その二
寒い外と違って暖かな車内は快適である。また座席の柔らかいクッションとその温もりとはまるで天使のようにいつも優しい。微かな揺れに誘われて、彼はいつの間にかうとうと眠っていたらしい。
次は希望ヶ丘…希望ヶ丘です。そんなアナウンスにふと目を覚ました。
半熟の眠い目を擦りながら、マスクの内で大きなあくびが出る。
だらしない彼にしては大したものである。長い通勤生活のお陰だろう。パブロフの犬みたいな条件反射的になっているのかも知れない。しかし、このコースも後僅かで乗らなくなるのだ。そう思うと、嫌でたまらなかった朝晩の通勤地獄もどこか懐かしくさえ思われた。
よろよろと立ち上がり、開いたドアからホームへと降りる。一陣の風が吹き付ける。風が酷く冷たい。体が一気にキュッと縮こまる。
改札を抜けて、駅前を今度こそ確かな足取りで家路を行く。
彼は酔いに任せて、何も考えていなかった。考えてどうなるものでもなかった。
出たとこ勝負だ。
彼は長い一本道をあくまで淡々と歩き続けた。
歩くこと約三十分。やがて懐かしの我が家が見えてきた。近所の新築に比べて一気に昭和の匂い漂うおんぼろ家屋だから、一目瞭然である。
急にまた足が重くなった。
残りのローンは多分幾らか色のついた退職金で半分近くはなんとかなると信じたいが、残りのローンはどうする?
また、すでにあちらこちら大分ガタの来ているこの家に、いつまで住み続けられるだろう。リフォームだって安くはないだろうし、建て替えるとなればそれこそ半端な金額ではないだろう…。いっそのこと、売り払って地方の安い賃貸アパートにでも住むかな…。
やっとたどり着いた愛しのマイホームを前に、考えることは金の事ばかりであった。
ああ、どうして生きていくのにはこんなに金がかかるのだろう…。別にいい暮らしをしたいとか、毎日美味いものが食いたいとか、贅沢をしたいとか思って生きてきた訳ではない。ただのんびりと細々と普通に世間の人並みに暮らしたいと思って生きてきた。
その普通が遠く難しい。
半端ではなく難しい。
立ち止まり、ため息が出てきた。
いかんいかん。
頭を振り、いざ家へとご帰還だ。それだけを考えよう。
重たい足に活を入れて、いざ勝負とまるで敵陣に乗り込もうかという気配であった。
ただいま。
敢えて明るい声で、誰も居ない玄関に挨拶をした。
居間に行くと、妻がぼんやりとテレビを見ていた。
お帰りでもなんでもない。味気ないものである。
妻も最近随分老けた。
結婚して十五年経つ。もう二人とも若くはない。けれども、なんだか切ない。
妻も、もとから格別の美人という訳ではないが、昔は笑顔の絶えない愛嬌のあるかわいい素敵な娘だったのだ。彼もその笑顔に惹かれたのだ。
いつからか、二人の会話に笑顔が少なくなり、なんだか事務的な会話に終始して互いに無邪気に笑い合うこともとんと無くなった。体重も出会った頃より二十キロは増えているだろう。別にいい。幸せ太りならなんぼ太っても構わない。疲れた顔でお菓子をボリボリ食べているのを見ると悲しくなるのだ。夫の安月給を助けるためにあくせく働いたストレスのせいだろうか?そうだとしたらひどく切ない話である。
さて、相変わらず怠そうな妻の背中を見つめながら、なんて切り出したら良いのだろうと考えていた。
立ち尽くしていると妻がふっとこちらを見たのである。
ひどく力のない目で、彼をぼんやりと見つめている。彼もまたどんよりした目で、妻を見つめていた。
互いに目を合わせたまま、昔はスラスラ出てきたはずの言葉が今は少しも浮かばない。
苦しい沈黙から逃れるように二人同時に、あのさ…と言葉を発した。
なに?と彼が聞く。
いや、そっちこそ、なに?と妻が聞く。
しんとした、更に気まずい空気になった。
テレビのバカ笑いがやけにうっとうしく居間に響いた。
いや、そっちからどうぞ。彼は手でどうぞとやりながら、妻に話を振った。
そう…。と妻は頷いて、よっこらしょと立ち上がりながら、ええとね、と切り出した。
私、しばらく実家に帰るわ…。
え、なんで?
