出発
2月三連休初日。夜明け前に三人は裏門前に集まっていた。悠里と杏花に加えて、莉子も墓参りについていくことになった。
長野に帰るに当たって同郷の莉子を置いていくのはどうかと悩んでいたところ、杏花は「一人でも多い方がみれいも喜ぶと思う」と、許可を出してくれたのだ。それで莉子を誘った次第である。
莉子は元々flip-flopの熱心なファンではなかったのでみれいのこともよく知らない。だが親友の誘いとあっては断れなかったし、その親友が仲良くしたがっている佐瀬杏花という人間を知ってみたいという気持ちが働いた。それにちょうど諏訪の実家に所用があったため、ついでに送ってもらおうということで同行を決めたのであった。
かつての悠里への言動のせいで杏花に対する多少偏見が残っていたが、自分の故郷諏訪の祭、御柱祭の話を杏花の方からしてきてから一気に距離が縮まった。杏花は小さい頃に一度だけ、両親に連れられて諏訪の御柱祭を観に行ったことがあるらしかった。
ちなみに今年は御柱祭が開かれる年であり、当然、莉子も参加することになっている。
「小口さんは実家に帰るの楽しみ?」
「楽しみですよー。合唱部で鍛えた声で木遣りを披露してあげるのが」
「ご両親も喜んでくれると思うわ」
杏花はそう言ったが、やはりどこか暗い表情をしていた。莉子と同じく墓参りの後に実家に帰るが、莉子と違って何一つ収穫がない。しかも入学の経緯が経緯な上、ほぼ丸一年ろくに連絡もしないままだったから、帰ると親から何を言われるかわからなかった。
「電話したときは何ともなかったんでしょ? 大丈夫ですよ」
悠里が杏花を励ましたが、「うん」という返事しか返ってこなかった。
「お、来たぞー」
一台のポルシェカイエンがやってくる。門の前で停車すると、運転席から悠里の兄、稔が顔を出した。
「どうだ、今度は一発で着いたぞ」
「朝早くからご苦労さん……って隣にいるのどなた?」
1月の帰省では長姉の恋が助手席に乗っていたが、今回乗っているのはマッシュボブの見知らぬ人物だった。
「大学のサークル仲間で百瀬っていうんだ。姉貴は仕事が忙しくてさ、代わりの運転手として連れてきた」
「百瀬です、よろしく」
ジェンダーレスな容貌をしているが、声を聞いてもまったく判別がつかなかった。成人男性でもこのぐらい高い声はいるし、同じく女性でもこのぐらい低い声はいる。
しかしこの百瀬という人物は、恐らく稔から杏花とみれいの事情を聞かされた上で運転手を引き受けたのだろうが、杏花のことを周りに吹聴しないかという懸念を抱いていた。flip-flopの暗部はとっくに公然に晒されているとはいえ、杏花については星花女子学園の情報統制もあり、表には出ていない。
妹の懸念を察したのか、稔が優しい声で言い聞かせた。
「大丈夫、こいつは信用できる奴だ。でなきゃ家の車に乗せねえよ」
「ウソついたらじぃじにシバいてもらうからな」
「おお、いいぜ」
「佐瀬さんはどうします? 兄貴ここまで言い切ってますけど」
杏花はしばらく考え込んでから、「お願いします」と答えた。
「よし決まり。じゃあここからは百瀬、頼むぞ」
「了解」
運転手が入れ替わり、悠里たち三人は後部座席に座る。真ん中に悠里が、左に莉子、右に杏花という順番である。
百瀬の運転は姉と違って丁寧だが、高い車を見ず知らずの人間が運転しているのでやはり不安が拭えない。それを稔がまた察したようで、振り返って言った。
「こいつの家の車もカイエンなんだ。乗り慣れてるから安心しな」
「はえー、百瀬さん家もお金持ちなんだ」
「いやいや、太田家には敵わないよ。ところでみんな、眠たくない? 長距離運転になるし、眠たかったら寝てもいいからね」
