弓とスキー
弓道部の射初会では部内対抗戦が行われ、その後に余興として金的と扇的が行われるという流れになっている。
佐瀬杏花は対抗戦では4射皆中、余興で金的と扇的も射抜くという上々の結果で、顧問の教師からも今年は飛躍の年になるぞとベタ褒めされたが、他の部員からは特にお褒めの言葉をかけられなかった。一匹狼的な性格故に部内ではほぼ孤立状態だったからである。ただ実力はあるので、先輩後輩問わず密かに杏花をお手本にしていた。特に所作のひとつひとつは丁寧で、中学から弓道を始めたとは思えないほどのたたずまいは見習うべきところが多かったのである。
射初会が終わって寮に戻ると、いつの間にかルームメイトの衛藤譲葉が帰寮していた。帰省後なので一応は最低限の礼儀として「おかえりなさい」と声をかけたが、普段の譲葉であれば「ただいま」としか返さなかったはずである。全く興味のない故郷の話をされても困るので無愛想な方が杏花にとって都合が良かった。
ところが今日に限って、譲葉は「これ、どうぞ」と土産を渡してきた。
「イカの塩辛?」
「ええ。佐瀬さん、甘いのあまり好きじゃなさそうだから辛いものはどうかなと思って。一応、故郷の名産品だけど」
無口な譲葉がこれだけしゃべるのを聞いたのは初めてである。杏花は入学以来チョコレートにアイス、ジュースといった甘いものは一切口にしていないが、譲葉がそのところをちゃんと見た上で杏花の好みを把握していたかどうかはわからない。お互いにほとんど口を聞かないからお互いのことをほとんど知らずに一年間の同居生活を終えようとしている、というのが現状である。
「ありがとうございます。辛いのは好きです」
最後にありがとうなんて言葉を使ったのはいつだろう、と杏花は自問したが答えは見つからなかった。
「それは何?」
ルームメイトは杏花が抱えているものを指さした。射抜いて金紙が破れた金的と地紙が破れた扇的である。
「射初会の余興で射抜いたものです。射抜いたら景品として貰える習わしなんです」
「縁起物だね」
杏花は再びありがとうございますという言葉を使った。貰っても役に立たないのに何が縁起物か、と心の中で毒づいていたが。
それに引き換え、昔貰ったあの景品はろくな思い出がないのに何で今でも使い続けられているのかわからなかった。ついこの前も新たにろくでもない思い出が書き加えられたにも関わらず、今日も流した汗を拭うのに使った。
「何でこれだけは……」
杏花はZUKUDASEの文字を見てひとりごちた。
*
悠里は昨日の違反を許されたわけではなかった。経験者班から外されて、初心者班でインストラクターに混じりスキーを教えることになったのである。インストラクターと引率教師の目の届きやすいところに置かれて好き勝手に滑ることができなくなってしまったが、自業自得だと甘んじて受け止めて指導に当たった。
受け持ちは高等部2-3を中心とした班である。
「ほい、下を見ない! 目線は真っ直ぐ!」
先輩相手でも遠慮せずにやってみせ言って聞かせてさせてみて。高等部二年生は全学年の中でもかなり濃い目のキャラクターが多いため「キセキの世代」と呼ばれている程だが、悠里は物怖じ一つせず指導する。
「おーほほほ! 見なさいこのわたくしの華麗な滑りを!」
プルークボーゲンで得意げに滑っている御神本美香が両腕を上げてアピールしたが、バランスを崩してあえなく尻もちをついた。
「ぎゃははは! ミカミカ先輩上手に転びますねえ!」
「ちょっと! 笑わないでくださる!?」
美香はプンプンと怒りながらも悠里に助け起こされた。
「足の使い方が甘いっスよ。もうちょいこんな感じで膝曲げて……」
「こ、こうかしら?」
「そそそ。はいじゃあいってらー」
悠里はドンと美香の背中を押すと、美香は「あわわわ」と両手をばたつかせながら滑っていき、しばらくしてまた転倒した。もう少し鍛える必要があるようだ。
続いて滑ってきたのは野々原茜。茜は悠里と同じ料理部に在籍しているが、一年の秋からの中途入部のため在籍年数だけ見れば悠里の方が先輩にあたる。慎重に、しかし正しい姿勢でゆっくりと滑っていた。
「おー、茜先輩上手じゃん!」
「太田ちゃんの言う通りにしたらできたよ!」
茜は運動神経が良くない方だが、恋人に誘われて初めてスキー学習に参加した。初めは転んでばかりだったものの、悠里に「スキー板の開き方はおにぎりの形をイメージすること」と教えられてからコツを掴んだらしかった。
恋人の小山田恵理も後に続いてゆっくりと滑ってきた。彼女はかつて生死に関わる大病を患っていたものの、運動神経は良い方でスキーの上達も早い。
「茜ちゃん、かっこいい!」
恵理が声をかける。
