その一
あれはいつのことだったろうか。酒席の片隅で先輩がほろ苦く笑って言っていた。
不惑、すなわち四十にして惑わず…なんて、ありゃあウソっぱちだよ。身をもって知った。俺もこの前四十になったけど、なにも変わりゃしないよ。この前も課長に怒られて冷や汗かいちゃったよ…。昔の人は嘘つきか、よほど胆が座っていたんだね。
隣で聞いていた彼も笑って頷き、
まぁ、そんな言葉があるくらいだから、だらしないやつもいたんじゃないですかね。いい年をして戸惑っていてはいけないよという教訓的な言葉なのかもしれませんね。
先輩はお猪口をクッと傾けて小さく頷いた。
そんなご立派なやつばかりじゃないよな、何時だってさ…。冗談じゃないよ…。
課長、イライラしてると怖いですからね…。
彼も課長にしょっちゅう怒られている。
二人、苦笑しながらはぁとため息をついた。あの日を懐かしく思い出す。
先輩も彼と同様に会社でぱっとせず、上司からも同僚からも後輩からですら無能の烙印を捺されていたのだった。
向き不向きというものがある。先輩には失礼だが、先輩も彼もこの会社、というよりはそもそもこのアクティブかつ世知辛い現代社会に向いていないのかも知れない。スキルアップしろとか勉強せいとか、普段の一寸した仕事でもあたふたしているのに、どこにそんな暇とゆとりがあるというのか。バリバリできる超人みたいな人もいるにはいるから、やれば出来るのかも知れないが、いや、多分出来ないが、そもそも面倒くさくてやる気にならない。
正直朝起きて会社に行くだけでクタクタになってしまうのだ。
一日が終わり酒を飲んで帰ればすぐさま横になる日々を過ごしている。朝になり全然眠り足りない。そんな日々である。休みの日など一日横になっていたいのだ。テレビを見るのも怠いのに、ましてやお堅い文字や勉強などに食指が伸びる訳がない。
のんびり体質とでもいうのだろうか。疲れやすいとか。いや、そんな生ぬるいものではない。要は生まれついての怠惰なのだ。全体的にだるいのである。仕事も私生活も。
若い頃からそうだったが、年を重ねる毎によろずが面倒になっていった。
結局はダメ人間であった。それはダメ人間なりに、怠いなりに頑張ってきた積もりではある。本当にそれなりにだけれども。
二人とも、悪い人間ではない。むしろ人としてはかなり善良な部類に入ると思われる。けれども、世知辛い現代社会はコンプライアンスとか常識とかコミュニケーション能力とか有能なスキルなんかは求めていても、別段人の良心なんてものは求めてはいないのだ。
いま社会は、人手不足だという。けれども会社は、有能な人材が不足しているという意味のことを言っているだけで、彼や先輩みたいなぐうたら人間は少しも欲していないのだ。
彼等は会社の、大きく言えば社会の不良債権でしかなかった。
しかし、こんな日が実際にやって来るとは思ってもいなかった。いや、世知辛い世の中である。いつも心の片隅にぼんやりとした不安はあっても、敢えてそれから目を逸らしていたのかも知れない。
先月一杯で先輩もまた彼も会社の人員整理に伴って職場を去ることになってしまったのだ。
余りにあっけなかった。
三月ほど前だったろうか、冬の気配を感じ始めていたある日、先輩が上司に別室へ呼び出された。別室には課長の他の偉い人達もいた。先輩は法廷に立たされた被告のように縮こまり、渋柿みたいなしかめっ面したお偉いさんに取り囲まれながら、どうかな、そろそろ他の人生を考えてみてはどうですか?等と言われて書類を差し出され、あたふたしているうちに書類にサインしてしまったという。
げっそりした先輩が戻ってきた。その顔を見たときに、彼は嫌な胸騒ぎを覚えた。
次に上司に呼び出されたのは案の定、彼だった。
季節は丁度木の葉が色づき始める頃である。急に日の落ちるのが早くなる頃である。
びくびくしながら別室へ入ると、薄暗い部屋に早くもオレンジ色の斜陽が幾重ものグラデーションで射し込んでいた。
ま、座って下さい。
はぁ…。
着席してうつむいたまま、チラと居並ぶ偉い人達を見た。みな腕組みをして険しい表情をしていた。その中で、心なしか片隅に座る課長はいつになく悲しげな面持ちをしていたように思われた。
