を叱咤激励した。
二人は女将の大きな声にビックリした。ビックリしたと同時に、気合いが入った気もした。
そうだ、今だ。今なんだ。今しかないんだ。やるんだ。今、やるんだ。
萎えていた臆病な心に晴天の霹靂とでも言うべき衝撃が伝わった。心にすっと稲妻が落ちてきて、急に闘志が湧いてきた。
よしと二人、ポケットからスマホを取りだし、カウンターに置いた。
いざ、勝負だ。
女将さんはしわがれた声で、早くしなさい等となおも二人を叱咤する。
よし、よし、やるぞ、かけるぞ。
まずは先輩が震える手で電話をかける。呼び出すコール音が小さな居酒屋に、先輩の心拍のようにこだまする。
もしもし俺だけど…。
先輩の声は微かに震えていた。
さぁ、次はあなたよ。
女将さんは教師のようにきっぱりと彼に言った。突き放された子犬のように、彼もまた震えわなないていた。
ごくりと唾を飲み込みながら、携帯を手に取る。黒光りした携帯がやけにずっしりと重たく感じる。
さぁ。
女将さんの声に、震える指でタッチする。
その時、ふっと画面が明るくなり、着信を知らせるコール音が手のひらに響いた。
今は懐かしい妻の名前が表示されている。
ふと妻の声がどうしようもなく聞きたくなる。
どうしても今すぐに会いたくなる。
やはり妻と暮らしたい。
二人で生きていきたい。
どうしたというのだろう。急に溢れ出るように湧き上がってきた気持ちにしどろもどろしながらも、確かな指で画面をタッチする。
もしもし…。
ああ…。
懐かしい妻の声だ。
彼の胸は不安とまた恍惚とに震えて止まらなかった。