唐突な言葉に狼狽える彼を無視するように、妻はさっと目をそらしてなおも続けた。
前から考えてはいたの。一度私達は距離を置くべきじゃないかなって。あなたは悪い人じゃない。それは私が一番よく知っている。でもそれだけ。つまんないって言うか、何て言うか、生活に疲れたの。一度リフレッシュしたいのよ…。
そう言ってから、取って付けたように、両親もいつまでも元気な訳じゃないからね…もう一寸一緒に暮らして親孝行もしたいのよ。
等と献身的な事を口にした。
彼は完全に出鼻を挫かれてしまった。
気まずい沈黙が居間に流れる。
妻は言いたいことを言うとスッキリした様子で、ご飯食べる?等と彼に微笑みながら語りかけてきた。
その疲れた微笑を見ていたら、なんだか切なくて何も言えなくなった。
ああ、大丈夫。食べてきたから。彼も作り笑いを無意識に浮かべながらそう答えて、話は呆気なく終わってしまったのだった。
一寸ほっとしていた。
先伸ばしにすればするだけ後で面倒な事になるとわかってはいた。けれども、妻の里に帰りたいという話のショックだけでも胃もたれしている今、これ以上のストレスは耐えられそうもなかったのである。
彼は黙々とシャワーを浴びてあくまで淡々と寝床に入った。何も考えたくなかった。
彼は自身で気付いていないかも知れないが、かなり無気力と気だるさとの病に侵されていた。何もかも面倒臭くて仕方がない。いっそのことこのまま消えてなくなれば楽かも知れない。
つまり、本人も気が付かぬ内に、三途の川がおぼろげに見え隠れしていたのだ。しかし、無気力ゆえにその川を渡るだけの度胸も気力も無いままに、いわば川沿いの土手辺りをふらついている心模様であった。
寝よう…。
果報は寝て待てと昔から言うではないか。
長い一日であった。
疲れ果てた。
これ以上どうすれば良いと言うのか…。
人生の唐突な事件に最早頭が働かなくなっていた。
やはり、生き物にとって睡眠は非常に大切である。幾らかでも脳と身体をを休ませて体力が回復すれば、気力もそれに伴い湧いてくるものだ。
少なくとも、三途の川はいささかでも遠退いた筈である。
それからの日々はなかなか大変だった。
翌朝、彼も幾らか元気を取り戻した様で、気怠そうな欠伸をしながらも、朝陽を浴びて気持ち良いと感じたのだった。些細な事だが、良いことである。
目が覚めて、妻はもう仕事に出掛けていた。しばらくは帰ってこないだろう…。
やはり夢ではなかったのだとへこんだりもした。
しかし、時間は待ってはくれない。
彼も急いで支度して、慌ただしく家を出た。
落ち込んでいても仕事は待ってはくれない。むしろ、山のような仕事を抱えて黙々と仕事をしている時は不安を忘れられるので、なんとか苦しい時も凌げたのかも知れない。
却って苦痛だったのは、ぎくしゃくしてしまった人間関係である。上司や同僚からのどこか腫れ物に触るようなぎこちない態度にも、その度に敢えて平気そうに微笑を湛えて接するのにも、いわば薄氷を踏むような、或いは苔を踏まないようにそっと庭石を渡り歩くようなひどくデリケートな神経が必要であり、不器用な彼には気の休まる暇もなかった。
今の仕事をしながらの、次の仕事探しも甚だ難航していた。
それはまぁハナから分かっていた事ではある。
特に資格もない、芸も能も社交性もない。会社からも見限られたような若くもない中年の人材を喜んで受け入れてくれるような人の良い会社などそうそうあるわけが無いのである。
やはり世間は無情である。お母さんではないのである。
しかし最初はまぁ大丈夫だろう、どうにかならない時はまたどうにかなるであろう、捨てる神あれば拾う神あり等と楽観的な気持ちも心のどこか片隅にあった彼も、通告から一月が経つ頃には様子が違ってきた。