正直な話として、我が社の将来的な構想のメンバーに君は入ってはいません。
はぁ…。
仮に君が残ったとしても、今より厳しい環境に置かれるという事です。
はぁ…。
つまり、君にはまた新しい道を歩んでもらいたい。君はまだ若い。まだ第二の人生を歩いた方が希望があると思います…。
課長のいつもらしからぬ改まった口調はまるで学校の先生みたいだった。
彼はただ、うつむいたまま、はぁ…と繰り返すばかりだった。
どうですか。
はぁ…。
この書類にサインしてくれますか。
はぁ…。
では、さぁサインを。
はぁ…。
ああ、俺が一体何をしたって言うのだ。一生懸命やってきたじゃないか。なんでよりによって俺なんだ。なんで。
いや、待てよ。思えば入社以来ぱっとしないまま二十年…。これまで幾度となく会社にも上司にも散々迷惑をかけたからなぁ…。この仕打ちも仕方ないかな…いや、しかし等とつらつら考えながら、いつまでも黙ってじっとしている訳にもいかず、彼も一寸悲しげな面持ちで早期退職制度とかいう書類にサインした。
会社の組織の理屈の前では能無しの二人はあまりに無力だった。
彼らの他にも多くのダメ人間がリストラの対象となった。その数は全社員の一割を越えた。
誰もが優秀で努力家で熱心で社会から必要とされる人材ではない…。けれどもできる限りやってきたつもりだ。なのにどうしてこんな事に…。恨み言の一つ二つ湧いて出て、小さな泡のように弾けて消えた。
そうした人間は残念ながら淘汰されて行くしかない。分かってはいる。世の中は厳しい。会社はお母さんではないのだ。
当たり前の現実に直面して、彼は初めて青ざめた。
足取りも重く、別室から職場に戻る廊下が果てしなく長く長く思われた。
無論その後の仕事など手につくはずもなく、頭のなかを駆け巡る、どうしようという答えなき問いを延々と繰り返しながら長い一日を終えたのだった。
外に出ると、冷たい木枯らしが吹き荒れていた。
いや、終わりではない。
家に帰ってから妻にはなんと話したら良いだろう?
ただでさえ、この頃やたらと冷たい妻である。これはもしかしたら離婚を切り出されるかも知れない。
仕事も失い私生活も失い、くたびれた中年の体一つ残されたらどうしよう。果たして乗り切れるだろうか…。いや、乗り切ろうとする気力が保つだろうか…。
ふと、孤独死、なんて言葉が浮かび出て、頭から離れなくなってしまった。
今は特に都会では珍しくもないという…。
自分が寂しくひっそりと息絶えて、誰にも気付かれぬまま畳やフローリングの人形の染みになっている様が連想されてガックリ来てしまった。
これはまずい。
暗い想像の暗渠に踏み入れかけていた。
家路が果てなく遠く思われ、足が止まってしまった。
そうだ。まずは酒である…。とりあえず酒に酔うことである…。
これが彼の持つ自己防衛の本能なのだろうか?彼の足は自然と行きつけの飲み屋へと一目散に向かっていた。
その姿は嵐の予感に港へと急ぐ一艘の小舟にも似ていた。
いらっしゃいませ!
暖簾をくぐり、ガラガラと戸を開けると、古い歌謡曲がしんみり流れる昔ながらの居酒屋の風景である。
いつもながらの幸子さん通称さっちゃんと呼ばれている女将のお孫さんの女の子の元気な挨拶が嬉しい。
彼はなんとか笑顔で応じたかったが、さすがに今日は無理であった。
暗い硬直した表情のまま、カウンターに案内され、さっと出てきたビール飲み干し、つきだしのゴボウと蒟蒻のピリ辛炒めを一つ二つ摘まんでいるうちに、ようやくホッとしたのかやたらと長いため息が出てきた。まだ何も解決していない問題の山積した状態ながら、とりあえず、今日一日のショックを客観的に眺められたという意味では、肩の荷が降りたような一時の安らぎを深く覚えた。ガチガチに固まっていた体が一気にほぐれた気がしたのだ。
全く酒は魔法である。一時でも憂いを軽くしてくれる。
一息ついて、日本酒を頼む。冷えてきたので、熱燗にしてもらった。
熱いところを女将さん、といってもかなりのお婆さんだが、まぁ女将さんには違いない、その女将さんに最初の一杯をどうぞとついでもらって、キュッと一息に流し込む。
ああ、沁みるね…。
彼がうんうんと頷いているのを見て、
今日は変ねぇ。どうしたの?