そう言われても大なり小なり緊張感が張り詰めていたおかげで、三人に眠気はやって来なかった。それでも稔が他愛もない話を交わしてくるうちに緊張感が和らいできて、悠里の方から百瀬にあれこれ質問するようにまでなった。その中で百瀬は松本市在住で、スキー客として何度か信州リゾートスキー場を訪れたことがあるということ、そばアレルギー持ちで信州そばが食べられないことなどを知った。ただし性別に関してはさすがに失礼だと思って聞かなかった。
高速道路に入っても渋滞はなく、一時間少しで県西部の湖濱津市に入った。
「百瀬悪い……この先のサービスエリア寄ってくれ。便所行きたくなってきた」
「何兄ちゃん、クソしてえの?」
直球的な発言に莉子は「太田ちゃーん」と呆れ、杏花には「もうちょっとオブラートに包んだ言い方できないの?」と注意されてしまった。百瀬は大笑いしている。
「笑うな。小学生かお前は?」
「ごめんごめん」
いくら緊急事態でも百瀬はスピードを出さず、安全運転で湖濱津サービスエリアまでカイエンを導いた。
駐車場に停めるや否や、稔は車外に飛び出していき便所に走っていった。それを見た百瀬がまた大笑いする。
「じゃ、外出て休憩しよう。まだ先は長いしね」
「はーい」
悠里たちも外に出る。2月とは思えない陽気で、大寒波が来た12月の方がまだ寒かったと感じるほどである。
「何か飲む? 奢るよ」
「いいんですか? じゃあ遠慮なく頂きます」
悠里は本当に遠慮なく、ちょっと値段が高めのカップ式自動販売機のコーヒーを選んだ。杏花と莉子に渋い顔をされたものの、百瀬が「何でもいいよ」とにこやかに言うから、結局二人とも悠里と同じものを頼んだ。
「稔、全然出てくる様子がないね。ちょっと向こうで話そうか」
百瀬が展望台を指差した。作りは小さく簡素だが、緑の山並みを見渡すことができる。展望台に上がると、ちょうど誰もいなかった。
「みれいさんの事件は、ボクにとって他人事じゃない」
唐突にそう切り出してきたから、悠里は「どういうことです?」と聞いた。
「中学生の頃に東京のとある芸能事務所にスカウトされてね、ほんの一時だけど芸能界に触れたことがあるんだ」
ウソをついているように見えなかった。稔が信用できる、と言い切っていたに加えて、顔立ちの良さが説得力を高めていた。
「歌やダンスのトレーニングがきつくて何度も心が折れかけてたけど、事務所の社長はいつも頑張れよって優しく励ましてくれたんだ。この人がいれば頑張れるって思ってたんだけど、下心があるのに気づかされるまでそう時間はかからなかった。ある日二人きりにされて――」
「それ以上は結構です。よくわかりましたから」
杏花が止めた。
「気を使ってくれてどうもありがとう。ボクの場合は社長をぶん殴ってどうにか逃げれたけど、親以外に事情を話せなかったし、家の外に出たら社長がいるんじゃないかと思ってまともに外を歩けなくなった。親は裁判を起こそうとしたけど上手く言いくるめられて、口止め料を渡されてそれで終わってしまったんだ」
「他の芸能事務所でも酷いことするのがいるんだな……兄ちゃんはこのことを知ってるんです?」
「いや、知らない。言ったら嫌われそうだし」
口調は平然としていたが、目に怯えの色がはっきりと見てとれる。悠里は「何言ってんですかー」と明るく笑った。
「兄ちゃんは結構良い奴なんで絶対に嫌ったりしませんって。妹のあたしが保証します」
「絶対に、か」
しばらく沈黙が続いた。気を悪くさせたかなと心配したが、やがて微笑んだ。
「わかった。折を見て話すことにするよ」
遠くから稔の声がした。
「百瀬ー、探したぞ? こんなとこで女子高生たちをたぶらかしやがって」
「何度も彼女をとっかえひっかえしてる君に言われる筋合いはないね」
「なっ」
悠里はけたたましい笑い声を立てた。
「佐瀬さんおぐっさん、兄ちゃんに連絡先聞かれても答えないように」
「聞かねーよ、バカ!」
目の前で兄妹漫才を見せられた杏花も莉子も笑いを禁じえなかった。