「かっこいいだなんてそんな……あっ」
茜がバランスを崩して転んだ。すかさず恵理が滑り寄る。
「大丈夫?」
「ありがとう、自分で立てるから……」
茜がゆっくりと立ち上がり、恵理が体についた雪を手で払ってあげた。それから二人はしばし見つめ合ったが、悠里が大きく咳払いして近づいた。
「ほいほい、そこにいたら他のスキーヤーの邪魔になるんで後にしましょーねー」
「ごめんねー。じゃあ茜ちゃん、一緒に下まで滑っちゃおうか」
「うん!」
茜はゆっくりと滑り出し、恵理も茜のスピードに合わせて緩やかな斜面を降りていった。
「ああ、アオハルですなあ……ミカミカ先輩も彼女さんが来てたらもっと上達してたかもなあ」
美香の恋人もスキー学習に来る予定だったが、直前にインフルエンザに罹患して来れなくなったと聞いていた。
また一人滑ってきたが、綺麗なフォームでの直滑降だった。ペールピンクのスキーウェアに身を包んでスキーゴーグルをつけていても、漂ってくる大物特有のオーラを打ち消すことはできない。学園では「キセキの世代」の筆頭格で全生徒のリーダー的存在、外では人気アイドルとして君臨している美滝百合葉である。ちょうど悠里たちの目の前でスキー板を90°転回させて急停止した。
「ああ、スキーって楽しいっ!」
ゴーグルを上げて満足な笑みを浮かべる百合葉に、悠里は拍手した。
「ゆりりん先輩、どこで覚えたんスかそのテクニック? 初心者の滑りじゃないスよ」
「覚えたというか、ほら、こういう止まり方ってかっこいいじゃない。やってみたいなーってイメージしたらできちゃった」
「すげえ、さすがトップアイドルだ」
スキーは全くの未経験だと聞いていたが、たった一日二日で直滑降と急停止ができるのはよほどのセンスの持ち主である。彼女は2-2なので悠里の担当ではないが、もし担当だったなら美滝百合葉にスキーを教えたことを親戚に自慢していただろう。
さらにもう一人、プルークボーゲンで滑ってきた。女優の雨野みやび。今は星花女子学園の生徒天野雅である。こちらは2-3所属なので悠里が教えている。スキーをゆっくりと止めると、百合葉に声をかけた。
「百合葉ちゃんとても上手いじゃない。経験者班に混ぜてもらったら?」
「そうしたいんだけど、ケガでもされたら困るって言い出しそうだし……」
悠里はスキー開始前、教師から「天野さんだけは絶対にケガをさせないようきちんと見ておくこと」と何度も厳命されていた。百合葉の担当インストラクターも同じことを言われていたはずである。日本の誇る女優とアイドルがスキーでケガをして、万が一にも仕事に支障をきたそうものならば学校側が管理責任を問われるのは必至だ。
だが悠里は百合葉の意思を尊重した。彼女のスキーセンスであれば経験者班の中でも十分にやっていけると見ていた。
「あたしが掛け合ってみますよ」
「そんなことできるの?」
「ここのスキー場はあたしの家が経営しているんスよ? うだうだ言ってきたらお前んとこのスキースクールと契約打ち切るぞって脅しゃあ一発です」
「うーん、そこまでしてもらう必要はないかな……」
しかし悠里の提言はあっさりと受け入れられ、百合葉の心配は杞憂に終わりただちに経験者班に移籍となった。
「さて、雅先輩の方は調子はどうですかな?」
「太田さんの言うようにおにぎりの形を意識すれば転ばず滑れるようになったわ」
「おおー、良いですねー。体の軸を意識しつつ何度も滑って基礎を固めていきましょー」
と言った後、急に小声で耳打ちする。
「ところで昨日撮影した『あるぷす』のCM、いつ流れますのん?」
「見てたの? ていうか何でCM撮影のこと知ってるの?」
「まあ、一応あたしの実家が関係してるんでね」
「あ、そうか。確か今月の下旬には流れるはずだけど……人に言っちゃだめだよ?」
「あたしの口はあずきバー並に固いんで安心してください、ははは」
しかしすでに情報を漏れていることを雅は知らない。
「それじゃ、もう一個おにぎり作ってきてください。チェックしますんで」
「お願いね」
テレビや映画で見たことがある女優にスキーを教えるという経験は恐らくこの先無いであろう。昨日の罰の延長で指導をやらされているわけだが、これはこれで役得だと思えたのであった。
今回のゲストさん
御神本美香(藤田大腸考案)
登場作品『ウソから始まる本当の恋物語』(藤田大腸作)
https://ncode.syosetu.com/n9845gf/
野々原茜(しっちぃ様考案)
小山田恵理(藤田大腸考案)
登場作品『茜さす君に見初むる幸ありて。』(しっちぃ様作)
https://ncode.syosetu.com/n2860fz/