等と女将が心配そうに聞いてきた。
亀の甲より年の功という。女将さんは流石である。彼の異変を見抜いていたのだ。
彼はいささか酔いが回ってきたおかげか、割りと落ち着いた口調で、いやぁ参りましたよ…等と苦笑混じりに今日の事の顛末を女将さんに話すことができた。
女将さんは聞いているのかいないのか、煮物を菜箸でかき回しながらフンフンと相づちを打っていた。
話し終えて、もう一度、参りましたよ…と呟く。女将さんはそう…と呟いたきり無言で菜箸を操っていた。カウンセリングでよく使われる、傾聴というやつだろうか。否定も肯定もせず、ひたすら相手の話に耳を傾ける。すると当事者は誰かに話したというだけでもいくらか安堵して、また物事を冷静に客観的に見られるようになるのだ。
女将がそんな傾聴なんて言葉を知っているとは思えないが、それこそ亀の甲より年の功というのだろう。
実際に彼は話しながら大分混乱していた頭を整理できた気がする。
或いは最近耳が遠いと嘆いていた女将さんである。ボソボソと呟くように語る彼の話の半分も聴こえていなかったけれども、一応相づちだけはうんうんと打っていたのかも知れない…。
女将の横にいたさっちゃんが先にえっと驚いて、大変でしたね、等と労りの言葉をかけてくれた。まだ大学生と若いが、しっかりしたいい娘なのである。
しばらく沈黙が続き、懐かしい歌謡曲がしんみりと流れていた。
唐突に女将さんははっきりとした口調で、大変ね、でもくじけちゃ駄目よ、しっかりしなさい、と彼の目を見て確かに応えた。
良かった。ちゃんと聴こえていたようである。
さ、今日は飲んで元気を出して…等とさっちゃんと女将さんが代わる代わるに慰めるように優しくお酌してくれるのだ。彼はほろっとして、進められるがままにお猪口を傾けていた。
気が付けば午後十時近くになっていた。
ほんの一杯のつもりで飲んで…と昔の歌じゃないが、随分長く居座ったものである。一合徳利も五本空けてしまった。
さぁそろそろ帰った方がいいよ…等と女将さんは心配そうに呟く。
そうだ。彼の住む家は遠く、電車で一時間半、駅から歩いて三十分というなかなかな立地なのであった。
家といっても築二十年を経た中古の分譲住宅である。それでも彼にとっては無理な算段の苦心の上に手に入れたいささか遠い夢のマイホームだったのだ。
まだまだローンも山のように残っている。
しかし、今は今だけはへいちゃらである。むしろ意気盛んですらあった。なぜなら彼はすっかり酔っていたからである。
全く酒は魔法である。何度後悔してみても止められぬ。その時だけは、どんな悲しみも不安も乗り越えられる気力が湧いてくる。
よし、帰ろう。
立ち上がり、お勘定を済ませてありがとうありがとうと外に出ると冷たい風が彼に吹き付けてくる。
なんのその、元気はつらつである。
駅に向かい、丁度来た電車に乗る。良かった。ギリギリ座れる席が空いている。最近足が怠くて揺れる電車に一時間立ち続けるのもしんどくなってきたのだ。
老化だろうか?
いや、学生の頃から怠かったから、元々なのだろう。肥りすぎなのかも知れない。
電車はまるで人生のように揺れたり加速したり減速したりしつつ、淡々と各駅に止まりながらも走り続ける。車内の人々は眠ったりスマホをいじったり、皆くたびれた顔をしている。やはり疲れていたのだろう、彼も眠くなって目を閉じた。