本当にどこもかしこも門前払いをされて、面接すらも受けられない。
世間の冷たさとまた己の無力さとに、ほとほと参っていたのだ。
実家に帰った妻とは電話やメールでの簡単なやり取りだけが毎日続いていた。時折実家の両親や愛犬と一緒に撮った写真も送られてきた。
いつ以来見るだろう。
それくらい、妻はほがらかに笑っていた。
ああ良かった。
彼は心の底からそう思った。同居して互いにぎくしゃく苦しむのなら、別れた方が妻の幸せに繋がるのなら、それはその方が良いに決まっている。
寂しい話だが、仕方がない。
彼は居間で一人、自分で調理した袋入りラーメンをすすりながらそんな事を考えていた。
日々は慌ただしく流れて行く。まさに光陰矢の如し、である。
彼はその日その日を乗り越える事で精一杯だった。
まるで陸上のハードル走がずっと続いているみたいな、そんな日々であった。
いつ以来だろうか、久々に一人きりの気ままかつ切ない年末をやり過ごし、晴れて年も明けた。
一人きり、とぼとぼとした足取りで初詣に行った時の、本気で祈る気持ちは受験生の頃以来であった。いや、あの頃よりももっと切羽詰まった気持ちだったかもしれない。とにかく神でも仏でも、すがれるものにはみんなすがり付きたいような気持ちの新年であった。道々すれ違う人達、夫婦連れや家族連れ、若いのはカップルだろうか、白い息吐く散歩の犬、道端で寝転び欠伸をする猫。誰もが皆言うに言えない苦労をしているに違いない。けれども、切ない彼にはその誰もがひどく楽しそうに幸せそうに見えて仕方がなかった。
いけないことである。
無用の嫉妬は心を暗くするばかりである。
飲もう…。とにかく酒でも飲もう…。
近所の飲み屋も三ヶ日はお休みである。
彼は力なく帰宅すると、テレビを見るでもなく、しんしんと底冷えのするフローリングの居間に腰を据えて酒を飲んだ。
冬の落日はまことにはやくあっけない。
四時になり五時になりもう真っ暗になっても、彼は明かりをつける事もなく座り込んだまま酒を飲んでいたのであった。
年が明けて四日からはまた仕事ばかりの日々である。
そんなとき、もうすぐ辞めるという会社から一通のメールがあった。
なんのつもりだ。ムッとしつつも一応話だけは聞こうかと電話した。今度は人が足りないらしい。大量に人員を削減したつけがまわって来たらしい。今の給料は払えない、良かったら一年おきの契約社員の待遇で申し訳ないが、このまま職場に在籍して今の仕事を続けてくれないかとの事だった。
ざまあみろ。最初にまずそう思った。
誰が今さらとも思った。
しかし、一寸安堵したのも事実であった。
彼はただでさえ少ない給料も三分の一近く下がり、ボーナスも出ない、会社にとってひどく都合の良い条件である契約社員の話にしぶしぶ乗った。悩んで、切羽詰まった今、乗らざるを得ない状態でもあった。
まぁ、契約社員として生きながらゆっくり転職先を見つければ良いだろう。
その時こそ、引き留めてみてももう遅い。今度は彼が会社をける番である。
またあの満員電車の日々が戻ってくるのか…。切なくもありまた懐かしくもあり、なんだか空しい気もした。
思えば、生きること自体が日々ハードルを越えて走り続ける事である。
長い人生これまで何度もハードルを越えて生き抜いてきた。人生も半分近くを過ぎて、なんとか生きてきただけでも良しとしたい。
これからどこまでやれるか分からない。分からないが今は今を生きるしかない。サバイバル。
やれやれと先が思いやられながらも、まさにその言葉が頭に浮かんで離れなかった。
ワンランクもツーランクも給与水準は下がったとはいえ、やっと不安定ながらも当座の安定の目処がついた。
良かった。
彼は力が全身から抜けてしまった。
その夜は、久しぶりにぐっすりと眠られた気がしたものであった。