その夜
「おっ、電話だ」
悠里はスマートフォンを取り出して耳に当てた。
「もしもし? おぐっさんもう大丈夫かー? うん、うん。ちょっと待ってなー」
杏花に話しかける。
「おぐっさんが佐瀬さんと話をしたいって」
「小口さんがあたしに?」
「何か大事な話っぽいんで、ちょっと外に出ましょうか」
杏花は「ちょっとごめん」と一声かけてから、悠里と一緒に店外に出た。
「すみません、ちょっとのぞむっちがいる前で話しづらいと思って」
「……そういうことか。気を使わせて悪かったわね」
さりげなく弟を勝手にあだ名で呼んでいることには触れない。
「のぞむっち、あのことを知ってるはずなのに何であんな……」
「いや、多分知らないと思う。希望は意地悪なこと言わないもの」
と、杏花は弟をかばった。
「オーディションに合格して研修生になったとき、家族で一番喜んでくれたのは希望だったの。おねーちゃんはトップアイドルになれるって。だからあの事件が起きたときも、親には話せても希望には話せてなくて……星花に進学を決めたときもアイドルになるためだって信じて疑ってなかったの。今もそうなんだと思う。多分親もまだ話してないかも」
「でも、ずっと知らせないままってわけにはいかないでしょ」
「まあ、それは後に置いておく。今日のあんたは客なんだから目一杯食べて。さあさあ」
杏花は中に入るよう促す。そのとき、今度は本当に悠里のスマートフォンのメッセージアプリが反応した。
「わ、ガチでおぐっさんから来た。おおー、おぐっさんも焼肉食ってるー」
莉子は焼肉店での自撮り姿を送りつけていた。
「車酔いで潰れてたのに、元気になってよかったわ」
「本当によかった。じゃ、こっちも焼肉の画像を返信してやりますか」
二人は席に戻った。
「ごめん、大したことじゃなかったわ」
「はい、つーことでどんどん食べましょう。ほーらのぞむっちー、レバー焼けてんぞー」
「俺、レバーきらい!」
「鉄分取らなきゃ強くなれねえぞー。ほれほれ」
「やめてー!」
アイドルのことについて触れさせまいと、積極的に希望に話しかける。気遣いを察したのかか、杏花は呆れたように悠里を見る。
「レバーはあたしが食べてあげるから」
そう言うと弟の小皿に乗せられたレバーを拾って、そのまま口に入れた。
「美味しいですよね、レバー」
「ねえ? 希望も食べたらいいのに」
「やだよ。めっちゃ変な味するし……」
結局、希望はレバーに手を付けずじまいであった。ともかく、夕食は楽しい雰囲気のままで終えられた。
帰宅してからはまた希望とゲームをしたが、11時に差し掛かる前に希望が眠気を覚えたためにお開きとなり、悠里は杏花の部屋で寝ることになった。
「本当にベッドじゃなくていいの?」
「いいんですよー。あたし、実家にいるときは布団で寝てたんでこっちの方が気持ちよく寝れます」
布団に潜り込んだ悠里は「わ、ふかふかだ!」と、喜びの声をあげた。顔半半分まで掛け布団を覆ってふかふかぶりを堪能する。
「ねえ太田さん」
「なんです?」
「やっぱり、希望には悪いことしたかなって思ってる」
ベッドに座り込み、頬杖をつく杏花の姿が寂しげに見えた。
「佐瀬さんは何も悪くないです。のぞむっちだってわかってくれますよ。いい弟さんだし」
「うん。やっぱり、ちゃんと言ってあげなきゃいけないわよね」
「万が一怒ることがあってもそこはあたしがちゃんとフォローします」
「じゃあ、そのときは頼むわ。ひとまず寝ましょ。明日買い出しがあるし」
「はーい。じゃあ佐瀬さん、おやすみなさい」
「杏花、でいいわよ。悠里」
「!?」
悠里は布団から恐る恐る顔を出した。
「佐瀬さん、もっかい言ってもらえます……?」
「杏花でいいって」
「その先をもう一度……」
「悠里! ほらさっさと寝る!」
杏花は電気を消すと、悠里からそっぽを向く形でベッドに入った。
「じゃ、じゃあ改めておやすみなさい、きょっ……」
きょっ、きょっ、と何度か言葉を詰まらせて、ようやく「杏花さん……」とか細い声で名前を言えたが、クスッ、というかすかな笑い声がベッドから聞こえた。
「あんた、何を恥ずかしがってんの今さら」
その理由は自分でもよくわからない。一番の親友の莉子のことですら「おぐっさん」と苗字をもじったあだ名呼びにしているが、他の友人の中には下の名前で呼んでいるのもいるし、会ったばかりの希望ともそれなりに仲良くなったからのぞむっち呼ばわりしている。しかし杏花の場合は名前を呼ぼうとするとなると、どういうわけか喉に引っかかるような感触を覚えてしまったのだ。
「はい、おやすみ」
杏花はすぐに寝息を立てはじめたが、悠里は交感神経が活性化して、眠気がやってくることは夜明けまでついに無かった。