決着
「なっ……」
銭永がうろたえる。まふゆも自分が殴られたことに気づくのが遅れしばし呆然としていたが、やがて醜い餓鬼のような顔に変貌し、アイドルとは思えないほどの汚い言葉で罵った。
「何しやがんだこのガキ!」
しかし悠里は、もう一度平手打ちを頬に打ち込んだ。まふゆは高級ソファーの上に崩れ落ち、銭永はパニック状態で叫びまわる。
「ああーっ!! ああーっ!! てっ、てめえっ、何てことを!!」
「すみませんねー。あたし最近、ふざけたこと抜かすヤツ見ると手が言うことをきかなくなる病気に罹ちゃったんですよー」
悠里は笑顔で言ったが、まるで獣が歯をむき出しにして威嚇しているようにも見えた。
悠里にとって、怒りの感情はエネルギーの無駄遣いでしかない。しかしこのときは心底怒っていた。
まふゆの赤いスーツには、異なった色調の赤いシミができている。その原因はまふゆの鼻から垂れている血である。まふゆは自分の手についた鼻血を見て、とてつもない金切り声を放って気を失った。
「ぼっ、暴行罪だ! おい伊ヶ崎! 俺の大事な商品に傷つけやがってどう落とし前つけてくれんだ!」
「あら、化けの皮が剥がれるのに時間かからなかったわね」
「てめえら全員訴えてやる! 特にてめえ、退学どころじや済まさねえぞ。あんず共々露頭に迷わせてやるからな!」
「ああん?」
悠里は、今度は握りこぶしを作って銭永の顔面に叩き込んだ。少女の力とはいえよもや自分までが殴られると思っていなかったようで、「ほぎゃああ!!」と情けない悲鳴を上げてのたうち回る。
「やりすぎよ!」
悠里に行動を呆然と見ていた杏花がようやく我に返って止めに入った。つい何分か前とは真逆の状況になった格好だ。
「ああ、また病気が出ちまった」
「何が病気よ。あんた無茶苦茶だわ……」
波奈が「二人とも、もう結構よ」と言って座らせると、
「後は太田さんのおじいさまに任せましょう。乙室長!」
「かしこまりました」
七海がリモコンのボタンを押すと、壁にかけられていた抽象画がスッ、と消え、別のものが浮かび上がってきた。それは白髪の老人の顔であったが、絵ではなかった。口が動き、声もしたからだ。
「おおー、悠里。相変わらず元気しとるみたいだな!」
「おっ、じぃじ!」
老人の正体は太田鉄心。悠里の祖父でオオタコーポレーション社長を務める、悠里の故郷の名士である。彼はWebカメラを通じて、故郷から天寿の応接室の大型ディスプレイに顔を出してる。悠里は波奈を通じて祖父に相談しており、密かに同席してもらっていたのである。
「え? え? 何? お前まさか太田社長の……?」
「そう。わしの孫じゃ」
鉄心はにっこりと笑った。目元は据わったままで。
「さて銭永さんよ、天寿さんからの頼みでちょっとあんたのことを調べさせてもらったが、まあ~悪どいことしとったんじゃなあ」
カメラ越しに写真を次々と見せつけられた銭永はひぃぃっ、と情けない声を出した。
一枚目。明らかにその筋の人間たちとの宴会をしているところ。
二枚目。複数の未成年と思われる女性といかがわしいホテルに入ろうとしているところ。
三枚目。ホテルの一室と思われる場所での銭永とflip-flopの集合写真。全員半裸で喫煙している。
「他にも、ちいと女の子には見せられん酷い写真がたくさんあるんだが……まあ~目も当てられんな。しかもflip-flopもここまで堕ちとったとは……わしゃ情けなくって涙が出るわい。あんたの親父は真面目だったが」
「ゆ、許してくれ。それが表に出たら俺は破滅してしまう……」
「人を一人殺しといて何抜かすか!!」
雷鳴のような怒声に、悠里がすくみ上がった。
「研修生を枕営業に使って自殺に追い込んだこともとうに知っとるわ!」
銭永はただ震えているばかりである。すると、鉄心は打って変わってなだめすかすような口ぶりに変わった。
「しかしのう、貴様の親父にはいろいろお世話になったからの。生きとったら大事な一人息子を追い込まんでくれと泣いとったじゃろう。佐瀬さんの契約書をわしによこしなさい。そしたら全て見なかったことにしてやってもいいぞ」
「ほっ、本当ですか。でっ、ではすぐにでもそちらに伺います! ほらまふゆ、起きろ!」
「ん……なっ、何? ちょっと龍ちゃん!」
銭永はまふゆを無理やり起こして、ほうほうの体で退室していった。
「乙室長、塩を撒いておきなさい」
「かしこまりました」
七海はいつの間に用意してたのか、お清め用の塩を応接室のドアめがけて撒いた。
「もうこれであいつらは二度と手出しできないでしょ」
悠里は今度こそ満面の笑みで胸を張ったが、杏花の表情は曇ったままである。
「だけど、『見なかったことにしてやる』って何……?」
ははは、と鉄心は口だけで笑顔を浮かべた。目元はやはり据わったままだ。
「佐瀬さん、お友達の件は本当に気の毒でしたな。だが安心なさい、銭永のバカ息子にはきちんと後始末をつけてもらうでな」
「どうやってですか?」
「まあまあ。それでは、わしはこれで」
ディスプレイの画面がいったん消えて、再び抽象画を映し出した。
「二人ともお疲れ様。ここから先は私たちの仕事よ。乙室長、送ってあげなさい」
「承知しました。では」
悠里たちは七海の後ろをついていく。後ろから「後は頼むわね」と波奈が声をかけると、「おまかせを」と七海が返す。口ぶりはどこか意味ありげであった。
エレベーターで降りる途中、七海が杏花に言った。
「私も芸能事務所で働いていましたが、芸能界の嫌なことはたくさん経験しましたし、見聞きもしました。その中でも銭永は悪質です。ただし、あれが芸能界の全てだと思わないでください。少なくとも天寿は、芸能人を尊重し光り輝かせるよう努力していますから」
「それは、わかっています」
「少し差し出がましいことを言いましたね。今日はゆっくり体を休めてください」
二人は七海の車の後部座席に乗せられたが、急に杏花が声を荒げた。
「あんた、手から血が出てるじゃない!」
「え? うわっ、なんじゃこりゃあ」
悠里はふざけて昔流行ったドラマの流血シーンのものまねをしたが、右手の甲、骨が出っ張っている箇所が赤く染まっている。銭永を殴ったときに歯に当たったのか、手を切ったらしい。
「これはいけません、手当しましょう」
「このぐらい大丈夫っすよ、かすり傷だし」
「だめです。あの男、変な病気を持ってたらいけませんから」
そう言いながらグローブボックスから医療品一式を取り出した。もしものときに備えているらしかった。
「手を出してください」
「あっ、あたしがやりますから運転をお願いします」
と、杏花が言った。
「いいのですか?」
「傷の手当ぐらいあたしもできます」
「では、お任せしますね」
七海から医療品一式を受け取り、「ほら、手を出しなさい」と、七海よりちょっときつい口調で指示して右手を出させると、ガーゼで血を拭い取ってから消毒液を塗りたくった。
「おあああー! ああーしみるぅぅ!」
「それぐらい我慢する!」
車はすでに動き出している。七海は学園への近道となる経路を進んでいるがお世辞にも運転マナーは良いものではなかった。道幅の狭い道を常識の範囲を超えたスピードで走り、対向車が道に入ろうとしたらクラクションを鳴らして止めるような荒い運転をしていたが、その中であっても杏花は手当てに集中した。
「ほら、できたわ。ちょっと大げさかもしれないけど念の為よ」
悠里の右手には包帯がしっかりと巻かれていた。
「ありがとうございます、佐瀬さん」
「こっちこそ」
その声はとても小さく、悠里の耳には届いていなかった。それでも悠里には何を言ったのか理解できていた。